第十九章(2)
そこは、廃墟だった。
元々は大きくて立派な街だったのだろうけど、何かの災害に見舞われたようだ。建物はほとんど骨組みだけになっていて、泥だらけでめちゃくちゃだった。
カンカンと太陽が照り付け、泥は表面が固まりひび割れている。風が吹き、砂が舞い上がり、辺りの視界はあまり良くない。
「ねぇねぇ、あっちに行ってみようよ!」
どこかで可愛らしい女の子の声がした。意識を向けると、ふたりの人影が見えた。
わたしよりもすこし歳上の、女の子と男の子。
女の子は男の子の手を引っ張って、どこかへ向かっている。
ボロボロと崩れる地面は歩きにくくて、彼らは何度か転びそうになった。
「あっちってどっちだよ。あまり水がないんだ、もう帰らなきゃまずいだろ」
男の子が言った。ルカさんによく似た声だった。
「でも今日は全然成果がないんだもん。あっちのほうは最近行っていないから、まだ残っているかも」
女の子が答える。分厚いマントを被っていたので、顔はよく見えない。肩まで伸びた赤毛の毛先がツンツンと跳ねている。
「そうだな。行ってみるか……」
男の子もマントを被っていたけど、くすんだ金の髪を覗かせている。チラリと見えた顔はルカさんとはあまり似ていない。
女の子は瓦礫の隙間に入り込み、地面を懸命に掘っている。男の子も近くの瓦礫を持ち上げて、地面を掘り始める。しばらく掘ると、うぞうぞとうごめく白い何かがいくつか現れた。
幼虫だ。わたしはすこしゾッとして、思わず目を逸らしてしまう。
「おい、イブ。いたぞ!」
「え? ほんと?」
意外にも、彼らはそれを探していたらしい。
イブと呼ばれた少女は、男の子に掛け寄って満面の笑みを浮かべた。
「流石はチャフだね。虫取りの名人だ!」
マントがめくれ、顔が見えた。ヒマワリのように朗らかな笑顔。わたしは、ほわんと暖かい気持ちに包まれる。
ちらりと覗く八重歯がチャーミングだった。瞳孔が細長い、猫のような目をしている。もしかしたら、獣人さんの血が混じっているのかもしれない。イブはすこし個性的な見た目の女の子だった。
彼らは虫を採集した後、瓦礫の山を乗り越え、崩れ掛けた坂道を上っていき、小高い丘にある施設に帰っていく。
そこは彼らの家のようだった。たくさんの人が共同生活していた。たくさんといっても、百人もいない。あまり広くもないところに、彼らは潜むように暮らしていた。
廃墟の街は、ビックリするくらい暑かった。
強い日差しから身を守るために、イブたちは分厚いマントを被っていた。
だけどこの施設の中は、不思議と涼しい。
狭い地上部と、広い地下部がある施設で、小高い丘の上に建っていた。
地上部には窓がひとつしかなく、そこから街が一望できる。
わたしはチャフと呼ばれた金髪の男の子の視点で、その街を見下ろした。
ここはどこにあった街なのだろう?
アピスヘイルの数倍は大きくて、すぐ向こうに広い広い海が見える。
その海には神樹がない。ということは、これは内なる海ではない。外なる海だとすると、仕都のどこかなのかしら?
