9.いいですよ?
休んでくれるとは約束してくれたものの、騎士団のすでに決まった勤務シフトは変えられないらしい。
それでも今後は休日を増やすと言ってくれたから、私は私で自分にできることをすることにした。まあ端的に言えば、ソニアさんのお手伝いである。
「雑用何でもどんと来い。任せてくださいね、ソニアさんっ」
「とっても助かるわ、ベルさん。万年人手不足だけれど機密文書も交じっているし、手伝ってくれるなら誰でもいいってわけじゃなかったのよ」
無表情に喜んでいるソニアさんに笑いかけつつ、私は肩の凝る書類仕事と格闘した。
メイドの仕事も嫌いじゃなかったけれど、こういう頭を使う仕事も意外と新鮮で面白かった。夫よ、出来た妻に感謝するがいい。
午前いっぱい黙々と頑張り、ようやくお昼休憩の時間になった。
美味しくクセ強な辺境料理を心ゆくまで堪能し、再び執務室に戻ったとき――……
それは起こった。
――怪我を負ったアレクシス様が、屋敷に担ぎ込まれたのだ。
◇
「――アレクシス様!」
知らせを受けて早々、私とソニアさんはアレクシス様の元へと駆けつけた。
心配そうに集まっていた屋敷の使用人さんたちが、私とソニアさんを見てすぐさま場所を空けてくれる。
「アレクシス様。そんな、どうして……?」
アレクシス様は玄関に力なく横たわっていた。
変わり果てたその姿に、私の足がみっともなく震え出す。すぐに彼の怪我の具合いを確かめねばと思うのに、なかなか手が伸びなかった。
……なぜならアレクシス様が、全身ぐっしょりと濡れそぼっていたからだ。
「私はひどい妻です。触るのにためらっちゃう……っ」
「当然だから自分を責めないで、ベルさん。綺麗な水であればまだいいけれど、魔物の体液の可能性だってあるのだから」
「嫌ぁぁぁッ!?」
ソニアさんの予想におののきつつ、それでも私はアレクシス様の傍らに寄り添った。顔を覗き込めば紙のように真っ白で、私はさっきまでのためらいなんて忘れて夢中ですがりつく。
「アレクシス様っしっかりして! 新婚早々私を未亡人にするおつもりですか!?」
「ぅ……っ」
「――ああ、そんなに心配しなくても大丈夫。瘴気のせいで気を失ってるだけで、怪我自体はほんのかすり傷だから」
この場にそぐわない、からりとした明るい声が降ってくる。
はっとして顔を上げれば、赤毛の長髪の男が私を見下ろしていた。こんな状況だというのにその表情は楽しげで、髪とおそろいの赤目が爛々と光っている。
「あなた、は?……ってそれより、かすり傷って本当ですか!?」
「うん。本当本当」
男は優雅な物腰でひざまずくと、至近距離から私を見つめてくる。
ぎょっとして身を引く私に、なぜか男はますます距離を詰めてきた。邪気のない顔でふわりと笑う。
「ベルちゃん。初めまして、可愛いね? 身代わり花嫁なんかやめにして、今からオレと駆け落ちしない?」
……あぁん?
「――コンラート。不道徳な誘いはおやめなさい。今この場で息の根を止めるわよ」
私が口を開くより早く、ソニアさんの絶対零度な声が降ってきた。
コンラート、と呼ばれた赤毛男は「おお怖い」と大仰に身を震わせると、ようやく私から離れてくれた。
「コンラート。旦那様に一体何があったの?」
メイドさんからタオルを受け取り、ソニアさんがアレクシス様の顔を拭き始める。慌てて私も手を伸ばした。
「ソニアさん、私が代わりますっ」
「ではお願い。透明だし臭いもないし、どうやら水で間違いなさそうね」
「そそ、オレがアレクシスを川の中に放り投げたんだよ。何せまともに魔物の返り血を浴びちゃったもんだから、応急処置で致し方なく」
私は二人の会話に耳を傾けながら、アレクシス様の騎士服の襟元をゆるめる。首元に新しいタオルを巻きつけ保温して、水に濡れて重くなった漆黒のコートをえいえいっと力任せに脱がせた。
(……ん?)
アレクシス様の固く握られたこぶしの中に、光る何かがあるのに気がつく。
長い指を優しく丁寧に外し、出てきたものに私はひゅっと息を呑んだ。
「そう。良い判断だったわね。瘴気にまみれた魔物の血だもの、早々に落とさなければ大惨事になるところだった」
「けどまあ、落とさないよりマシとはいえもう手遅れだったけどな。見ろよ、アレクシスを覆う真っ暗なこの瘴気を」
「あいにくわたしの目には何も見えない」
頭の上で流れる会話は、もう私の耳を素通りしていた。
夢見心地のまま、アレクシス様の手の中で光を放つ石に目を奪われる。
――まるで、夜の星空をそのままくり抜いたみたいな石だった。
濃い藍の石の中には、無数の銀の星が閉じ込められている。星々は一瞬だってじっとしていなくて、流れ星のようにきらめき、互いに合流し、小規模な爆発を起こしてはまた散らばっていく。
そうしてまた、よりいっそうの輝きを放つのだ。
「――……きれい」
ぽつりとこぼせば、「え?」とソニアさんもそれに気がついた。
長いまつ毛に縁取られた目を丸くして、おかしそうに頬をゆるめる。
「なるほど。旦那様はこれを取ろうと躍起になったというわけね?」
「大正解」
コンラートがにやりとした。
アレクシス様の手から星空の石をそっと取り上げ、眩しそうに目を細める。
「血まみれになりながらも怯むことなく、自ら魔物の胸を切り裂いて取り出したのさ。ベルちゃんが辺境に来てからずっと探し求めていたからな。絶対に手に入れなければと思ったんだろう」
「私の……ため?」
泣き出しそうになりながらコンラートを見上げれば、コンラートは笑顔でうなずいた。
私の手に魔石を握らせ、くいっと顎をしゃくってみせる。
「この魔石を強く握り込んで、意識を集中させてみな。魔石には全て『見魔』の付属効果がある。アレクシスを覆う、瘴気の姿がベルちゃんの目にも映るはずだ」
「……っ」
この星空の石が、魔石だったんだ……。
驚く私だったが、すぐにコンラートに言われた通り魔石をきつく握った。
未だぴくりとも動かないアレクシス様に目を移せば、その顔が見えなくなっているのに気がつく。
真っ黒なもやが、アレクシス様を飲み込んでいるのだ。
「……やめて。アレクシス様から、離れてよ!」
今まで感じたことのないほどの強い怒りが、お腹の底から込み上げてくる。
「どいて、どいてよっ。アレクシス様に近づかないで!」
闇雲に手を振り払うのに、もやは少しも薄まらない。
悔しさに涙を浮かべていると、コンラートが私の肩に手を置いた。
「無駄だよ、聞いているだろう? 瘴気は他者の力では祓えない。瘴気を浄化できるのは、あくまで瘴気に飲み込まれた己自身――アレクシス本人だけなのさ」
「…………」
そうだ。
確かにそう聞いている。
瘴気を浄化できるのは、癒やしの力だけ――……
「アレクシス様。アレクシス様。目を、開けて」
冷たい頬に手を伸ばし、何度も優しく叩いた。
「ほら、起きてください。瘴気を浄化しなくっちゃならないんです。できるでしょう?」
今にも触れそうなほどアレクシス様の耳に唇を近づけて、私は熱を込めてささやきかける。
「特別に、許可してあげますから。私に――……手を出して、いいですよ?」




