第十九章(2)
そこは、廃墟だった。
元々は大きくて立派な街だったのだろうけど、何かの災害に見舞われたようだ。建物はほとんど骨組みで、泥だらけでめちゃくちゃだった。
カンカンと太陽が照り付け、泥は表面が固まりひび割れている。風が吹き、砂が舞い上がり、辺りの視界はあまり良くない。
「ねぇねぇ、あっちに行ってみようよ!」
可愛らしい女の子の声がする。ルカさんは手を引っ張られてどこかへ連れて行かれる。ボロボロと崩れる地面は歩きにくくて、何度か転びそうになった。
「あっちってどっちだよ。あまり水がないんだ、もう帰らなきゃまずいだろ」
「でも今日は全然成果がないんだもん。あっちのほうは最近行っていないから、まだ虫とかが残っているかも」
「そうだな。行ってみるか……」
肩までのびた赤毛をツンツンと跳ねさせた女の子。彼女は瓦礫の隙間に入り込み、地面を懸命に掘っている。ルカさんも近くの瓦礫を持ち上げて、地面を掘り始める。しばらく掘ると、白い幼虫が何匹か見つかった。
「おい、イブ。いたぞ!」
「え? ほんと?」
イブと呼ばれた少女は、こちらに掛け寄って満面の笑みを浮かべる。
「流石はチャフだね。虫取りの名人だ!」
ほわんと暖かい気持ちに満ち溢れる。ヒマワリのように朗らかな笑顔。ちらりと覗く八重歯がチャーミングだった。
瞳孔が細長い、猫のような目をしている。もしかしたら、獣人さんの血が混じっているのかもしれないと思った。
彼らは虫を採集した後、瓦礫の山を乗り越え、崩れ掛けた坂道を上っていき、小高い丘にある施設に帰っていく。そこにはたくさんの人が共同生活をしていた。たくさんといっても、百人もいないくらいだろう。
外はとても暑く、人が生きていくのは無理だと思われるほどだったけど、不思議とこの建物の中は涼しかった。ひとつしかない窓からは街が一望できた。
ここはどこにあった街なのだろう? アピスヘイルの数倍は大きくて、すぐ向こうに広い広い海が見えた。海には神樹が見えなかったから、これは内なる海ではない。外なる海だとすると、仕都のどこかなのかしら?
でも眼下に見える街並みは、今まで見てきたどんな場所にも似ていない。丘の上の崩れずに残っている家々は、カラフルな壁と屋根瓦で、一軒一軒形が違ってなんだか不思議な感じだった。道路の脇には変な棒がピョコピョコと生えて、その棒から棒に細い線が繋がっている。物干しみたいだと思ったけど、背が高すぎるから違うのだろう。丘の下にも棒の列は続いていたけど、線はブチブチに切れて垂れ下がってしまっていた。
この施設での生活はとても奇妙なものだった。先ほど取ってきた白い幼虫は食用だった。この施設にまともな食べ物は無いようで、虫や気味の悪い肉団子をみんなで分けあって食べていた。
地震や水害が多発していた。異常気象で気温が上昇しているらしく、そのせいで施設からほとんど外に出られない。生きていくのがやっとで、ルカさんの前世はいつも死を意識していた。彼はどうやって死ぬのが一番良いのかいつも夢想していた。
その内容はほとんどがイブちゃんを庇って華々しく散る勇敢なものだった。ルカさんの前世はイブちゃんをとても大切に思っているらしかった。イブちゃんを守ることを自分の使命だと思っていたようだった。
夢も希望もない世界で、彼が唯一望んでいたのがそれだった。彼はイブちゃんと過ごすこの日常が、意外に気に入っているようだった。
"洗浄室"と呼ばれる部屋で、顔を洗う彼。
生臭いタオルで顔を拭き、錆び付いた鏡を見る。そこにはくすんだ金色の髪をした男の子が写っていた。
ちょっと神経質そうな、暗い表情の男の子。名前は"チャフ"と呼ばれていたかしら。どこにでもいそうな素朴な容貌をしていたけど、赤い瞳がキラキラと輝いていて綺麗だった。
