第二章(1)
進級試験が終わり、卒業生を見送る行事がいくつも続いたあと、いつの間にか暦は進んで三月になっていた。
三月は教典の第三章『就学』と呼応して『就学の月』と呼ばれており、アピスヘイル中の教育施設で一斉に学年が入れ替わる月である。
無事に進級できたわたしたちは、今日、三月二日から晴れて修道院二年生だ。
もっとも、リリムはいくつかの学科を落としているため、本来の三年生にはなれず、半分二年生のまま宙ぶらりんな状態になっていたけれど。
わたしたちはいつものように大教会の外で集まり、教室まで一緒に向かった。ここのところ毎日のように降る雨に、リリムがぼやいていたのもいつも通りだった。
「そっかぁ、今日から教室が違うのね」
「あなたは人一倍、一年生の教室に愛着があるでしょうから残念ね」
「やだ、愛着なんてないわよ! もう二度とあの扉は潜りたくないんだから!」
学年が上がって最初の授業は自然学だった。自然学は『アピス国民のための教養八科』と呼ばれる八つの必修科目の中でも、屋外実習が多いことが特徴の科目だ。修道院に付属する小さな牧場や畑、広大な園庭などで、平民の仕事を疑似体験できるのが楽しくて、わたしにとってはかなりお気に入りの科目だった。
だけどクラスメイトの女の子たちは、土や汗で体が汚れるのが嫌だという声がほとんどだ。特に髪型が乱れることを嫌うリリムはたびたび先生と衝突し、進級のお許しをもらえないほど拗らせてしまった。
上級生であるリリムが、わたしたちと同じ一学年下の講義を受けているのは、この自然学と、音術と、神学の三つだ。
第一教室の隣、第二教室の扉を開く。上級生のカーミィを除く四人で部屋に入ると、なんだかいつもと様子が違うことに気がついた。
部屋の構造に大きな違いはない。クラスメイトの顔ぶれもほとんど同じ。ただひとつ違っていたのは、最前列の席に陣取っている物々しい集団と、それを離れた場所から眺めている女の子たちだった。
「うげっ」
最初に声を上げたのはリリムだった。彼女はそそくさと後列の席に座り、こちらに来るよう手招きしている。
姉さまとアイリスは互いに顔を見合わせてから、わたしの方を見た。とても悲しげな表情だ。わたしは苦笑いを浮かべる。これから何が起こるのか、大体の予想はついていた。
「カノン!」
わたしを呼ぶ声が聞こえる。ガラスのベルのような透き通った声だった。そちらへ視線を向けると、輝くばかりの笑顔が飛び込んできた。
「カノン!」
声の主はもう一度わたしを呼び、滑らかな動作でこちらへ駆け寄る。彼女の周りを固めていた黒ずくめの侍女たちも、狭い机の間を一列になって進んできた。
わたしは笑顔で彼女たちを迎える。
「お久しぶりね、カノン。元気でいらした?」
「はい。わたしは元気ですが……ローディアさまはもう大丈夫なんですか?」
「ええ、もちろんよ。心配をかけて申し訳なかったわ」
声の主の女の子は、ローディア・アリアト・アピスリム。声だけでなく容姿も美しい女の子で、間違いなくこの修道院で一番、いいえ、アピス国で一番の美少女だ。
この修道院は貴族のお嬢様ばかりが入学しているから、ほとんどの子が美人なのだけれど、この地味な制服を着て飾り物をつけない状態でも輝いて見えるのは彼女だけだ。
あまりの眩しさに目を細めていると、ローディアさまは藍玉ガラスのように美しい瞳を大きく開いて言った。
「それより、カノン。わたくしのことはローダと呼んでくださいと、あれほど言いましたのに」
「ご、ごめんなさい、ローダさま」
わたしが慌てて言い直すと、彼女は嬉しそうに笑った。
「またわたくしと仲良くしてくれるかしら」
「はい、もちろんです」
わたしはちらりと横を見る。姉さまたちがいたはずの場所には誰もいない。リリムの方を見ると、姉さまとアイリスが三人で顔を寄せながら、こちらをちらちらと盗み見ている。
わたしはため息をついた。こうなることはわかっていたけれど、本当にそうなると、少し落ち込む。
「どうしたの? カノン。席に着きましょう」
「はい。ローダさま」
