第十一章(1)
不思議な服装。胸の辺りで交差させた白い衣。ウエストの高い位置に巻かれた木製の帯と、深緑の襞のある長いキュロット。ヒラヒラした袖を豪華な刺繍入りのひもで縛り、二の腕までまくりあげている。こんな装いは今まで見たことがない。似たようなものすら見たことがない。
不思議なのは衣装だけじゃない。内側から輝くような金緑のサラサラの髪。金色の瞳。あまりの綺麗さに思わず息を飲む。だけど、それだけじゃない。最もこの人物を際立たせているのは、その顔だった。抜けるような白い肌に、スッと通った鼻筋。切れ長の瞳は長い前髪に半分隠れてしまっていたけど、隠しきれないほどの美貌が爛々と輝いていた。
「…………」
思わずため息をつくわたし。こんなに綺麗な顔の男の人には今まで出会ったことがない。いや、テオドアがこれくらい美形だったかもしれないけど。まるで絵本の世界に出てくる王子さまみたいだわ。
「誰だよ、お前」
ついつい見とれるわたしに対し、ルカさんは思い切り顔をしかめ、警戒するように後ずさる。
「怪しいものじゃないよ。ただの通りすがりさ」
「こんなところを通りすがるか! 嘘つくんじゃねえよ!」
ルカさんの攻撃的な様子に、彼はやれやれと肩をすくめた。
「失礼。通りすがりは冗談だ。だけどね、怪しいものじゃないのは本当だよ、ルカ」
「! なんで名前を……」
「話を聞かせてもらったと言ったじゃないか」
クスクスと笑う男の人。一体いつから聞いていたんだろう。そもそもどこで聞いていたの? 彼はずいぶん向こうにいて、とても会話が伝わるような位置にはいなかったのに。
首を傾げるわたしに、不思議な男の人は言った。
「聞こえるのは音だけじゃないんだよ、カノン」
わたしは驚く。まるで心の声を聞かれたかのような応答。見とれている場合じゃないかもしれない。わたしも腰を浮かせて、わずかに後ろへ移動する。その反応が可笑しかったのか、彼は軽快な笑い声をあげた。
「すなない、怖がらせる気はなかったんだ。本当だよ? すまない」
彼は胸に右手を付け、右足を後ろに折って礼をした。それは見慣れたアピスヘイル式の会釈で、わたしはギョッとする。
顔をあげながら彼は名乗った。透き通った声でこう言った。
「私の名はスイ。翠の司彩、狐翠様の小使いだ。以後お見知りおきを」
わたしたちは間抜けにもぽかんと口を開けたまま、お互いの顔を見合わせた。
「ツカサ……? コスイ……?」
「知っていますか、ルカさん?」
「知ってるわけないだろ」
「ですよね……」
ボソボソと相談するわたしたちの耳に、再び軽快な笑い声が届く。
「君たちはなにも知らないようだね。藍猫は白子を相当に警戒していたようだ。気持ちは分からないでもないがね」
「あの……どういうことなんでしょう」
「そうだね。説明しておいた方がいいかな」
スイと名乗った男の人は、可愛らしく小首を傾げる。いちいち魅力的に映る所作にわたしは思わず目を逸らした。スイさんはクスリと笑って言う。
「司彩というのは、神様のようなものだよ。この世を構成する元素、"彩"を司る聖霊。彼らは彩の名と、獣の名をそれぞれ冠している」
「神さま……、彩……」
「君がよく知っている藍猫がいい例だ。彩の名である"藍"と、獣の名である"猫"を冠しているだろう?」
藍猫さまは、青い猫と言う意味の名だ。ということは、先ほど聞いたコスイと言うのは……。
「狐翠様は、狐に翠と書く。緑色のキツネということだよ」
なるほど。納得するわたしの隣で、ルカさんが吠えた。
「藍猫みたいなやつが、他にも居るってことか?」
「そうだ。司彩はこの世界に六柱いる」
「六匹もいるのか……」
愕然とするルカさん。わたしも開いた口が塞がらない。だって唯一神と崇めていた藍猫さまが、まさか六神のうちのひとりだったなんて。
「信じられないかい? だけどね、本当だから仕方がないんだよカノン」
「!」
また心が読まれたらしい。わたしは思わず身を強ばらせた。強ばらせたところで、心を読まれないようにする術は持っていないんだけど……。とにかく、変なことを考えないように気をつけなきゃ。
「私はここから北にある、翠の都フロイトからやってきた。狐翠様の命を受けてね」
「狐翠さまの命……?」
「藍猫様の代が変わられるようなので、挨拶をしておくようにと。新しい藍猫様に、一番に顔を見せておくようにと」
「新しい藍猫さま?」
首を捻るわたし。スイさんは何故だかスタスタとこちらに歩いてきたので、わたしは慌てて後じさる。あまりに素早く距離を詰められたので、わたしはバランスを崩して尻餅をついてしまった。
ふわりと衣服をなびかせて、わたしの前にひざまずくスイさん。疑問符を浮かべまくるわたしに、彼は言い放った。
「新しい藍猫、カノン様。翠の都フロイトを代表して、スイが心よりお祝いを申し上げます」
………………。
「えぇーーーーーっ?!」
