第十九章(4)
ディールという村の名前は、ルカさんからも以前聞いたことがある。青の道の遥か上流にある小さな村。最近まで藍猫の教えすら届いていなかった、アピスの辺境の村。
「ディールに我々アルベルト派の人間が初めて赴いたのは、十年近く前のことだ」
ランディスさまは重そうな口を開き、淡々と昔話を始めた。
「何の変哲もない村だった。自給自足で成り立っており、村人はよく結束していた。極端に貧しいものも極端に欲深いものもいない。布教がしにくい村だなと思ったくらいで、初めは大して気にもしなかった」
それが百八十度変化したのは、ルカさんの存在を知ってから。布教活動が軌道に乗りしばらくして、村人から密告を受けたのが事の発端だった。
「村のはずれにある怪しげな屋敷に、銀色の髪の子供がいると報告を受けた。"藍猫様の教えにある『白子』はあの子じゃないか"と問われたのだ。我々は困り果てた。白子というのはアピスヘイルでしか生まれないと教典に書いてあるのに、そこら辺でうろうろされていては示しが付かない」
仕方なくランディスさまは、現地の聖職者にルカさんを隠すように命じた。聖職者たちは屋敷に隠れ住んでいたルカさんを強引に連れ出して、教会の一室に閉じ込めた。
「白子が自然発生するという話は昔からあった。だから大教会にはマニュアルがあったのだ。アピスヘイル以外の場所で白子が見つかったらこうするようにと。我々はそれに従ったまでだ」
わたしはあまりの身勝手ぶりに腹が立ったけど、ランディスさまの憔悴した表情を見て何も言えなかった。ランディスさまはこの一連の出来事をひどく後悔しているようだった。
その理由は、話の続きを聞いて薄々ながら理解できた。
「あの白子を隠したのは、仕方がないことだった。しかしマニュアルによれば、周りに発覚しないように早めに他国に売り渡すのがよしとされていたが、私にはどうしてもそれができなかった。あいつはまだ子供で、テオドアよりもいくつか上なだけの年頃だったから。この周期の白子、テオドアとお前が無事に旅立つのを見届けてからでなければ、あの白子を安心して手放す気になれなかった」
予備になる、と思ってしまったそうだ。もしわたしたちが病気になったり逃げ出したりすれば、アピスヘイルは藍猫から手痛い罰を受ける。身代わりがいれば、その事態を防ぐことができるとランディスさまは考えてしまった。
「私のその邪な考えを藍猫様は見抜いていらっしゃったのだろう。大切に育てていたテオドアが急におかしくなり脱走した。私は身代わりを取っておいて良かったとあいつを連れてきたが、あいつは親と無理矢理引き離したことが原因か、既に精神がおかしくなっていた」
ゆるく首を振るランディスさま。彼は自分の責務を果たそうとしただけなのかもしれない。だけど彼が気付かない内に、色んなものがぼろぼろに壊れていた。
「それでも私には、羊角の白子を送るという義務があった。テオドアを探させたが見つからないまま、旅立の時を迎えざるを得なくなった。あのおかしな白子でも、一応白子だ。藍猫様も許してくださるだろうと祈っていたが、やはり駄目だった」
ランディスさまは、ガックリと肩を落とす。彼はわたしを責めず謝罪までしてくれたけど、それは自分が悪いと思い込んでいたからなんだろう。
ーー自分のせいで、大切な人たちを不幸にしてしまった。
そう考えることの辛さを知っているわたしは、彼に何も言うことができなかった。
「あの子供の母親、たしか名前はティカと言ったか。金色の髪をした若い女で、姉なのか母なのか微妙なところだったそうだ。現地の者の話だとひどく狂暴な女で、子供を返せと毎日のように喚き教会の周りを徘徊し、窓を割ったり壁を壊したりと大変に暴れまわったようだ」
対処に困った聖職者たちはふたりを別々の場所に閉じ込めるなどしたけど、度々ティカさんが脱走してしまうので、ついにルカさんを別の町で管理することにした。
