14. ヒビが入る
知れば知るほど辺境の魔物食は優秀で、肉どころか骨の出汁スープまでとっても美味しい。
煮込んでいるときは強烈な匂いを周囲に撒き散らすが、出来上がりはこってりまろやか、驚くほどに絶品なのだ。
「ソニアから聞いたぞ、ベル。最近まめに厨房に顔を出しているそうだな」
夫婦デートを終えて、十日ほど。
今日も疲れた顔で帰宅した夫が、夕食後のほっぺに癒やされている。
戦闘の興奮と緊張を引きずった暗い表情が、ゆるゆるに緩んでいく瞬間を眺めるのが最近の私の密かな楽しみになりつつある。二人きりで過ごす部屋の中、私はこっくりとうなずいた。
「ちゃんとソニアさんの手伝いを終わらせてからですよ? 厨房の皆さんもいつでもどうぞって言ってくださったし。魔物食と、それから境界の森産ヘンテコ食材に興味がわいちゃって、いろいろ教えてもらってる最中なんです」
一日中書類仕事と格闘するのは肩が凝る。
最初こそ気分転換を兼ねての厨房訪問だったが、そこは貴族らしさに乏しい辺境のこと。ちょいと奥様、お暇なら鍋を見といてくださいよ。あ、洗い物していただけるんですか有難い。出来立てを一口お味見いかがです?
みんなとっても気さくで優しくて、かつ人使いが荒かった。
けれどメイド歴の長い私は体を動かすのが苦ではないし、むしろいい気分転換になる。というわけで、近ごろでは時間を見つけては厨房に入り浸っているのだ。
「洗い物とか下ごしらえとか、けっこう重労働なんですけどね? でも大変な分、ご褒美の味見が最高でっ。出来立て熱々を指でつまんで口に入れるんですよ。カリッジュワッしあわせ、がんばった甲斐あったぁ~みたいな?」
「……ふっ。本当に、お前にはいつも驚かされる」
アレクシス様は私のほっぺから手を離すと、うつむいて肩を震わせた。
何かおかしなことを言ったかな、と不思議に思ってその顔を覗き込めば、アレクシス様はまだ笑みの残った眼差しを私に向ける。
――その瞬間、どきりと心臓が跳ねた。
うっかり触れてしまったら、火傷しそうなほどの熱を感じたから。
「……ベル」
息を呑んで硬直していたら、アレクシス様の手が再び私の顔に伸ばされる。
けれど今度は頬をつねるのじゃなく、大きく包み込むようにして当てられた。……熱い。
「俺は――お前が辺境に馴染んでくれて、この上なく嬉しく思っている。けれど、同時に……足りない、と焦燥を感じる自分がいるのも確かなのだ」
足りない?
言葉を失う私に、アレクシス様が目を細める。
熱を保ったまま、眼差しに切なげな光が揺れる。
「……夫婦としての試しの期間は、いつまでなのだ? 俺は正直、もう充分だと思っている。お前は辺境を好いてくれて、辺境の皆もお前を歓迎している。それなのに、俺たちはまだ正式な夫婦ではない。いつかこの関係を清算して――お前が辺境を出ていく日が来るかもしれない、と想像するだけで胸が凍えそうになる」
「……っ」
「だから一刻も早く、正式に婚姻したい。お前が生涯、俺の側を離れぬという確証が欲しい。ベル、どうか――……」
――パンッ!
