第十三章(1)
夢の中で、わたしは生暖かい液体にプカプカと浮かんでいた。
今わたしは目を開けているのだろうか。閉じているのだろうか。辺りは真っ暗で何の目印も見えなかったから、そこが広いのか狭いのか、天井がどちらで床がどちらにあるのかさえも何もわからない。
どのくらいの時間が経ったのかすらわからないまま、しばらくの時を過ごしたわたしの前に、一条の光が舞い降りる。光は段々と輪郭を形作っていき、やがてひとりの女の子の姿を取った。
「ごきげんよう。カノン」
スカートをつまみ、膝を曲げて会釈をする少女。ふわふわした髪の毛を胸のあたりで緩い三つ編みにしている。真っ白でヒラヒラしたワンピースには何の飾りもなく、何の特徴もないただの布で、単に体に関する情報をぼやかすためのものに過ぎないのだろうと思った。
服装なんてどうでもいい。そんなことよりも、気になるのは彼女の髪の色だ。右側は藍色、左側は橙色。まるで彼女の髪というキャンバスに、左右から二色の絵の具を垂らしたかのような不思議な色だった。若干の気味の悪さを覚えつつ、わたしは答える。
「ごきげんよう、マグノリア」
わたしには目の前の少女の名前がわかっていた。彼女は紛れもなくマグノリア。前回夢で見た、鏡に映ったそのままの顔をしていたのだから間違いない。彼女はわたしの前世のマグノリアだ。
その証拠に、彼女はにこりと微笑んで答える。
「会えて嬉しいわ、カノン」
「わ、わたしもよ。マグノリア」
まさかこんな夢を見ることになるとは思っていなかったから、わたしはたじろいだ。明らかに彼女は普通の状態ではない。何かに侵食されてしまっている。
もはや、"何か"とぼやかす必要もないだろう。藍は藍猫さまであり、橙は橙戌さまである。マグノリアは司彩さまに寄生されてしまっているのだ。
「カノン。わたし、あなたのことをずっと見ていたわ。あなたはとっても心優しくて、立派で、素敵だわ。わたし、あなたのことが大好きなの」
「あ、ありがとう……」
思いがけない言葉に戸惑う。わたしは何か称賛を返さなければと思ったのだけど、マグノリアについてあまり思い出せていなかった。だから何の褒め言葉も浮かんでこなくて、頭が真っ白になった。
「わたしのことはいいの。無理に思い出すことはないわ」
「で、でも……」
「重要なのは、あなたが素敵ということよ。あなたは穢れていない。わたしの理想の女の子なの」
「はあ……」
「わたしはあなたのままでいてほしいの。清らかな乙女のままでいてほしいの。そのままでいられたら、きっと天子さまはわたしの願いを叶えてくださるわ」
「……願い?」
頷くマグノリア。一呼吸置いてから、彼女は口を開いた。
「わたしには、心残りがあるの。わたしに出来なかった選択を、あなたならすることができる。そしてまだ穢れていないあなたなら、天子さまもその選択に祝福を授けてくださると思うの」
「選択……?」
「お願いよ、カノン。わたしに幸せなあなたを見せて。わたしが選ばなかったものを選んで。あなたなら出来るわ、カノン……」
お願い、お願いとただ繰り返すマグノリアに混じって何か違う声が聞こえてくる。それはわたしの名を呼ぶ声。あれは誰の声だったかしら。
「……カノン……起きろ、カノン……」
「ルカさん……?」
わたしはゆっくりと意識を浮上させた。眩しい光が突然脳を突き刺してきてびっくりする。目の前には白い壁と小さな窓。窓からは眩しいくらいの日の光が差し込んでいた。
「カノン、良かった……やっと戻ったか」
「戻った?」
"起きた"じゃなくて? わたしが首を捻っていると、ルカさんは興奮した様子でこう言った。
「お前、さっきまでおかしかったんだよ。目を開けたまま起き上がって、窓の方をじっと見て……。髪の色が青く染まってた」
「髪が青く?!」
わたしは自分の髪の毛を掴み、まじまじと見る。いつも通りの銀色がそこにあり、心の底からホッとする。
「目もなんかギラギラしてて妙だった。大丈夫か? 今はなんともないか?」
「はい、大丈夫です。なんともありません……」
「良かった……」
ルカさんの目は少しだけ充血していて、凄く心配してくれていたのが伝わってくる。わたしの心にふわりと幸せな気持ちが湧き上がった。
わたしにはまだ、ルカさんがいる。色んな事が起きたけど、ルカさんがまだ側に居てくれている……。
その時、ギシギシと遠慮がちに階段を上がる音が聞こえてきた。
「どうかしましたか?」
ウィスさんがひょっこり顔を出す。隣からソフィアも並んで顔を出していた。
「いえ、なんでもありません。寝ぼけていたみたいで……」
「そうですか。今ソフィアと朝食を食べ終えたところなんです。おふたりはどうしますか?」
「えっと……」
ルカさんを見る。彼はわたしの手を取って、行こうと囁いた。
「とりあえずテーブルについてみて、それからどうするか考えよう」
「……そうですね」
わたしはルカさんと一緒に階下に降りて食卓に着く。アイシャさんが焼いてくれたパンは相変わらず美味しそうで、唾液が口内を満たした。