わたしはローダさまに手を引かれ、教卓に一番近い長机に座った。隣にはぴたりとローダさまが寄り添う。そしてわたしたちの両側と後ろには、がっしりとした体格の侍女が三人着席し、岩のように静止していた。
「ごめんなさいね。心配をお掛けしたわよね。わたくし、冬にはよく体調を崩すのです」
「そうなんですね。今年の冬は特別冷え込みましたし、仕方がないですよ」
「わたくしは大丈夫だと申し上げたのですけれど、お父様が聞かなくて……」
苦笑を浮かべるローダさま。どんな表情でも彼女の魅力は遺憾なく発揮され、わたしはふわふわと夢心地な気分になる。
こんな可愛らしくて素敵な人が、わたしだけを見て話してくれているなんて。
ローダさまはわたしと同じ年に修道院に入学した。年齢はわたしより一つ上の十五歳。同級生の女の子たちはほとんどが姉さまと同じ十六歳だから、わたしたちはこの学年では最年少だ。
「アリアト王は、ローダさまのことを大事にされてますから」
「過保護すぎて困ってしまいますわ」
「いいえ、ローダさまの代わりは誰にも務まりませんから、過保護なのは当然ですよ」
「まあ。カノンにそう言われたら、照れてしまいます」
陶器のように白く滑らかな頬を、言葉どおりにピンクに染めるローダさま。あまりの可憐な仕草に、わたしはどぎまぎしてしまった。
お人形のように美しいこの女の子は、この国のただ一人のお姫さまだ。王家の正当な血統の者だけが名乗れる『アリアト』の名を引き継ぐ唯一の子女。現在のアピス国の王であるアドルフ・アリアト・アピスリム陛下の一人娘で、彼から溺愛されていることは国中に知られていた。
彼女と初めて出会ったのは一年前、わたしがこの修道院に入学したときだ。
噂に聞いていた絶世の美少女を目の前にして、わたしはただただ圧倒されてしまったのだけど、彼女はなぜだかわたしに懐き、ひたすらわたしにだけ話しかけてきた。あまりにもそれが露骨だったので、周りの女の子たちは徐々にわたしたちから距離を取り、現在のこの状態に至る。
「ねぇ、カノン。わたくしが休んでいる間、自然学はどんなことをしていたのです? 飼育していたラクサーシュはその後どうなりました?」
「ああ、あれはですね、牧家に引き取ってもらいました。品評会がありまして、わたしたちの育てていた個体は無事に金賞をいただきましたよ」
「そうなのですね! それは良かったですわ」
ローダさまは様々な事情で頻繁に修道院を欠席した。今回は体調不良で二ヶ月ほど。その前は公務、その前は……表向きには体調不良だった、はずだ。
修道院に出席した日数は、わたしたちの五分の一にも満たないと思うのだけど、それでもちゃっかりと二年生の教室に現れたことには疑問符が浮かぶ。
そう思っているのは、たぶんわたしだけではないのだろう。背後から聞こえるヒソヒソ声に、そんなニュアンスの単語が混じっているのが聞き取れていた。
ローダさまにも聞こえているのではないかと肝を冷やしたのだけど、彼女は相変わらず涼やかな微笑を浮かべている。
「先生が来られたわ」
誰かがそう声を上げたのを皮切りに、ガタガタと椅子を鳴らす音で教室内が満たされた。
チャイムと共に教室に入ってきたのは若い女性の先生。アゼリア・ラウルと名乗った彼女は、新任の教師らしい。三年前に修道院を卒業し、研修を終えたばかりだと語った。ハキハキとした喋り方がとても好感の持てる先生だった。
今年度のスケジュールと、使用する教材の話で今日の講義は終わり、お昼休みになる。もちろん姉さまたちはこちらを見向きもせずにさっさと食堂に行ってしまい、わたしはローダさま御一行とお食事を共にすることになった。
「ねえ、カノン。最近会っていなかったけど、あのことはどうなっているのかしら?」
「あのこと……って、何のことですか?」
いつもの青いガラスの前の特等席はぽっかりと空いていて、わたしはローダさまたちとその席に座る。
わたしと、ローダさまと、黒ずくめの侍女が三人。人数としてはいつもと同じ数だけど、三人の侍女は食事を取らない・喋らないので、いつもより大分静かな昼餉の時間になりそうだった。
「前世のことよ。何か思い出したのかしら?」
「ああ……そのことですか」
