23.心のままに、泣けるのは
その姿が目に入った瞬間、トカゲみたいだ、とまず思った。
全身はざらざらした質感の緑色の皮膚に覆われ、体の両側から生えているのは腕ではなくコウモリのように薄い翼。
のっぺりとした平坦な顔で、真っ黒で大きな瞳だけがギラギラと光っている。
ひ、とマリアベルお嬢様が短く悲鳴を上げた。
「……っ!」
その途端、トカゲの魔物がぐるりと頭を回転させてこちらを見た。
ばっちり、目が合った。
「いやああああッ!!」
「――下がれッ! ベル奥様もだ!!」
口から悲鳴がこぼれて止まらなくなったお嬢様を、私はとっさに引っ張った。
真っ青なデズモンドが私ごとお嬢様を抱き締め、力ずくで後退させる。
デズモンドの腕の隙間からピエールさんに目をやれば、ピエールさんの手に巨大なシャベルが握られているのに気がついた。
「どぅりゃあああああッ!!」
ピエールさんがシャベルを大きく振りかぶる。
「頑張って、お客様っ! シャベルのお代わりならまだたくさんありますからねっ!」
横薙ぎにシャベルでぶん殴られ、魔物が商品棚に激突する。
会計をしてくれたお姉さんが、商品らしきシャベルを床にどんどん重ねていけば、ピエールさんが血走った目でお姉さんを振り返った。
「剣はないのかよ、剣はっ!?」
「うちは日用品店ですよ、ドロッパゲが切れるような剣があるわけないでしょっ!? せいぜい包丁、どっちがいい!?」
「ならシャベル一択だあああっ!! うおおおおおッ!!」
頭を振って起き上がりかけた魔物を、ピエールさんが再び力任せに殴打する。物が倒れる凄まじい音が店内に響き渡った。
(あれが……、ドロッパゲ?)
ぞわりと肌が粟立って、私は自分の体を抱き締める。
足がガクガクと震えて立っていられない。痛いほどに腕をつかまれ、私ははっとして振り返る。
「ベルさん。マリアベル様を連れて、今すぐにここから逃げてくださいっ」
「……に、逃げるって。言われても」
ピエールさんを置いてはいかれない。
頭が混乱してうまく考えがまとまらず、私はただ首を横に振った。
私に抱き着いて泣くお嬢様の涙が、服に染みて濡れる感触がする。その温かさに、やっと私は我に返った。
(入口は……壁が壊れてる。ドロッパゲは倒れているし、急いで横を走り抜ければ脱出できそう)
すばやく店内に目を走らせ、決心する。
デズモンドにお嬢様を託し、二人には辺境騎士団を呼んでもらおう。
「……っ、ベルさん!?」
お嬢様をデズモンドの方へと押しやった。
そのまま床に置いてあるシャベルに手を伸ばし、見様見真似で構える。
店員のお姉さんも同じく臨戦態勢で、シャベルを傾けニッと口角を上げた。
「ドロッパゲがこっちに来たら、協力して滅多打ちにしてやりましょう」
「が、頑張ります。……デズモンドさん、お嬢様をお願いします。助けを、助けを呼んできて!」
「駄目です、ベルさん! ここに残って戦うべきは、あなたじゃなく僕の方だ!」
私の手からシャベルを奪い取り、デズモンドが前に立つ。
「ど、どうかマリアベル様を。行ってください――……さあ!!」
「……っ」
逡巡している暇はない。
私はマリアベルお嬢様の手を引っつかみ、起き上がろうともがくドロッパゲの様子を確認する。
深呼吸して、一気に横を走り抜けた。
「なっ!? ベル奥さ――……しまっ!?」
「マリアベルお嬢様、走って!!」
華奢なお嬢様の背中を押して、私たちは店外へと飛び出していく。
店の外には人が集まり始めていて、「逃げて!」と必死で叫んだ。
「騎士団を呼んできて! 中にドロッパゲがいるの!!」
「――伏せろ、ベル奥様ッ!!」
ピエールさんのひび割れた声が追ってきて、私は反射的に地面に倒れ込んだ。
お嬢様の背中を押さえて身を伏せれば、うなじがチリッと粟立った。突風に髪があおられて、すぐ側を何かが通り過ぎていったことを知る。
「ま、まずいぞ! ドロッパゲが外に出ちまったっ」
「おい急げっ、屋内に避難するんだ! ドロッパゲが飛び回れない場所に逃げろっ!」
(……あ……!)