「あいつをアピスヘイル近郊まで連れてきたのは五年前のことだ。その時に母親はディールの屋敷に戻したと報告を受けている。それから続報は特にない。子供のことは諦めて元通りの生活をしているだろう」
私が知っているのはそれくらいだと言って話を切り、ランディスさまは元の疲れた表情に戻った。
わたしはしばらく無言で考えていた。ランディスさまは大してルカさんのことを知らないみたいだし、ルカさんが彼を嫌う理由が良くわかった。金輪際、彼をルカさんに会わせたくないと思った。
やっぱりルカさんをよく知る人物は母親のティカさんしかおらず、彼女はディールの屋敷にいる可能性が高い。わたしは視線を上げて口を開く。
「ランディスさま。わたしはディールに行きたいです。連れていってもらうことはできますか?」
「ディールに、か……」
ランディスさまは、渋い顔をして考え込んだ。すぐに否定しないところに、彼の贖罪したい気持ちが本気であることを感じる。
少し嬉しく思ったけど、その思いも虚しくランディスさまは首を横に振った。
「駄目だ。ディールは田舎だ。船と馬で飛ばしても数日かかるだろう。往復で一週間を越える。私たちは誰もその旅に付き合ってやれん」
「地図と乗り物を貸していただけたら、ひとりでも大丈夫ですよ」
「私たちにそんな余裕はない。船も馬もハクトに借りておるのだ」
ランディスさまはウィスさんを見た。どうやら彼はウィスさんをハクテイの白子だと勘違いしているらしい。
「虎白様は協力してくださらんのか。アピスヘイルに進攻するのに合わせて、カノンだけ道を外れれば良い。明日にでも出発することはできないのですか」
「…………」
ウィスさんは黙って首を横に振る。ランディスさまは残念そうに肩を落とした。
「そういうわけだ、カノン。悪いが、私たちにしてやれることはない。地図を描いてやるから、それで許してはもらえんか」
「……はい。……ありがとうございます」
彼はアピスの詳細な地図を本棚から引っ張り出し、赤い絵の具で線を引き、一ヶ所に丸を付ける。
確かにディールは遠そうだ。青の道がいくつかに分岐した細い川のほとりにあるようだけど、どうやらその川を船で遡上できないようで、ランディスさまはある箇所から陸に線を引いていた。
陸路は山をふたつ越えなければならない。山を越えたことなんてわたしにはない。山には危険な動物がたくさんいると聞くし、道に迷うと出られなくなるとも聞いた。
「僕も色々当たってみます。どうにかティカさんを連れてきましょう」
「はい……お願いします」
ランディスさまの住居を出て、ウィスさんと別れる。わたしはとぼとぼとハクテイに戻り、ルカさんの牢屋まで道を尋ねながら苦労して戻った。
リンさんに事情を話し、何とかならないかと問い掛けたけど、返ってきたのは否定の言葉だった。
「ごめんなさい。ルカさんを助けたいのは山々なんですけど、私たちはイグニアのことで忙しくて……」
リンさんは彩謌隊では高い地位にあったけど、ハクテイ全体としては大した権限がない。虎白さまに頼むしかないのだろうけど、わたしの中で彼の存在は恐怖に変わりつつあった。
「マグノリア。『縮地』でディールに飛べないのかしら」
『"縮地"で飛べる距離は短いわ。ここからは無理よ』
「藍猫か橙戌の力でディールに行くことはできないの?」
『移動系の彩謌を得意とするのは狐翠だわ。藍猫も橙戌もあまりそういうことはできないの』
「そっか……」
『ごめんなさいね』
マグノリアも黙り込み、わたしは再びルカさんとふたりきりの淋しい地下牢で、彼の苦しそうな様子を見守るしかできないでいた。
額に触れる。熱はだいぶ下がってきたようだ。額は脂汗でいっぱいで、わたしは乾いたタオルでそれをきれいに拭いてあげた。