わたしはこっそりとため息を付く。静かなのは別に構わないのだけど、ローダさまと二人きりの会話は少々気疲れする。
「ごめんなさい、全然まだなんです」
「そう……」
ローダさまはとても残念そうな顔をして、俯いた。でもすぐに顔を上げて、笑顔でこう言った。
「大丈夫よ! きっとすぐに思い出すわ。そうしたらわたくしにまず第一に教えてくださいませ。
いいえ、別に第二や第三でもよろしいのよ。オズワルドやユリアより先に聞くのは申し訳ないですしね」
わたしは曖昧に笑って、はい、と応えておいた。
前世というのは、転生する前の魂のことを言う。
人は亡くなると藍猫さまの審判を受け、一から七までの門を潜れたものは再び現世に生まれ変わる。
そのときすべての魂は浄化されてしまい記憶を失うので、前世の記憶を取り戻す人はいない。
だけど白子は違う。白子は零の門を潜った特別な魂であるから、他の魂と違い浄化されていない。前世の清らかな魂のままであるはずだから、いずれ元の記憶を取り戻すはずだと、ローダさまは以前からそう主張していた。
「でも本当に前世の記憶なんて取り戻せるんですかね? 教典にはそんなこと書いていませんよ」
「本当のことよ! 前も言いましたが、わたくし、お父様から聞いたのですわ。前の白子が……」
ローダさまの目の前に、黒い袖が伸びてくる。袖の主の方を見ると、彼女は静かに首を横に振っていた。
「もう。どうして話してはいけないのかしら。もどかしいわ」
ローダさまはプリプリと怒りながらスープを口にする。豆のスープと、山盛りの野菜、黒いパンという彼女のトレイ。わたしは自分のトレイと見比べてため息をついた。
主教さまに釘を刺されて反省したわたしは、白いパンを一つに減らしていたけど、代わりにシェフの特別メニューが乗っていて、前よりも豪勢な品揃えになってしまっている。
いったいどっちが白子なのかしらね。わたしは急に恥ずかしくなって俯いてしまった。
ローダさまはこの国でも有数の敬虔な信徒で、八戒を守ることにとても神経を使っている。
他の女の子と違い、化粧は一切しておらず、香水の匂いも全くしない。そんな小細工をしなくても、水のように透き通った淡青色の髪と真藍の瞳、陶器のように白い肌は神から愛されているとしか思えない美しさで、彼女を魅力的に感じない異性は居ないと思う。
自ら八戒の遵守を望むのが、真の『天真』。真の清らかな魂だと主教さまが仰られていたけど、ローダさまはそれを理解しておられるだろう数少ない人だ。
彼女と一緒に居るとどんどん自分が惨めに感じられてしまう。その辺りも、ローダさまが姉さまたち普通の女の子から避けられる要因なのかもしれない。
「ごめんなさいね、カノン。この話を公共の場でしてはいけないそうで。わたくしが去年の夏に修道院へ来られなくなった理由をご存じかしら?」
「はい、聞いています……」
表向きには体調不良だったけれど、前の前の休学の本当の理由はそれだったはずだ。
――話してはいけない話をしてしまったから、主教さまから謹慎を言い渡された。
確か、ばあやからそんな話を聞いた。
「どうして前の白子の話をしてはいけないのかしら。たった十数年前の話なのだから、みなさんご存じでしょうに。ねえ」
わたしは曖昧な笑みで返す。
この話は深掘りしてはいけないと言われている。口を閉ざすのが正解なのだ。
この国には、そうした規則がたくさんある。教典の教えや八戒を守るのはもちろんのこと、いくつかの話題について口を閉ざすことが暗黙のルールとなっている。
そのひとつが、「前の白子にまつわる話」だった。
ローダさまは白子について並々ならぬ関心を持っていて、機会があれば国王陛下に国家機密を話してもらえるよう、おねだりをしていたらしい。
陛下がうっかり漏らしてしまった話のひとつが、この「前の白子の話」だったのだという。
もちろん、陛下も機密のすべてを話したわけではない。中途半端に語られたものだから、かえって知識欲を刺激されてしまったローダさまは、神学の先生に禁忌の質問をぶつけてしまった。去年の夏のことだ。
この件が問題となり、ローダさまは一か月ほどの謹慎を受けた。
