歩くだけで5万円
ギャンブルに溺れ、借金を重ねて、ついには会社の金に手を付けて解雇されたN氏。常にイライラとして行き場のない苛立ちを抱えていた彼は、憂さ晴らしに街中でわざと他人に肩をぶつける「ぶつかりおじさん」となっていた。
そんなある日、彼は高額の単発求人を見つける。『歩くだけで5万円。誰でも可。即日現金払い』
金に困っていたN氏は、疑いもせず飛びついた。指定された条件はただ一つ。
〈人混みをゆっくり歩くこと。ただし、決して避けてはいけません〉
当日──。N氏は雑踏の中をゆっくりと歩いた。向こうからお喋りに夢中な若い二人の女がやってくる。N氏はニヤリと笑い、わざと進路を塞ぐように肩をぶつけた。
「痛っ! なによ……」
睨みつける女たちを背に、N氏は歪んだ快感を覚える。その直後、スマホに通知が届いた。
『いいですね。その調子です』
どこかで監視されているようだった。
数時間の勤務を終え、N氏は肩の痛みと引き換えに、約束通りの報酬を手にした。しかし、悪銭身につかず。5万円は一晩でギャンブルに消えてしまった。
N氏は、再びバイトに申し込んだ。二回目なので慣れているはずなのに、なぜだが、前回に比べるとやたらとぶつかる回数が多かった。とはいえ、深刻な怪我になるようなものでもない。二回目もなんなくバイトを終えた。だがやはり、すぐに金は消えてしまう。
三度目の勤務中、入れ墨を彫った筋骨隆々の男が正面から現れた。本能的な恐怖で避けようとした瞬間、スマホが震える。
『避けてはいけません』
N氏はぎりぎりまで迷ったが、報酬への欲が恐怖を上回った。二人はぶつかった。その結果、男は激昂し、N氏を数発殴りつけて去っていった。顔を腫らしたN氏はそこで酷く後悔し「もう二度とやるものか」と心に誓った。
だが、喉元過ぎれば熱さを忘れる。しばらくはまともな仕事を選んでいたが、どうしてもあのバイトのことを考えてしまう。数週間後、再び金が尽きたN氏の目に飛び込んできたのは、報酬50万円の文字だった。
「一回耐えれば、人生をやり直せる」
異常な高額に胸騒ぎを覚えながらも、N氏は指定された場所へ向かった。
歩き始めて数十分、異変に気づく。これまでの比ではないほど、次から次へと人がぶつかってくるのだ。肩はすぐに限界を迎えた。
耐えかねたN氏はリタイアを申し出ようと電話をかけたが、「契約終了まで、歩き続けてください」と一蹴されてしまう。
恐怖に駆られ、N氏は駅へ逃げようとした。しかし、逃げられない。無数のぶつかりおじさんがぶつかってきて、思うように進めなかった。
周囲を見渡すと、そこには自分と同じように、虚ろな目で彷徨う「ぶつかりおじさん」たちの群れがあった。彼らは無言で、執拗に、N氏に肩をぶつけてくる。唯一ぶつからない方法は、ぶつかりおじさんの流れにそって歩くだけだった。だが、その方向は家とは反対方向だった。
やがてN氏は気づく。ぶつかりおじさんたちは同じルートを永遠と歩き続けていたのだ。ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる……。
ふと、足元に柔らかな感触があった。
見下ろすと、そこには何度も踏みつけられ、ボロ雑巾のようになったぶつかりおじさんの死体が転がっていた。
N氏は悟った。自分もまた、この不気味な歯車の一部になったのだ。
死んで動かなくなるまで、この死の行進から解放されることはない。
背後からまた一人、男がぶつかってきた。




