第55話 止まらない犠牲
風が松の枝を揺らす。木漏れ日が三人の上でゆらゆらと動いていた。カガミは唯の横顔をじっと見つめている。ハナルは膝の上で手をぎゅっと握りしめて、唯の次の言葉を待っていた。
唯はしばらく沈黙していた。ポテトチップスの袋を弄りながら、何度も口を開きかけては閉じた。
「……大丈夫やで。」カガミが小さな声で言った。「どんな話でも、聞くから。」
唯は顔を上げた。その目は少し潤んでいたけど、しっかりと前を向いていた。
「……ユキとは、小さい頃からの知り合いなんです。」
「幼なじみ?」ハナルが首をかしげる。
「はい。同じ団地に住んでて、小さい頃からずっと一緒でした。」唯は遠くを見るような目をした。「ユキは小さい頃から、すごく音楽が好きで。私にいつも『バンド組もうな』って言ってた。」
「へえ。」カガミが感心する。
「でも――」唯の声が少しだけ沈む。「ユキは、私のこと、あまり……友達と思ってなかったみたいです。」
「え?」
「一緒に遊ぶのはいつも私から誘ってたし、話しかけるのも私から。ユキが私に『遊ぼう』って言ったことは、一度もなかった。」
「それって――」カガミが言いかけて、やめた。
「それでも、私はユキが好きでした。一緒にいると、なんか……楽しかったから。」唯は小さく笑った。「ユキが音楽の話をする時だけ、すごく生き生きしてて、私も嬉しかった。だから私も、ギターを始めたんです。」
「ユキさんと、一緒にバンドをやるために?」ハナルが聞く。
「はい。」唯はうなずく。「中学に入って、やっと私は人並みにギターが弾けるようになった。『一緒にバンドやろう』ってユキに言ったら、ユキは『まだ早い』って。」
「まだ早い?」
「うん。ユキは『もっと上手くなってから』って言って、一人でベースの練習を続けてた。それで――高校に入って、ユキはFAを見つけた。」
カガミの肩がピクッと動いた。
「あの時、ユキはすごく嬉しそうだった。『やっと私の実力を認めてくれるバンドが見つかった』って。」唯の声が少しだけ震えた。「でも私は……なんか、嫌だった。」
「嫌?」カガミが眉をひそめる。
「自分でもよくわからなかったんです。」唯はうつむいた。「ただ、ユキが私じゃない誰かと音楽をやるのが……嫌だった。それだけ。」
「それで、唯ちゃんはRBに入ったんやな。」カガミが言う。
「はい。ユキと同じバンドにはなれなかったけど、せめて同じステージに立ちたいって。それが私の精一杯だった。」
唯はポテトチップスの袋を置いて、両手を膝の上に重ねた。
「でも、ユキがFAを辞めたって聞いて……」唯の声が小さくなる。「すぐに『一緒にやらない?』って誘ったんです。ユキはしばらく迷ってたけど、『いいよ』って言ってくれた。それが、本当に嬉しかった。」
「その時、唯ちゃんは――」カガミが言いかける。
「はい。」唯は顔を上げた。「その前にうちのバンドにいたベーシストに……本当に酷いことを言いました。」
カガミとハナルは黙って聞いている。
「『あんたよりもユキの方が絶対上手いから、代わってほしい』って。その人、すごく真面目で、毎日遅くまで練習してて……なのに、あんなこと言ってしまって。」唯の声が詰まる。「それからずっと、謝ってるんです。誕生日にはプレゼントを送って、クリスマスにはカードを書いて。でも――」
「でも?」
「まだ、許してもらえてない。」唯は涙を拭った。「当たり前ですよね。私がしたことは、取り返しのつかないことだから。」
「唯さん……」ハナルが小さな声で言う。
「ユキはRBに入ってからも、ずっと変わらなかった。」唯は続ける。「メンバーには厳しくて、練習でちょっとミスしただけで怒鳴るし、自分の意見を押し通すし――」
「それで、みんなユキのこと――」カガミが聞く。
「みんな、嫌がってる。」唯は言い切った。「でも、ユキのベースの技術は本物だから、誰も文句が言えない。それで――私が間に入って、なだめたり、謝ったりしてる。」
「唯ちゃん、それ――」
「わかってます。」唯は笑った。「私が勝手にやってることです。ユキは頼んでないし、私がそうしたいだけ。ただ……ただ、ユキが居場所をなくしたら、あの子はどこにも行けなくなっちゃうから。」
風が強く吹いた。松の枝がざわめく。
「唯さん。」ハナルが立ち上がった。その目は、真剣だった。「ゆ、唯さんは、自分のこと、ど、どう思ってるんですか。」
「え?」
「わ、わたしには、唯さんがすごく……自分を後回しにしてるように見える。」
唯はハナルを見た。
「あ、アコさんのことがあった時も、ゆ、唯さんがカガミさんを引き抜こうとしたことも……全部、ゆ、ユキさんのためだったんじゃないですか。」
唯は何も言わなかった。
「で、でも――」ハナルは続けた。「ゆ、唯さんは、ユキさんのためだけに生きてるわけじゃない。ゆ、唯さん自身の人生もある。」
「ハナルさん……」