ーー彼が"悪意"なのかしら。
金色の髪と赤い瞳は確かに黒猫の男の子と同じだったから、マグノリアがそう思った理由もわかる。だけど彼の印象は悪意とは程遠い。
彼がイブちゃんに抱く気持ちはとても優しいものだった。穏やかで、暖かくて、真摯だった。
彼がどうして″悪意″になったというの? これがどうして悪夢だと言えるの? わたしがそう思った頃だった。夢の雰囲気がガラリと変わった。
いつものようにイブちゃんと外に出掛けるチャフさん。彼らはしばしば外へ行っていた。彼らのような若者は、食料や有用な動植物を見つけるためにペアを組んで外に出ていた。
その日は夕刻に外へ出た。少し前に死者が出てショックを受けていた彼らだけど、その日も言われた仕事を懸命にこなしていた。
そんな中、巨大な獣に襲われるチャフさん。必死に逃げて、木の根の隙間に入り込んだ。
ガクガク震えながら、獣が去るのを待つ。ガサガサと葉擦れの音が聞こえる中、どこかで何か奇声が聞こえた。獣の鳴き声? 何の音かしら。わたしは気になって耳を澄ませる。
するとその音が徐々に変質していった。わたしの耳に、ハッキリと女の子の悲鳴が届いた。
「助けて! 助けて! 助けて! チャフ、助けて! 助けて! イヤ、痛い! 痛い! 怖い! 助けて! 助けて! 助けて! チャフ、どこ? どこにいるの? 助けにきてよ、イヤ! 痛い! 痛い! 痛い! 死にたくないよ! 助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて」
わたしは耳を塞いだ。塞いでも声は止まない。
心臓が冷える。油汗が噴き出す。背中が凍りついたように痛み、叫び出したい気持ちになる。
だけどチャフさんは震えていた。ひたすらに震えて、震えて、悲鳴が過ぎ去るのを待っていた。
足は一歩も動かない。暗闇に体を丸めて、存在を消して、ただひたすらに祈っていた。
「イヤだ! 助けて! 助けて! チャフ! 助けて! 助けて! 助けて!」
死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない…………。
『……そりゃあそうだろ。痛いに決まってるし、怖いに決まってる。当たり前だろ』
かつてわたしに、ルカさんはそんなことを言った。
あれはわたしが、白子の審判を失敗して絶望している時だったかしら。心臓を上手く刺せなかったわたしに、ルカさんはそう言って励ましてくれた。
何度も何度も自殺を繰り返していたルカさんが、『死ぬのが怖いのは当たり前』だなんて。意外だなとその時わたしは思ったのだった。
『要するに、普通の人間は転生せずに死ぬが、前世にろくでもないことをやらかしたやつは、その罰として生まれ変わるわけだな』
ルカさんはこんなことも言っていた。
出会って間もない頃、ルカさんは前世についてこのような認識を持っていた。
わたしが前世を素晴らしいものだと語ると、決まって彼は機嫌を悪くした。
ルカさんは前世のことが嫌いだった。前世が悪いことをしたから、罰として白子になったのだと思い込もうとしていた。
『そうだな、死ぬより怖いものは、たくさんあるんだよな……』
ルカさんは言った。わたしがまだ自己犠牲に憧れを抱いていた頃。愚かなわたしが言ったことに、ルカさんは激しく傷付いた。
死ぬよりも怖いもの。
わたしが想像していたのは、アピスヘイルのみんなから見放されること。姉さまに嫌われ、母さまに蔑まれ、友人から罵声を浴びせられること。
ルカさんが想像していたのは……。
ブンブンと羽音が響く。鼻に絡み付く腐臭に顔をしかめながら、チャフさんは足を進める。
目の前にあったのは、変わり果てたイブちゃんの死体だった。