気づけば、私はアレクシス様の手を大きく振り払っていた。
自分で自分の行動に驚いて、私は動揺して息を乱す。アレクシス様はと見れば、彼も驚いたように目を見開いていた。
その表情が、みるみるうちに悲しげに歪んでいく。
その顔を見て、私の胸もまた締め付けられるように痛み出す。
……傷つけた。
ひどく、傷つけてしまった。
「あ、私……っ」
「……すまない、ベル。俺が急ぎすぎたようだ。今日はもう、休みなさい」
私の顔を見ないまま、アレクシス様が私の肩を押した。
よろめきそうになりながら、私はうつむいてアレクシス様の部屋を出る。
自分の部屋に戻った途端、魂が抜けるように身体から力が失われていく。床に崩れ落ち、そのまま茫然とへたり込んだ。
◇
「ねえねえベルちゃん、アレクシスと何があったの?」
「…………」
「今のアイツ、そりゃあ酷い状況だよ? 全身に瘴気がもあんもあんで、アレクシスが歩いてんのか、瘴気が歩いてんのかわかんなくなるぐらい」
「ええっ!?」
芋を洗う手を止めて、私はぎょっとして振り返った。「ようやくこっちを見た」とコンラートがにやりと笑う。
「アレクシス様、そんなに瘴気まみれなの!? 魔石が今は手元になくて、私、ちっとも気づけなかった……っ」
あの夜以降、アレクシス様は一切私に触れてこない。
体調は悪くないから心配するな、と笑う彼に、私は何も言えなかった。アレクシス様を拒否したくせに、これまで通り妻として意見するなんてできなかったからだ。
「……全部、私が悪いんです」
エプロンを外し、私は厨房の椅子に崩れ落ちるように座り込む。
あれ以来私は気もそぞろで、書類仕事ではミスを連発する毎日だった。あきれたソニアさんに執務室から締め出され、厨房に居座るもののこちらでも失敗ばかり。
じんわりと浮かびそうになった涙を、私は乱暴にぬぐい取る。
「アレクシス様に、謝らなくっちゃ。謝って、なんとか瘴気を浄化してもらわなくっちゃ……っ」
「何を謝るの? あなたとは結婚できなくてごめんなさい、って?」
そんなの、ますますアレクシスが惨めになるだけだよ。
コンラートはそう言って薄く笑う。
私は絶句して彼を見た。
「アレクシス様から聞いたの?」
「聞いてないよ。でも君たちの様子を見れば一目瞭然。ソニアちゃんだって察してる」
私はきつく目を閉じてうつむき、厨房に沈黙が満ちる。
カチャカチャと控えめに食器の触れ合う音や、ぐつぐつと鍋の煮える音が聞こえてくる。
厨房のみんなも息をひそめていて、私は自分の情けなさにますます打ちひしがれた。
「……駄目ですね、私。皆さんに気を遣ってもらってばっかりで」
「駄目じゃないよ。アレクシスやオレらから求められているのはベルちゃんで、そしてベルちゃんには選ぶ権利があるんだから」
「…………」
少しだけ顔を上げれば、窺うようにこちらを見ていたシェフさんとばっちり目が合った。
うろたえるシェフさんの頭を叩き、下働きのおばさんが私にお茶を渡してくれる。カップの温かさが心に沁みた。
「……二度目、なんです」
ぽつりとこぼせば、コンラートが怪訝そうに眉根を寄せた。
私は笑って「今回で、二度目なの」と同じ言葉を繰り返す。
「家族になろう、ってせっかく言ってくれたひとがいたのに、うなずけなかった事。……なんでかな、嬉しかったはずなのに。一歩踏み出す勇気が出なくって、肝心なところで私はいつも臆病――」
「待て待て待てっ!? ベルちゃん、アレクシス以外からも求婚されてたのか!?」
「んまあッ一体どこのどいつだい!? あたしらの大事な奥様をっ!」
「……横恋慕野郎は許さん……!」
「あっ駄目ですシェフ、包丁を振りかざさないで!?」
「ちょっ、待って待って誤解です! 求婚じゃありませんからっ!?」
厨房がものすごい騒ぎになってしまい、私は慌てて待ったをかけた。
「養子にならないか、って言ってくださったかたがいたんです、昔! 私、両親ともに亡くしてるから」
「……ああ、なんだ。そういうこと?」
コンラートが気の抜けたように笑い、それからすぐに表情を引き締める。
「いや、笑い事じゃないよね。ベルちゃん、その年でかなり苦労してるんだ」
「苦労……? んん、自分ではそんなふうに思ったことはないけど」
首をひねりながら、改めて自分の心と向き合ってみる。
どうしてだか、躊躇してしまったのだ。かつても、そして今回も。
「私はこんななのに、相手が貴族だから気後れしちゃったのかな……。ううん、あの時は確かにそうだったけど、今回は違う。本当に、なんでだろ……?」
「ん~。よくわかんないけど、まあ思う存分悩んでみたら? 君に惚れてるのはアレクシスの方なんだから、いくらだって焦らしてやるといい」
「……はあ?」
コンラートの無責任な言葉に、私は思わず剣呑な声を上げてしまう。
……惚れている? そんなはずないのは、コンラートだってよく知っているくせに。
荒々しく椅子から立ち上がり、私はほどよく冷めたお茶を一息に飲み干した。
「私はあくまでマリアベルお嬢様の身代わりで、あくまでアレクシス様が結婚したがっているのは『マリアベル・ゲイツ』なのっ。それからアレクシス様が好きなのは、私じゃなくて私のほっぺだけなんだから!」
コンラートと厨房の面々が目を丸くする。
鼻息荒く言い切った私を見つめ、一拍置いて全員がガクッと一斉に脱力した。
「……うん。これは……」
「間違いありませんな……」
厨房にいる全員を見回して、コンラートがうめくように締めくくる。
「――全面的に、アレクシスが悪い」