今の髪の毛は金色だった。熱が下がったのは良いのだけど、もしかしたらそれはタイムリミットが迫っている兆候なのかもしれないと思う。体を回復させている間だけ悪意は悪さができないでいるのだとしたら、体が回復してしまえば彼が何をするのかわからない。
それを見越して虎白さまは、またわたしの持っていた毒を投与してルカさんの体を傷つけるかもしれない。リンさんたちが毎日わたしたちの様子を見に来るのは虎白さまに命じられてのことだろうから、わたしは薄々そうじゃないかと感じていた。
二回目の毒にルカさんは耐えられるだろうか。耐えたとしてもルカさんの意識は段々と磨り減っていくばかりで、快方に向かうことはないだろうと確信できる。ティカさんを連れてくるなら、できるだけ早い方がいい。
やっぱり明日にでも、ウィスさんに頼んで船と馬を借りようかしら……。そう考えていた時だった。不意に背後から声が聞こえた。
「こんなところにいたのね。やっと掴まえたわ……」
びくりとして振り返ると、そこにいたのは驚くべき人物だった。
一目見てわかる。彼女はハクテイに初めて来たときに会った謎の女の子。確か名前はノギスと言った。
彼女はわたしのすぐ背後にいて、熱心にルカさんを見つめていた。
「やっと掴まえた……?」
わたしはそう問いながら、ハッと気が付く。そういえばあの時ノギスがわたしに見せた金髪の男の人は、チャフさんに良く似ていた。
まさかノギスが探している人って、チャフさんのことだったの?
「そうよ。私が探していたのはこの人」
わたしの考えをいとも簡単に読んだ彼女はそう答える。
「私はこの人に恩があるの。だからずっと探しているの。探し続けているの」
「恩?」
頷くノギス。ルカさんの夢の中にノギスの姿はなかったけど、もしかしたら同じ世界に暮らしていた前世の記憶があるのかしら。ノギスもまた、司彩以外の何者かに取り憑かれた白子なの?
「この世界のこの人は見つけたけど、この人を救う方法はすでにあなたが知っているみたい」
「えっ……」
ノギスは黒くて真ん丸の瞳をこちらに向けて、無表情のままこう言った。
「私はこの人を救いたいけど、この世界のこの人を救えるのは私じゃないみたい。きっともう、あなたにしか救えないんだわ」
「わたしにしか……」
「そう。あなたが救うの。でも私は、それを手助けしてあげられる」
まっすぐに向けられた瞳は、瞬きもなくわたしを映し続けた。その様子は無機質で、人形のような女の子だと思った。
人形。人形……。わたしが今まで見てきた人形の中でも、ノギスは最も人形らしい容姿をしていると言えた。
でも、人形なのはわたしたちのほうなのかもしれない。知らない誰かにいつの間にか操られ続けている、わたしたちのほうなのかもしれない。
悪意に操られていたルカさんやわたし。虎白さまに操られていたリンさんやハクトの人たち。藍猫に操られていたオズワルドさまやランディスさま、アピスヘイルの人たち。
みんなみんな人形。司彩に直接的に操られている時だけじゃなくて、それ以外でもわたしたちは自意識を欠いた人形だ。
「わたしはルカさんを救いたいです。力を貸してくれるんですか?」
頷くノギス。わたしは直感的に感じた。
彼女はわたしたちと違う。誰にも操られていない。確かな自意識のもとに、わたしに力を貸してくれようとしている。
「お願いします。わたしはディールという村に行きたい。そこでルカさんのお母さまに会って、ルカさんの元に連れてきたいんです」
ニコリと笑うノギス。その笑いは僅かな頬の綻び程度のものだったけど、わたしをホッとさせる力があった。
「ディールに行きましょう。私があなたを村まで運ぶわ」
ノギスの指が宙を舞う。透明な鍵盤でも弾いているように軽やかにダンスを踊らせた後、力強く人差し指を跳ねさせた。
彼女の足元を中心に放射状の模様が広がる。
驚く間もなく、わたしたちのいた地下室の壁が緑の木々に変わっていった。