「仕方ないわ。この話はまたの機会にしましょう。公共の場でなければいいのでしょう? カノン、今度王城に遊びに来てくださいませ。わたくしの温室でお話しましょう」
「は、はい……」
まったく懲りていないのがローダさまらしい。
彼女は教典と八戒は遵守するけれど、主教さまたちが作った不文律には従うつもりがないらしい。
――教典に書かれていないことは、真なる神の言葉ではないから。
それが彼女の主張だ。
「それでは、違う話をしましょう、カノン。そうね……あなたの前世がどんな方だったのか、一緒に想像してみませんこと?」
「はあ……」
「わたくし、折に触れて色々と思案してしまいますの。藍猫さまに愛される清らかな魂とは、どのような人生を送るものなのか」
わたしは、つい生返事をしてしまった。
その話、二か月前もしなかったっけ? また違う物語を思いついたのかしら。
わたしが気乗りしていないことに気付いていないのか、それとも気付いたうえで無視しているのか、ローダさまは恍惚とした表情で話を続ける。
「あなたの前世は、そうね……アピスができるよりずっと前の、王家の娘だったかもしれなくてよ。荒れる国土に心を痛め、自ら女王となることを決意し、国にその身を捧げ……暴利を貪る地主貴族から庶民を解放し……他国との戦争でも最前線に立って軍を率いたの。華々しい人生を歩むけれど、最期はきっと質素で悲しい終わりかた……例えばそうね、虐げられていた小さな農民の娘を守って、若い命を散らした――なんて、どうかしら」
「いいんじゃないですか」
前に聞いた話は、庶民に育てられた王家の娘が運命に翻弄され、革命に巻き込まれる――そんな感じだった気がする。だから、ちょっとだけ違う。ほんの少しだけだけれど。
わたしの愛想笑いに気を良くしたローダさまは、この世のものとは思えないほど美しい笑顔を浮かべて言った。
「でしょう? 実はこの話、わたくしの理想の人生だったりするの」
「あはは。ローダさまらしいですね」
「そうかしら? わたくしもこんなふうに生きられたら、白子になって藍猫さまにお仕えできるかしら」
「さあ……それは、わかりません」
しまった。正直な意見を言い過ぎた。
きらきらしていたローダさまの目が、みるみる曇っていき、手元の黒いパンへと視線が落ちる。
「わたくし、カノンのように白子になりたいんですの。ですから、カノンに早く前世のことを思い出してもらって、その尊い記憶を、わたくしに教えていただきたいんですの」
「…………」
「お願いよ、カノン。お願い」
ローダさまには悪いけれど、わたしは自分が「清らかな魂」だとは、どうしても思えない。
わたしが藍猫さまに選ばれたというのは、何かの間違いなんじゃないかと思っている。
だって、どう見てもローダさまのほうが八戒を守っているし、心も見た目も美しいし、頭だっていいのだから。
わたしが藍猫さまだったら、間違いなくローダさまを神官として採用するだろう。
もしかしたら、わたしの前世は、ローダさまの言うように本当に素晴らしい魂だったのかもしれない。
けれど、もしそうだとしたら、今のこの不甲斐ないわたしの魂は、どこへ消えてしまうの?
そんなことは恐ろしくて考えたくない。わたしは前世のことなんて思い出したくないのだ。
でも、そんな意思に反して、わたしの口から出たのはこんな言葉だった。
「わかりました。頑張ってみます。思い出したら、きっとローダさまに一番に教えますよ」
「まあ! 本当? カノン、大好きよ! ありがとう」
わたしはローダさまに弱い。
だって彼女は、わたしに笑顔で話しかけてくれる数少ない人だから。
ぎゅっと抱きしめられると、ほんのり花のような匂いがした。ローダさまは温室で育てた花でポプリや紅茶を作るのが趣味なので、その匂いだろう。
本当に素敵な人だ。
どうして彼女じゃなくて、わたしが白子なんだろう。
わたしはまた小さくため息をつき、急ぎ足で食堂を後にする女の子たちを、ぼんやりと見つめていた。
昼休みの終わりのチャイムが鳴り響いていることに気付いたのは、その一瞬あとだった。