「私――」ハナルは深呼吸した。「私も、自分に自信がなかった。で、でも、バンドがあって、みんながいて、少しずつ変わってきた。ゆ、唯さんも、変わっていいんですよ。」
その言葉に、唯の目から涙がこぼれた。
「……ありがとう。」唯は声を絞り出した。「でも、私は――」
「唯ちゃん。」カガミが立ち上がった。「なんで、そこまでユキにこだわるんや。」
「え?」
「ユキにお前は無視されとるのに、なんでそこまでするんや。」
唯はしばらく黙っていた。そして、静かに言った。
「……私、孤独だったんです。」
「孤独?」
「はい。」唯はうつむいた。「小さい頃から、友達が少なかった。引っ越しも多かったし、親も忙しかったから。ユキが、初めて一緒にいても嫌がらなかった人だった。」
「でも、ユキは――」
「ユキは私を友達と思ってなくても、私はユキと一緒にいるだけで、なんか――」唯は言葉を探した。「なんか、自分がここにいてもいいんだって、思えた。」
カガミは何も言えなかった。
「それだけで、十分だったんです。」唯は笑った。「それだけで、私は頑張れた。」
「唯ちゃん……」
「だから、今も。ユキが音楽を続けられるなら、それでいい。ユキが夢を叶えられるなら、それでいい。私は――」
「それじゃ、唯さんはどうなるんですか。」ハナルの声が、珍しく強かった。
唯は顔を上げた。
「ゆ、唯さんの気持ちは、ど、どこにあるんですか。ゆ、唯さんの夢は、な、なんですか。」
唯は答えられなかった。
「ユキのためにギターを始めた。ユキのためにバンドに入った。ユキのために、他のベーシストを傷つけた。ユキのために頭を下げた。」ハナルは一息に言った。「で、でも、唯さんのことを考えたこと、あ、ありますか。ユキは、唯さんに、何をしてくれましたか。」
唯の手が震えた。何も言えなかった。
「……ハナルちゃん。」カガミがたしなめるように言う。
「す、すみません。」ハナルはうつむいた。「わ、私、言いすぎました。」
「いいえ。」唯が首を振った。「ハナルさんの言う通りです。ユキは、私に何もしてくれたことない。誕生日プレゼントくれたこともないし、私の話を聞いてくれたこともない。」
「じゃあ――」
「でも、それでいいんです。」唯は顔を上げた。その目には、もう涙はなかった。「私が勝手にそうしてるだけですから。ユキは何も悪くない。ただ、私が――私が、ユキを離したくなかっただけ。」
風が止んだ。松の木の上で、小鳥が一羽、鳴いた。
「……唯さん。」ハナルが近づいて、唯の手を握った。「わ、私、さっきまで、唯さんのこと、わ、わかってなかった。ごめんなさい。」
「謝らないでください。」
「で、でも。」ハナルは唯の目をしっかり見た。「ゆ、唯さんがそんなに、ユキさんのことを思ってるなら、ゆ、ユキさんも、いつかきっと――」
「いつか?」唯が苦笑した。「いつか、って、いつですかね。」
「わ、私にもわからないです。でも、わ、私たちは待てます。ゆ、唯さんが、疲れたって言うまで。」
その言葉に、唯の顔が少しだけ緩んだ。
「……ハナルさんは、本当に優しいですね。」
「そ、そんなことないです。カガミさんの方が――」
「オレは?」カガミが首をかしげる。
「か、カガミさんは、優しいというか……直球というか……」
「それ、褒めてるんか?」
「ほ、褒めてます!」
唯が思わず笑った。その笑顔が、少しだけ明るかった。
「唯ちゃん。」カガミが言った。「オレたち、唯ちゃんのこと、友達と思っとるから。ユキのことだけじゃなくて、唯ちゃん自身のことも、もっと話してくれ。」
「カガミさん……」
「それに――」カガミは続けた。「ユキのこと、オレたちも、もう少し様子見るわ。唯ちゃん一人に背負わせるつもりはないから。」
「一緒に?」唯が目を見開く。
「うん。一緒に。」
「……ありがとうございます。」
唯は深々と頭を下げた。その背中は、さっきよりずっと軽やかに見えた。
「ハナルちゃんに感動したみたいだね!」
「私はそんなことしてないわ。バカ。」唯は怒った。
「オレはただのバカや。」
「そ、そんなことないです!」ハナルは笑いながら言った。
二人離れたその頃、唯はまだ松の木の下に立っていた。風が、彼女の髪を揺らす。スマホを取り出して、ユキとのトーク画面を開く。最後にメッセージを送ったのは、三日も前。『元気?』と送ったが、返事はない。
唯はしばらく画面を見つめて――何も打たずに、スマホをしまった。
「……少しは、変われてるかな。」
自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
(From Dandy:
Yui's past is finally revealed.I ate something bad and got sick before the exam this morning.Hope you all enjoy it.)




