第十一章(3)
「大変です、大変です、ルカさん!」
「どうした? カノン」
わたしは狼狽しながら、ルカさんに駆け寄り足元にへたり込む。ルカさんは心配そうに顔を覗き込んでくれて、それだけでわたしは泣きそうになってしまった。
「わたし、昨日から何も食べていません。それどころか、藍の都に着く前に少し食事を摂ったのが最後で、それから一体何日経っているのか……」
「腹が減ったのか?」
「違います、逆です。わたし、全然お腹がすかないんです……一体どうしたんでしょう」
今までカノンとして生きてきた十四年間。苦しいときもあったし、悲しいときもあった。だけど必ずお腹がすいた。一日も欠かすことなくご飯を食べてきたのである。
そんなわたしが、数日間食事を摂っていない。それなのにお腹がすいていない。それだけならまだしも、眠ってもいない。昨日の夜明けに目を覚ましてから丸一日以上経つのに、わたしは未だに眠気にも襲われない。どういうことなのだろう。何が起こっているのだろう。
「ルカさん。わたし、ルカさんみたいになってしまったんでしょうか。食べなくても眠らなくても大丈夫な体になってしまったんでしょうか」
「落ち着け、単に興奮してるからじゃないのか? ここ数日色々あったし……」
「そうでしょうか? そうだといいんですが。わたし、こんなこと初めてで……どうしたら良いんでしょう」
本当に食べなくても良いの? 眠らなくても良いの? 急に体がおかしくなったりしない? むしろ、お腹が減るまで食べ物を一切食べてはいけないの? 眠ってはいけないの? もう二度と、美味しいご飯を味わったり暖かいベッドで眠りについたりできないの?
どうでもいいことなのかもしれない。今まさに嵐に怯えて眠れないアピスヘイルのみんなに比べたら、酷く能天気な悩みなのかもしれない。
だけどわたしは気付いてしまった。昨日からやけに時間の感覚に乏しいと感じていたけれど、それはお腹が減らないからだ。眠たくならないからだ。
「わたし、本当に藍猫さまになってしまったのでしょうか。神さまになったからこんな体質に?」
「落ち着け。俺は別に神さまでなくてもこんな体質だぞ」
「そういえば、そうです。ルカさんは生まれつきそういう体質だったんですか?」
「いや、俺は十年ほど前から段々と……」
「元々は普通の体質だったんですか?」
「そうだ」
じゃあわたしのこの変化は、単に白子の成長によるものなのかしら。人によって発現時期に差があるだけなの?
「なあ、スイ。お前も元は白子だったんだろ? これは普通のことなのか?」
「……普通のことと言えば、普通のことかもしれないね」
スイさんは進行方向に手を翳しつつ、曖昧な答えを返す。船は先程までと異なり、穏やかなスピードで走っていたから彼の声はよく聞き取れた。
「そういう体質になった白子はたくさん知っているし、そういう体質にならない白子もたくさん知っている。普通と言えば普通だし、普通じゃないと言えば普通じゃない」
「なんだよそれ。もっと簡潔に答えろよ。藍猫が憑いたからこうなったのか? カノンは大丈夫なのか?」
「カノンに関しては、藍猫が憑いたから変化したんだろう。大丈夫かどうかと言われたら、本人次第としか言いようがない」
わたし次第……。わたしを取り巻く状況は前例のないことらしい。
スイさんにわからないということは、狐翠さまにもわからないということで、神さまにすらわからないということは、この世の誰にも明確な答えが用意できるはずがない。
要するに、わたしが我慢すればいいだけのことなのだ。
わたしったら。いちいち哀れっぽく騒ぎ立てて情けない。心臓を捧げることに比べたら大したことないじゃない? いつまで臆病者を続ける気なの。こんな弱々しい気持ちじゃ、次の機会にもお役目を仕損じてしまうわ。
「そうですよね、ごめんなさい。小さなことで騒いだりしてすみません……」
橙戌さまと相談しないとなにもわからないとスイさんが言っているのだから、とにかくわたしは大人しく付いていけばいいのよ。
わたしは肩を落とし、再び船縁で風に当たろうとしたけど、ルカさんに袖を引っ張られ引き戻される。
「どうしました、ルカさん」
「どうしました、じゃないだろ。話がまだ終わってない」