でも眼下に見える街並みは、今まで見てきたどんな場所にも似ていない。
近隣の崩れずに残っている家々は、カラフルな壁と屋根瓦で、一軒一軒形が違う。
黒い粘土で舗装された道路の脇には、変な棒がピョコピョコと生えて、その棒から棒に黒いロープが繋がっている。
あれは物干しかしら。それにしては、背が高すぎる。
丘の下にも棒の列は続いていたけど、ロープはブチブチに切れて垂れ下がってしまっていた。
この施設での生活は、とても奇妙なものだった。
先ほど取ってきた白い幼虫は食用だった。
この施設にまともな食べ物は無いようで、虫や気味の悪い肉団子をみんなで分けあって食べていた。
外では、地震や水害が多発していた。異常気象で気温が上昇しているらしく、そのせいで施設からほとんど出られない。
彼らは生きていくのがやっとで、特にチャフさんは――いつも死を意識していた。
繰り返し流れ込む、彼の思想。
彼はその異様な生活の中で、どこか楽しげに夢想していた。
どうやって死ぬのが良いだろう。どうすれば満足して人生を終えられるだろう。
いつもそんな妄想で頭をいっぱいにして――ちょっと風変わりな男の子だなと思った。
彼の夢想の内容は、ほとんどがイブに絡んだものだった。
イブを庇って華々しく散る、勇敢な姿ばかり。
なんだか昔、ローダさまが語ってくれた前世みたいね。
それは理想が高い少年少女が、憧れるヒーローの典型例なんだろう。
つい苦笑いしてしまうような妄想だったけど、これだけは伝わってきた。
チャフさんは、イブをとても大切に思っていた。
イブを守ることが、自分の使命だと思っていたようだった。
――夢も希望もない世界で、彼が唯一望んでいたのがそれだった。
彼はイブと過ごすこの陰鬱な日常が、意外に気に入っているようだった。
彼が『悪意』なのかしら。
くすんだ金色の髪。どこかで見たような、疲れた顔をした男の子。
どこにでもいそうな素朴な容貌をしていたけど、赤い瞳がキラキラと輝いていて綺麗だった。
確かに髪と瞳は、黒猫の男の子のものと似ている。だけど彼の印象は、悪意とは程遠い。
彼がイブに抱く気持ちは、とても優しいものだった。穏やかで、暖かくて、真摯だった。
彼がどうして『悪意』になったというの?
これがどうして悪夢だと言えるの?
わたしがそう思った時だった。
――夢の雰囲気が、ガラリと変わった。
いつものようにイブと外に出掛けるチャフさん。
彼らは仕事をするために、しばしば外出していた。廃墟で生きていくために、残された食料や有用な動植物を見つける――それが彼ら若者の役目だったのだ。
その日は夕刻に外へ出た。
少し前に死者が出て、ショックを受けていた彼らだけど、その日も懸命に、任された仕事をこなしていた。
そんな中、彼らは――巨大な獣に襲われた。
遭遇したのはチャフさんで、彼は必死に走って逃げた。
木の根の隙間に滑り込み、ガクガク震えながら、獣が去るのを待つ。
ガサガサと葉擦れの音が聞こえる。
獣が木の周りを回っている。
チャフさんは恐怖の中、必死で耳をふさいで耐えていた。
獣が諦めてくれることを祈りながら、耐えていた。
そんな中、どこかで奇声が聞こえた。
獣の鳴き声?
何の音かしら。わたしは気になって耳を澄ませる。
するとその音が……徐々に変質していった。
わたしの耳に、はっきりと女の子の悲鳴が届いた。
「助けて! 助けて! 助けて!」
わたしの身が凍る。
その声は止むことなく、ずっとずっと聞こえ続ける。
「チャフ、助けて! 助けて! イヤ、痛い! 痛い! 怖い! 助けて! 助けて! 助けて! チャフ、どこ? どこにいるの? 助けにきてよ、イヤ! 痛い! 痛い! 痛い! 死にたくないよ! 助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて」
わたしは耳を塞いだ。塞いでも声は止まない。
心臓が冷える。油汗が噴き出す。背中が凍りついたように痛み、叫び出したい気持ちになる。
それはわたしでなく、チャフさんの感情だった。
彼はブルブルと震えていた。
「イヤだ! 助けて! 助けて! チャフ! 助けて! 助けて! 助けて!」
ひたすらに震えて、震えて、悲鳴が過ぎ去るのを待っていた。
足は一歩も動かない。暗闇に体を丸めて、存在を消して、彼はただひたすらに祈っていた。
――死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない…………。
――『……そりゃあそうだろ。痛いに決まってるし、怖いに決まってる。当たり前だろ』
かつてわたしに、ルカさんはそんなことを言った。
あれはわたしが、白子の審判を失敗して絶望している時だったかしら。
心臓を上手く刺せなかったわたしに、ルカさんはそう言って励ましてくれた。
何度も何度も自殺を繰り返していたルカさんが、『死ぬのが怖いのは当たり前』だなんて。
