第十八章(5)・イメージイラスト
響き渡る絶叫。これは司彩の空間だけじゃなく、現実の空間にも響いているんじゃないかと思う。
黒焦げの塊が廃屋の中に落ちた。そこは屋根が崩れ、バラバラになっている公共施設か何かだった。
虎白さまは後を追う。少し電撃の巻き添えを喰らってしまったのか、左半身を黒く染めてフラフラとしていた。彼は黒焦げの兎緋の傍に降り立ち、剣を掲げる。雨に濡れてぬらぬらと輝くそれを、兎緋の心臓に突き立てた。
兎緋の体から赤い煙が沸き上がり、膨れ上がって赤い兎を形作る。兎は大きな体を屈めて、虎白さまをまじまじと見つめた。
『兎緋よ。俺のもとにくれば金凰に会えるぞ』
その勧誘が効いたのか、その兎はピョンピョンと跳ね回ってから虎白さまの体に飛び込んで消える。
『終わったのね……』
マグノリアの言葉に、虎白さまは一瞬だけこちらを見た。彼は満面の笑みを浮かべてから、前のめりに倒れ込んだ。マグノリアは屋根から地面に降り立ち、廃墟をゆっくりと歩き、足を滑らせて転ぶ。
「……!!」
わたしは激痛に驚いて身を起こした。体が動く。マグノリアが支配権を返してくれたのだ。
「ありがとう。お疲れさま、マグノリア」
返事はない。眠ってしまったのだろうか。わたしは雨に濡れた地面に手をつき、体の痛みに身をよじる。
マグノリアはすごいわ。この痛みに耐えて戦っていたのね。
戦いの間、彼女は痛覚も引き受けてくれていた。全ての苦しみからわたしを守ってくれていた。これくらいのことで悲鳴を上げていては、マグノリアに合わせる顔がないわ。
わたしは両手を握りしめ、空を見上げた。まだ雨が降っている。マグノリアが残した彩謌の効果だろう。雨はイグニアヘイルに安息をもたらす。火災を消し止めてくれる。
わたしは虎白さまを起こして、みんなのところに帰ろうと決めた。きっと心配している。勝利を告げて、みんなと喜びを分かち合おう。イグニアヘイルの人たちにも、都の再建を約束してあげなきゃ。
わたしは痛む体に鞭打って立ち上がろうとした。
その時、わたしの耳に奇妙な音が響いた。
ぴしゃり。ぴしゃり。ぴしゃり。背後から誰かが近づいている。
味方かもしれない。リンさんかもしれないと思った。だけど何故だか、わたしの体は恐怖に竦み上がり、ピクリとも動かなかった。
そんなわたしの視界の端を、黒い影が通りすぎる。黒い影。薄暗いからそう見えたわけではない。
その人物は黒ずくめの格好をしていた。猫の耳がついたフードを被り、マントをはためかせている。手には不気味に光る剣を握っていた。
わたしの頭に、いつか見た光景が浮かび上がる。そうだ、あれはエリファレットさまとお話をしていたとき。自害を命じられたわたしの前に現れた、黒ずくめの猫。エリファレットさまを惨殺した、黒猫の少年。
確か彼は、橙戌のところでも現れた。直接姿を見たわけじゃないけど、同じように橙戌に敵対した。
彼は司彩を害して回っている。何故だかはわからないけど、とにかく危険な存在だ。
わたしは彼を凝視した。彼はわたしに気付いていないのか、あえて無視をしているのか、わたしをあっさりと追い越して虎白さまに近付いている。虎白さまは眠ったままだ。金鳳のときと同じなら、一時間ほどは起きないだろう。
わたしは頭が真っ白になった。黒猫の少年は、司彩を害している。虎白さまは、現在は司彩だ。金鳳と兎緋の二体を宿す司彩だ。
黒猫は虎白さまの命を狙いに来たんじゃないの? わたしの予想どおりに、彼は虎白さまの傍に立ち、光る剣を掲げる。
虎白さまが殺されてしまう。エリファレットさまと同じように、心臓を刺されてしまう。
わたしは咄嗟に短剣を抜いた。
わたしにできることはあるだろうか。
わたしも司彩だ。きっといらないことをすればわたしも狙われる。だけど今、わたしが動かないと虎白さまが死んでしまう。
わたしはズボンの太もも部分を剣で裂いた。ここにはわたしの秘密の武器がある。カチリとガードを外し、小さなナイフを抜き取る。切っ先には毒々しい液体が滴っていて、微かに甘い香りがした。