「いいんですよ、ルカさん。わたしが気にしすぎだっただけで……」
「気にしすぎるほうがいいんだよ! 小さなことでも抱え込むな。疑問点は逐一はっきりさせよう。どんな悪夢に繋がるかわからねえんだから」
ルカさんはわたしの肩を優しく叩くと、再びスイさんに向けて問いかけた。
「本人次第とはどういうことだ? 体質を元に戻すこともできるのか?」
「元に戻せるかどうかはわからないが、元のように過ごすことは可能だよ」
「どうすればいいんだ?」
「別に、特別なことはなにもない。今まで通りに過ごそうと努力すればいいだけさ」
「努力……?」
「自分がどうありたいか、明確に思い浮かべてそれを実行し続ける。その意志が強ければ、結果は必ず付いてくる」
「…………」
「自分というものはね、自分で創って行くものなんだよカノン」
スイさんは空を見上げて、詩ようなものをそらんじる。
「『神が創り与えしこの体は、唯一のものにして最高の逸品である。よく学び、よく遊び、よく生きよ。隅々まで自らを感じ、世界と魂の境界を自ら創り上げるのだ』……」
「なんですか? それは」
「神の書の一節さ。私は神なんて信用していないが、この文章については同意でね」
神の書? フリンジ国の教典かなにかかしら。ラウドの書もアルスの預言書も藍猫さまの創作らしいから、少なくともそれらのことではなさそうだ。
「神を信用していないって、お前は神の仲間なんじゃないのか?」
「司彩は神ではない。君たちにわかりやすいように神様と言っただけだ。この世界には本当の神様がいたんだよ。ずっと昔のことだけどね……」
「本当の神様?」
「創造神のことだよ、ルカ。この世界はひとりの創造神によって創られた。……そうだね、橙戌との話し合いが終わったら君たちを神様の国に招待しよう」
「神さまの国?」
それは翠の都ということなのか、他の神さまの島と言うことなのか。スイさんはクスクスと笑い声を上げながら続ける。
「"本当の神様の国"で"本当の神様の本"を見せてあげよう。きっと君たちの疑問にも答えてくれると思うよ。さらなる疑問にも突き当たってしまうかもしれないがね」
「…………」
スイさんと話していると、どんどんと迷路に迷い込んで行くような気分になる。よくわからないけど、わたしたちの疑問には橙戌さまに会った後に回答すると言いたいのだろう。
「橙の都で橙戌に捕って食われるわけじゃないんだな。話をするだけなんだな?」
「ずっとそう言っているだろうルカ。私が信用できないのかい?」
「信用できるわけねーだろ! 俺たちは藍猫に食われるところだったんだ」
「それは大変だったね。藍猫は大変な悪食だ」
「あれはお前らにとって普通のことじゃないのか?」
「さあ。私は司彩の食習慣については詳しくは知らないがね、少なくとも狐翠様は白子なんて召し上がらないよ。橙戌様だって、そうなんじゃないかな」
「本当か?」
「本当さ」
ルカさんは思い切りスイさんを睨み付けていたけど、全く動じない彼にようやく納得したそぶりを見せた。
「明日の夜明けには到着するよ。それまでは楽にしておいてくれ」
わたしたちは話すこともなくなって、ぼんやりと海を眺めた。
雲ひとつない快晴。穏やかな海にはゴミひとつ浮いておらず、船が上げる水しぶきの音だけが辺りに響いている。
こんなに暇だったら、普段ならきっと眠たくなるはずだ。だけどわたしは一向に眠気に襲われず、延々と景色を眺め続けることができた。藍の都で心臓を刺されて"熟睡"したらしいルカさんも、特に眠たくならないみたいでわたしと並んで海を見ていた。
ルカさんと一緒に神官になるという夢は叶わなかったけど、こうしてルカさんと違う国に向けて旅に出られたのは良かったことなのかもしれない。アピスヘイルのことさえなければ、わたしはもっとはしゃいでいただろうに……。
わたしはふと何かを話したくなって、彼に向けて口を開く。
「ルカさん。神さまの国ってどんなところなんでしょうね」
「さあ……」
「楽しいところだといいですね。白子もそうじゃない人も区別なく暮らしているような……」
「そうだな」
「ルカさんの故郷でも、やっぱり白子は特別な扱いを受けていたんですか?」