わたしがひとつを手に取り、口に運ぼうとしたとき、突然わたしの頭の中にこんな声が響く。
『食べないほうがいいんじゃない? カノン。また眠くなってしまうわ……』
「!!」
わたしはハッとして、左右を見回した。
「どうした? カノン」
「いえ、今、誰かわたしに話し掛けました?」
「誰も喋っていないと思うが……」
さっと顔が青ざめたのが自分でもわかった。今の声はマグノリアだ。彼女がわたしの頭の中に直接話し掛けてきたんだ。
わたしの手は石のように固まり、パンをお皿の上にポトリと落とす。
「やっぱり、食えないか」
「はい……。すみません……」
ルカさんも持っていたスプーンを置き、わたしと同じように肩を落として溜め息をついた。
ソフィアを肩車して遊んでやっていたウィスさんがダイニングに戻ってくる。食事に全く手をつけていないわたしたちの様子を見て、首を傾げた。
「まだ食欲が戻りませんか?」
「はい……ちょっとまだ……」
「空腹でないなら無理に食べなくても大丈夫ですよ。僕も神樹の実をかじった経験がありますが、空腹を感じるまでは何も食べたくなりませんでしたし、食べなくても問題ありませんでした。もちろん食べても問題ありませんが」
「そうなんですか……」
「心配しなくても大丈夫ですよ。そのうち元に戻りますから」
ウィスさんは白い歯を見せて笑う。多分ウィスさんはわたしに司彩さまが憑いていることをまだ知らない。スイさんは細かい事情を彼に伝えていないのだ。
ウィスさんは、わたしたちが食事を摂らないことを神樹の実を食べたせいだと思い込み、全く疑ってもいないらしい。
俯くわたしを見て、ルカさんは神妙な顔をする。少し視線を泳がせたあとに、彼はこう訴えた。
「ウィス。俺たちは、今まで散々な目に遭ってきた。これからもどうなるかわからなくて不安だ」
「わかりますよ。僕たちもそうでした。初めのうちは、ハクトでうまくやれるか不安でした」
「他の白子のことはわからないが、俺たちは相当に特殊なほうだと思う。だけど、なんとか普通の生活に馴染みたいと思ってる」
「大丈夫ですよ。そう思っているならそうなれます。この国には自由があります。意思さえあれば何にでもなれます」
「俺たちには普通というものがわからない。教えてもらわないと多分、何もわからない。どういう風になりたいのかもまだ全然わからない。ただ漠然とだが、ウィスとアイシャのように穏やかに暮らしたいと思ってる」
「そうですね、きっとそれがいいです。僕たちはこれ以上ないくらいに幸せですから」
「だから、これからも俺たちに教えてほしいんだ。普通に生きるにはどうしたらいいか。時間がかかるかもしれないが、見捨てないでもらいたい。迷惑をかけてしまうかもしれないけど……」
ウィスさんは快活に笑う。初めて会ったときと同じ、太陽のように暖かい笑顔でこう言った。
「もちろんですよ。僕たちに出来る範囲であれば、何でもお手伝いしますから。安心して、いつでも頼ってきてください」
ルカさんはウィスさんの申し出に対して目を潤ませる。その表情は今まで見たことがないくらい気弱なもので、いつも気丈だったルカさんが初めて見せた頼りない少年の顔だった。
「ありがとう……ございます」
ルカさんは変わろうとしている。前を向いて歩こうとしている。今までもそんな気配は感じていたけど、今回は今までにないくらい強い意思を表していた。
彼が初めて使った敬語は、たどたどしいものだったけど、ウィスさんへの感謝に満ち溢れている。わたしはとても勇気付けられた。ルカさんはわたしを谷底から引き上げてくれようとしている。わたしも前を向かなければならないと思った。
頭の中でクスリと笑う声が聞こえる。マグノリアが笑っている。彼女はわたしの気持ちを後押ししてくれているようだった。
怯えなくてもいいのかもしれない。彼女はわたしの味方なのかもしれない。周囲に目を向けてみれば、意外にわたしの味方は多いのかもしれないなと思う。
わたしが眠りについてから、一晩が経過していたらしい。約束通りフリンジ風の可愛らしい衣装を着せてもらったソフィアは、すっかりウィスさん夫婦に懐き、まるで家族と一緒にいるように明るい笑顔を見せていた。
アイシャさんは嫌な顔ひとつせず、わたしたちが残した朝食を片付けていく。ルカさんは申し訳なさそうな感情を浮かべていたけど、彼女の優しさに素直に甘えようとしているのがわかった。
わたしの目の前にあったのは、絵に描いたように穏やかな光景。理想とはだいぶん違っていたけれど、この光景もそんなに悪くない。わたしの前途はそこまで暗いものではないのかもしれないなと単純にも思い始めていた時だった。
玄関の扉をノックをする音が聞こえてくる。はいと声をあげながら駆けていったアイシャさんが、明らかに動揺した声を上げる。
それはわたしたちの穏やかな生活に不協和音をもたらす人物の訪れであった。