司彩に毒が効くらしいことは、金凰の時に学んだ。あの少年が何なのかわたしにはわからないけど、もしかして効くんじゃないかしら。
わたしにはこれしかない。ひとりで彩謌が歌えないわたしには、これしか決定的な武器がない。
わたしは地を蹴った。がむしゃらに走り、黒マントの元に向かう。
黒猫はこちらを振り返った。興味がなさそうにノロノロと無機質な仮面を向ける。
金色の髪と、ギラギラ光る赤い瞳が目に入る。
わたしはナイフを振り下ろした。黒装束が切れる。彼は避けなかった。わたしを驚異だと思っていないのだろう。
ナイフは掠めた。確かに彼の体を掠めた。腕なのか肩なのか腹なのかわからないけど、どこかには当たったと思う。
黒猫は笑った。
「大人しくしてれば見逃してあげたのに。バカだなぁ」
効かなかった? この人に毒は効かないの? わたしは息が詰まり、途端に体が震え始めた。
『見逃してあげたのに。』
過去形なの? わたしは、もう見逃してもらえないの? 尻餅をつき、後退るわたし。
一歩、二歩、こちらに歩み寄る黒猫。マグノリアは眠っている。虎白さまも眠っている。わたしを助けてくれる人はいない。
わたしの脳裏に、ルカさんの顔が浮かぶ。ルカさん。ルカさん。あなたは今、どこにいるの?
怖いわ。ルカさん。わたしを助けて。ルカさん。ルカさん。ルカさん。
「ぐ……」
急に、黒猫が変な声をあげる。身をよじったあと、ゴバッと喉を鳴らす。
押さえた口元から、大量の血液を流していた。
「なんだ、これは……」
効いた? 毒が、効いた……。
黒猫は苦しそうに喉を押さえ、再び大量の血を吐いた。口元からマスクを外し、何度も何度も血を吐く。
わたしは恐怖した。あまりにも苦しそうな彼に、罪深さが押し寄せてきた。
わたしは震えながら虎白さまに駆け寄った。取りすがって叫んだ。
「虎白さま! 起きてください、虎白さま! 虎白さま……」
夢中になって叫んでいると、いつの間にか黒猫は消えていた。血だまりだけを残して、姿をくらましていた。
わたしは恐怖のあまり泣きわめいた。虎白さまの名を呼び続けた。わたしが煩かったからだろう。彼は思いの外早く目覚めた。
金色の髪の先端を赤く染めていたけど、相変わらず虹色の瞳をしている虎白さまは、虎白さまのままだった。
「どうした? カノン」
「虎白さま、虎白さま……」
わたしは泣きながら状況を話した。黒猫が虎白さまの命を狙っていたことを話した。毒のナイフを持っていたから、使ってしまったことを話した。毒のナイフはよく効いて、黒猫は血を吐きながら消えたことを話した。
「待て、待て。わけがわからん。その黒猫とは何だ。そんな話、初めて聞いたぞ」
「え……そうでしたっけ」
「藍猫は青銀の髪をした自らの人形に襲われたのだと言わなかったか。だから俺は頭をすげ替えたい四肢の反乱だと結論付けたのに……。同じ者が橙戌のところでも出現したなんて聞いていないぞ」
わたしは記憶を辿る。確かに、わたしはそう虎白さまに言った。何故だかそんな偽りの話をした。
何故? 何故だったかしら。
わたしは呆然とした。わからない。自分がわからない。何故今まで、それをおかしいとも思わなかったのだろう。
「まあ、それはいい。真実は今言った通りなんだな? 金色の髪をした黒装束の男が藍猫を殺し、橙の都にも現れた。そしてついさっき、俺の命を狙っていたと」
「はい、そうです」
「それをお前が、毒のナイフで撃退してくれたと。そういうことだな?」
わたしは頷いた。今度こそ間違いない。正しい情報を虎白さまに話せた。
彼は快活に笑う。わたしの頭を撫でて、こう言った。
「ありがとう。よく俺を救ってくれた。お前のお陰で、イグニアヘイルの再建ができる」
虎白さまはわたしの手を引いて立ち上がり、瓦礫の山を超えて廃墟の外へ出る。仲間たちと合流するつもりなのだ。
わたしは彼の背中を追いかける。さらに大きくなったような虎白さまの姿は頼もしかった。