暑さで既に腐敗が進んでいて、体が半分溶けている。
チャフさんは呆然とそれを見ていた。夢を見ているかのように、ボンヤリと、無表情にそれを眺め続けた。
辺りから光が消え、キュルキュルと音を立てて世界が巻き戻り、初めの廃墟の風景に戻る。
イブちゃんがチャフさんの手を引き、瓦礫の山を登り、眩しいほどの笑顔で語り掛けてくる。
再び施設での生活が続き、理想の死に方を夢想しながら時を過ごし、同じように"運命の日"を迎える。
何度繰り返しても、チャフさんは木の根元で震え、イブちゃんの悲鳴を無視する。
ーー死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない……。
「愚かな人間だろう。ユビグラムで既に決まっているんだ。こいつは、絶対にイブを救わない。救えないように出来ているんだ」
誰かの声がする。女の子のような声だと思った。
"悪意"の声だわ、とわたしは思う。悪意の声は、チャフさんの声とは違う、声変わりをしていない少年の声をしていた。
「死ぬのが怖いんだよ、こいつは。イブが死ぬよりも、自分が死ぬのが怖い。痛いのが怖いんだ。苦しいのが怖いんだ。愚かなことだよな。死ぬよりも怖いものがあると知っても、未だに死ぬのが怖いんだ」
突然風景が変わる。石の壁が見えた。この風景は知っている。"懲罰房"だ。羊角の大教会の上にある、ルカさんがいた石牢の中だ。
ルカさんは椅子の上に立ち、天窓からぶら下がった布の輪っかを持っている。それを徐に首に掛け、地面を見つめる。膝がガクガクと震え出し、椅子はガタガタと揺れた。
「死なない体になっても変わらない。こいつは出来が悪いユビグラムを持っているから。やっぱり死ぬのが怖いんだ。死なない癖に、死ぬのが怖いんだよ! なんて愚かなやつだ。救いようのない間抜けだ! 俺がここまでお膳立てしてやったのに、まだ死ぬのが怖いままだ!」
ルカさんは椅子から跳ぶ。首に衝撃が走り、目の前が真っ赤になる。
苦しみのあまり足をバタバタとさせる。苦しいのに、なかなか意識が飛ばない。苦しみから逃れようと布切れにガリガリと爪を立て、首から生暖かい感触が溢れ出す。
「死ぬのが怖くなくなるまでやれと言った。俺がそう言ったんだよ。死ぬのが怖くなくなれば、解放してやると言った。律儀にこいつは、ずっとずっと同じことを繰り返したよ。馬鹿の一つ覚えみたいにさ」
悪意の声は、弱々しかった。今にも泣き出しそうな悲痛な声で言った。ルカさんを遠目で見ながら、彼は哀れみの感情を溢れさせていた。
まるでそれが彼の本当の望みではないように。彼は本当は、ルカさんにそんなことをして欲しくないんじゃないかしら。
ーー死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない……。
椅子に立ち、ガタガタと震えるルカさんが見える。わたしの意識はいつの間にか彼から離れているようだった。
わたしは思い切って口を開いた。彼の夢の中で発言できるのかわからなかったけど、わたしは確かにこんな言葉を彼に放った。
「そりゃあそうでしょう。痛いに決まっているし、怖いに決まっている。当たり前でしょう……ルカさん」
わたしの声が届いたのだろうか。彼はハッとした表情をして、一瞬だけこちらを見た。
わたしたちは一瞬だけ、視線を交わすことが出来た気がした。
『痛い、痛い、痛い、怖い、怖い、怖い、助けて、助けて、助けて』
「死ね、死ね、死ね! 死を恐れなくなるまで死に続けろ!」
イブちゃんの悲鳴と、"悪意"の声がこだまする。
わたしは気が付いた。この二つの声は同じだ。悪意はイブちゃんの声をしているのだーー。