街の人たちのせわしない声を聞き、私はやっと己の失態に気がついた。
そうだ。
ドロッパゲは、障害物の多い場所では機動力が落ちて鈍重な魔物に成り下がる。
ピエールさんがせっかく、教えてくれたのに……!
「マリアベルお嬢様、一人で立って! すぐに店の中に戻って!!」
「だ、だめ……。たて、ない……わ」
私たちの頭上をドロッパゲが飛んでいる。
あっちへふらふら、こっちへふらふら。
羽ばたきを止めて落ちかけたかと思えば、すぐにグンと力強く上昇する。行っては戻り、離れては戻るを繰り返す。
――その間もドロッパゲの真っ暗な目だけは、ずっと私たちの方に固定されている。
「……っ、お嬢様、なら絶対にここから動かないで!」
「! いやッ、どこへ行くのベル!?」
飛び起きるみたいに立ち上がった私に、お嬢様は悲鳴を上げてすがりつく。
私は唇を噛み締め、彼女の手を取った。腰のベルトへと誘導し、プレゼントしたばかりの魔物鈴に触れさせる。
「……マリアベルお嬢様なら、大丈夫。この鈴が絶対に守ってくれますから。ね?」
チリンチリン、という場違いに平和な音を聞きながら、私は口元に無理やり笑みを形作った。
お嬢様の頬に流れた涙をそっとぬぐい、覚悟を決める。
(……もう、お嬢様を振り返ってはだめ)
そう自分に言い聞かせ、今度こそ立ち上がる。
頭上のドロッパゲに大きく手を振り、わああッ、とお腹の底から声を出す。真っ暗な瞳としっかり視線を絡ませてから、通りの向かいにある店を目指して駆け出した。
(……やっぱりっ)
ヒュウッと風が巻き起こる音がする。
粘りつくような視線が私を追ってきているのを感じる。
予想通り、ドロッパゲは私ひとりに狙いを定めたのだ。
(逃げる相手を、真っ先に狙うんだ。だからドロッパゲは、私たちを追って店の外に出ちゃったんだ……!)
死に物狂いで、走る。
あと少し。
あともう少しで、店の中に逃げ込める――!
「ベルッ! いやああああッ!!」
お嬢様の悲鳴に、ぎゅっと目をつぶる。
きっと今、私の真上にはドロッパゲが――……
「――ベル。しゃがみ込め」
頭上から低く落ち着いた声が降ってきて、とっさに私はつんのめるようにひざまずいた。真っ白な頭のままで、言われた通り背中を曲げて小さく丸まる。
「ようし、いい子だ。――そして終わりだ、ドロッパゲ!」
――ザシュッ!!
風を切る鋭い音のすぐ後に、ゴトンと何かが落ちる音がした。
その瞬間、周囲にわっと歓声が弾ける。
「領主様だ! 領主様が一撃で仕留めなさった!!」
「屋根の上から降ってきなさったぞ!」
「ははッ、まさかドロッパゲが頭上を取られるとはなぁっ!」
倒れ込んだときに膝を擦りむいたのか、じんわり痛い。
うずくまって震えるばかりの私を、力強い腕が抱き上げて立たせてくれる。
「ベル。遅くなってすまなかった」
「……っ」
怖かったろう、と優しく頭を撫でられて。
こらえていた涙が一気にあふれる。
包み込むように抱き締められ、安堵で胸がいっぱいになる。
「よしよし。もう大丈夫だから、泣くな泣くな」
「……む、りっ。とまんな、ふええっ」
「そうか、ならば泣け泣け。俺の側なら安全だ。安心して思う存分泣くといい」
アレクシス様の、温かな腕の中。
あやすみたいに背中を叩かれて、私は声を上げてわんわん泣いた。