クラウディアを併合し、イグニアを解放した虎白さまにはもう敵はいない。イグニアが落ち着けば、次はアピスを救ってくれる。
わたしはようやくアピスヘイルを救うことができるのよ。晴れやかな気持ちが湧き上がる。
わたしの頭から、黒猫の少年のことなどすぐに消えてしまった。
虎白さまが目覚めてさえいれば、また襲ってきたとしても撃退できるだろう。
大丈夫だ。全て良い方向へ向かっている……。
「虎白さま!」
大通りには、ハクト兵が集まっていた。イグニアヘイルの人々の治療をしたり、瓦礫を撤去したりとみんな忙しそうにしている。
リンさんとニトさんが駆け寄ってきた。良かった、二人とも無事だったんだ。わたしは目頭が熱くなりながら、二人の姿を見つめていた。
リンさんもニトさんもわたしたちとの再会を喜んでくれたけど、すぐに表情を曇らせる。
「どうした?」
「いえ、ちょっと……カノンさんには辛い報告がありまして」
「え? わたしに……?」
「ついてきてください」
リンさんに案内され、わたしたちは港へ向かった。彼女は船に乗り込み、船室へと入っていく。船には重症の人が運び込まれていた。医療設備が一番整っているからだろう。
うめき声が響く不気味な船室。床に敷かれたシーツの上に転がる兵士さんたち。ある一点を見てわたしは息を飲んだ。心臓がギュッと掴まれたように痛んだ。
「先ほど運ばれてきたんです。原因はわかりませんが、重症です。脇腹にわずかな切り傷があるだけなんですが、化膿して高熱を出しています」
わたしの目の前がぐるぐると回った。
これはどういうことなんだろう。わたしは理解したくない一心で、考えるのをやめようとする。
「毒だな。これは……猛毒だ。神樹の実を食べ続けている俺ですら、毒を中和するには時間がかかる。最悪の場合は死ぬぞ」
やめて。やめてよ、虎白さま。そんなことを言うのはやめて。
「毒……。カノン、お前が使った毒を見せてくれないか」
「……いや。いやです……虎白さま」
わたしは後退る。足がもつれて、尻餅をつく。
「命を救いたくはないのか。彼はお前の毒にやられたんじゃないのか」
「違います。ちがう、ちがう、違います! わたしじゃない、わたしが刺したのは違う人です!」
「なら毒を見せてみろ。同じ毒かは調べればわかる」
「いやです! いや! いや!!」
わたしは叫んだ。声の限り叫んだ。だけど、目の前の事実が変わるわけでもない。
わたしは叫びながら、理解してしまった。認めたくない事実を理解してしまった。
そうだわ。初めからわかっていたんじゃない。顔を隠していたって、体の線をぼやかしていたって、醸し出される雰囲気は誤魔化せない。
わたしは初めて会ったときから分かっていた。気付かない振りをしていただけだ。わたしの唯一の味方が、優しい彼が居なくなってしまうのが怖かったから。
「どうして、どうして。どうして、ルカさん。どうして……」
わたしは彼のもとに歩み寄り、崩れ落ちた。
泣いた。わたしは無力に涙を流した。夜になって、朝になって、船が動き出してハクトに帰りつくまで。わたしはルカさんの側で小さく震え続けた。
虎白さまやリンさんたちは、わたしを憐れんでそっとしておいてくれたようだ。いえ、どうすれば良いのか彼らにもわからなかっただけなのかもしれない。
シーツの上に横たわる彼は、血を吐きながら身悶えている。髪の毛は銀色と金色を交互に繰り返し、時折開かれる瞳は真っ赤だった。
ルカさんは操られていた? テオドアを操っていたという"悪意"に、彼も操られていた?
いつから? どこから? 彼は"悪意"に汚染されていたの?
わたしは暗がりの船室で想いを馳せた。
いつから彼は、わたしを欺いていたのだろう。ルカさんはテオドアの代わりに連れられてきた、ただの可哀想な白子ではなかったの?
わたしを騙し翻弄していたのは、オズワルドさま、エリファレットさま、スイさんだけじゃなくて、ルカさんもだったの?
ルカさん。ルカさん。どうして。どうして。
神さま、教えてよ。
どうして、こんなことになっちゃったの……?