意外だなと、その時わたしは思ったのだった。
――『要するに、普通の人間は転生せずに死ぬが、前世にろくでもないことをやらかしたやつは、その罰として生まれ変わるわけだな』
ルカさんはこんなことも言っていた。
出会って間もない頃、ルカさんは前世についてこのような認識を持っていた。
わたしが前世を素晴らしいものだと語ると、決まって彼は機嫌を悪くした。
ルカさんは前世のことが嫌いだった。前世が悪いことをしたから、罰として白子になったのだと思い込もうとしていた。
――『そうだな、死ぬより怖いものは、たくさんあるんだよな……』
ルカさんは言った。わたしがまだ自己犠牲に憧れを抱いていた頃。愚かなわたしが言ったことに、ルカさんは激しく傷付いた。
死ぬよりも怖いもの。
わたしが想像していたのは、アピスヘイルのみんなから見放されること。姉さまに嫌われ、母さまに蔑まれ、友人から罵声を浴びせられること。
ルカさんが想像していたのは……。
ブンブンと羽音が響く。鼻に絡み付く腐臭に顔をしかめながら、チャフさんは足を進める。
目の前にあったのは――変わり果てた、イブの死体だった。
暑さで既に腐敗が進んでいて、体が半分溶けている。
チャフさんは呆然とそれを見ていた。夢を見ているかのように、ボンヤリと、無表情にそれを眺め続けた。
辺りから光が消え、キュルキュルと音を立てて世界が巻き戻り、初めの廃墟の風景に戻る。
イブがチャフさんの手を引き、瓦礫の山を登り、眩しいほどの笑顔で語り掛けてくる。
再び施設での生活が続き、理想の死に方を夢想しながら時を過ごし、同じように『運命の日』を迎える。
何度繰り返しても、チャフさんは木の根元で震え、イブの悲鳴を無視する。
――死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない……。
「愚かな人間だろう。ユビグラムで既に決まっているんだ。こいつは、絶対にイブを救わない。救えないように出来ているんだ」
誰かの声がする。女の子のような声だと思った。
『悪意』の声だわ、とわたしは思う。
悪意の声は、チャフさんの声とは違う。声変わりをしていない高い声をしている。
わたしはその声が、イブの声によく似ていると気が付いた。
「死ぬのが怖いんだよ、こいつは。イブが死ぬよりも、自分が死ぬのが怖い」
乾いた笑いが聞こえる。呻くように言葉を続ける。
「――痛いのが怖いんだ。苦しいのが怖いんだ。愚かなことだよな。死ぬよりも怖いものがあると知ってもこいつは……未だに死ぬのが怖い」
突然風景が変わる。石の壁が見えた。
この風景は知っている――『懲罰房』だ。
羊角の大教会の上にある、ルカさんと出会った石牢の中。
ルカさんは椅子の上に立ち、天窓からぶら下がった布の輪っかを持っている。
それを徐に首に掛け、地面を見つめる。
膝がガクガクと震え出し、椅子はガタガタと揺れた。
「死なない体になっても変わらない。こいつは俺と同じ、出来の悪いユビグラムを持っているから」
暗闇から悪意はルカさんを見て、嘲笑する。
笑っているようなのに、笑っているようには聞こえない。
「ここまでお膳立てしてやったのに、まだ死ぬのが怖いままだ! なんて愚かなやつだ。救いようのない間抜けだ!」
怒声に背中を押されるようにして、ルカさんは椅子から跳んだ。
その衝撃が、わたしにも伝わってくる。
首からゴキリと音がして、目の前が真っ赤になる。
苦しみのあまり、足をバタバタとさせる。
苦しいのに、なかなか意識が飛ばない。苦しみから逃れようと、首にガリガリと爪を立て、生暖かい感触が溢れ出す。
「死ぬのが怖くなくなるまでやれと言った。うまく死ねたら、解放してやると言った」
次第に動かなくなるルカさんを見て、悪意は弱々しく呟く。
「律儀にこいつは、ずっとずっと同じことを繰り返したよ。……馬鹿の一つ覚えみたいにさ」
それは、今にも泣き出しそうな、悲痛な声だった。
ルカさんを遠目で見ながら――彼は、哀れみの感情を溢れさせていた。
まるでそれが、彼の本当の望みではないように。
キュルキュルと時が巻き戻り、ルカさんは再び椅子の上に立っていた。
――死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない……。
布の輪を手にして、ガタガタと震えるルカさんが見える。
わたしの意識はいつの間にか、彼の正面に立っていた。
わたしは――思い切って口を開いた。
彼の夢の中で発言できるのかわからなかったけど、わたしは彼にはっきりとこう告げた。
「そりゃあそうでしょう。痛いに決まっているし、怖いに決まっている。当たり前でしょう……ルカさん」
わたしの声が届いたのだろうか。
彼はハッとした表情をして、一瞬だけこちらを見た。
わたしたちは一瞬だけ――視線を交わすことが出来た気がした。