「俺の故郷もアピス国だからな。小さい頃には教会は無かったらしいが、気が付いたら出来ていた。まあ、教会が出来る前から俺たちは変人扱いされていたんだが……」
「変人扱い?」
わたしはキョトンとする。ルカさんは少し眉をしかめて何かを考えていたようだけど、ふと表情を緩めて話を続けた。
「俺の故郷はディールという小さな村だ。多分アピスヘイルからは遠い。青の道のはるか上流にある。十年くらい前に教会のやつらが村に住みつくまでは、村のやつらは藍猫も白子も知らなかったんじゃないかと思う」
「ディール……聞いたことがありません」
「そりゃそうだろう。アピス国にはたくさんの小さな集落があるからな。何の特徴もない小さな小さな村だから、アピスヘイルのやつらは誰も知らないだろう」
確かアルベルト派の主なお役目が、アピス国全土に藍猫さまの教えを広める活動をすることだった。今思えば、それは王権を与えられなかった派閥の人たちが都を追われた結果そうなったんじゃないかと思い当たるのだけど……。
とにかく、アルベルト派の聖職者の誰かがルカさんの村に行き着いて、布教活動を始めたのが十年くらい前ということなのね。
「ディールには白子に対する偏見は無かったのかもしれないが、そもそも俺たちは浮いていたからよくわからねえ。俺はほとんど家から出たことがなかったから、村がどんな様子だったのかもよく知らん」
「家から出たことがなかった?」
「母ちゃんが出るなと言ったんだ。俺んちは変な家だったから、村人が気持ち悪がるから、家から出ちゃいけないと」
「変な家って、どういうことです……?」
「確かに変な家だったんだ。妙にデカイ家で、ボロボロで廃墟みたいだった。たくさん本があったが、どれも妙な文字で書いてあって読めないと母ちゃんが言ってた。地下で何か研究でもしてたのか、すんげえ変な匂いがしてて、母ちゃんが絶対に近づくなとうるさかったな……」
「は、はあ……」
何それ。確かに変な家だわ。"お化け屋敷"とでも言われていそうな変な家だ。
「父ちゃんが居た頃は、なんだかんだで金があったみたいでそれなりの暮らしをしてたが、父ちゃんが死んでからはかなり苦しい生活だったな。母ちゃんにはずいぶん苦労を掛けたと思う」
「お父さま、亡くなられたんですか」
「ああ。俺の九つの誕生日の朝だ。あいつ、ふらりと帰ってきて……突然死んだんだ。あれからだったな、俺の体質がおかしくなりはじめたのは」
「え……」
「よく覚えてる。初めて俺が奇妙な夢を見たのは、あいつが死んだ夜のことだったから」
奇妙な夢。ルカさんが何度か口にしていた悪夢の話だろう。白子は前世の記憶を夢で見るらしいので、繰り返し見る奇妙な夢というのは前世の記憶を思い出しているに違いないと思っていたけど……。
あっ、とわたしは声を上げる。ルカさんは怪訝そうにこちらを見下ろした。
「そういえば、わたしも見ました……。繰り返し見たわけじゃないんですが、奇妙に現実味のある夢……。藍の都で気を失っているときです」
「前世の夢か?」
「もしかしたら、そうなのかもしれない。でも、どうして今更……そんな夢を見たのでしょう」
わたしは夢の内容を思い出そうとする。夢の中でわたしは誰かと話していた。男の子だった。ルカさんみたいに粗野な話し方をする男の子で、わたしは彼と恋仲のように見えた。
「どんな内容だったんだ?」
「大した内容ではありません。ただ、誰かと話していただけの……」
「俺も初めはそうだった。変な世界の夢だったが、悪い夢じゃなかった」
「段々変わっていったんですか?」
「ああ……。悪い部分だけを繰り返し繰り返し見るようになった。毎晩だ。それからあまり眠りたくなくなって、ついに眠れなくなった」
「…………」
わたしは黙り込む。ルカさんの体験談は、わたしの今の症状と重なっていて気味が悪かった。
わたしも悪夢を見るようになるのかしら。ルカさんのように自傷を繰り返すようになってしまうのかしら。
「まあ、俺の場合とは違うかもしれねえし、あんまり気にするなよ。スイも言ってたじゃねえか、白子にもいろんなやつがいるって」
「はい……そうですね」
わたしは少し寒気がする体を抱いて、再び地平線の彼方を見つめた。相変わらず何もない風景だったけど、ちらほらと鳥が飛んでいる姿が目につくようになっていた。