わたしとルカさんは、一瞬の沈黙の後、ほぼ同時に叫び声を上げた。
わたしが、藍猫さま? なにそれ、どういうことなの? 驚きで声が出ないわたしに代わり、ルカさんが口を開く。
「一体どういうことだ? カノンが藍猫? そんなわけねぇだろう」
「間違いないよ。カノンが今の藍猫様さ。思い出してみて、カノン。君は自分に向かってくる藍猫の姿を見たね?」
「見ましたけど……」
あれは確か、エリファレットさまが襲われたあと。痛ましい彼女の姿はあまり思い出したくないものだったけど、彼女の心臓の辺りから噴き上がる青い煙についてははっきりと思い出した。
「青い煙のようなものがエリファレットさまから湧きだして、藍猫さまのお姿になりました。そしてわたしのほうに向かってきて……」
「そのときに君の中に入ったんだよ、カノン。司彩というのはそういう生き物だからね」
「そういう生き物って、どういうことだよ」
「白子の体を乗っ取りながら生きる生き物なのさ。彼らには固有の器がない。新しい体に乗り換えながら永遠を生きるんだ」
体を乗っ取る? わたしはその言葉に思わず身を縮ませた。そして両肩から両腕、両足に手をやり感覚を確かめてみるけど特に変わったところはない。
「あの、乗っ取るってどういう……」
おずおずと問いかけたわたしに、スイさんは初めて困ったような顔を見せた。
「司彩は器に傷がつき、修復不可能となれば最も近くにいる白子に寄生先を変える。だから君に藍猫が入ったのは間違いない。間違いないんだが……」
「どうしたんだよ」
沈黙を挟むスイさんに、ルカさんは苛立った声を上げる。
「何かおかしなことが起きているんでしょうか……?」
わたしの問いかけに、スイさんはようやく重たげに口を開いた。
「藍猫様が発現されていない。君の髪は白いままだし、ここにあるはずの要塞も崩れてしまっている。こんなことは初めてで、私自身も戸惑っているところなんだよ」
そう言われ、わたしは反射的に髪の毛を掴む。輪郭に沿うように垂らしたわたしの長い前髪は、長年見慣れた白銀の色をしていた。
「あの、藍猫さまが乗り移った白子は、髪の色が変わるんですか?」
「そうだよ。エリファレットがそうだっただろう。彼女が先代の藍猫様だったんだからね」
わたしはふと思い出す。藍猫さまが抜け出た後のエリファレットさまが銀色の髪の毛に変わっていたことを。そして何言かを呟いたことを。
「彼女は死の間際に、白子としてのエリファレットに戻ったんだよ。一瞬だけだけどね」
まるでわたしの思い出した光景を一緒に見たかのように、スイさんは語った。
「そうだったんですか……」
わたしはなんとなくそう相槌を打ったけど、実のところ何も理解できていない。既に頭がパンクしそうだった。与えられた情報量が多すぎて。
それなのにスイさんは口を開く。さらなる情報をわたしに植え付ける。
「通常なら、藍猫が乗り移った直後に君は藍猫と一体化するはずだった。髪は輝く青に染まり、歴代の藍猫と人形たちの記憶を接続され……先代の死から大した間を置かずに、君は大勢の手足を従える頭としてこの地に君臨できたはず」
「…………」
「だけど君は、私がここ数時間観察している間ずっと白子のままだ。変化の兆しもない。こんなことは初めてで、私も本当に驚いているんだよ」
「数時間も観察してたのかよ……」
ルカさんはそう毒づいたけど、わたしは他のことで頭がいっぱいでなんとも思わなかった。何も思えなかった。この時わたしの頭の中は、じわじわと湧き上がってきたあるひとつの事柄でいっぱいになっていて、何も考えることが出来なくなっていた。
「…………」
「おい、カノン。どうした?」
わたしの異変に気付いたルカさんが、心配そうな声を掛けてくる。
「どうしたんだい?」
続いてスイさんが、俯くわたしの顔を覗き込んで問う。彼の透き通った金色の瞳が視界に入り、わたしはその輝きに吸い込まれるように視線を上げた。
「やっぱりわたしのせいなんでしょうか……」
わたしは無意識に口を動かした。
「わたしが儀式を失敗したから……藍猫さまはわたしにお怒りになって……それで……」
声が震える。それ以上は言いたくない。考えたくない。わたしは肩を震わせながら、上目遣いにスイさんを見た。まだわたしの前に膝を付けたままの彼だけど、彼の体はなぜだか大きく見える。
きっとそれは、わたしがあまりにも縮こまっていたからだろう。ぺたりと内腿を地面に付けて、背中を丸めて、小動物のように震えるわたしにスイさんは、口を押さえてクスクスと笑った。
「いやいや、違うよ。少なくとも君が考えているようなことはない」
「それは……どういう……」
「君がエリファレットに言われたように出来なかったから君に罰が下っているわけではないし、君が選ばれた魂じゃないから藍猫を発現できていないわけでもない」
きっぱりと言いきるスイさんに、わたしの心に立ち込めていた暗雲に晴れ間が覗く。
「じゃあ、どうして藍猫さまはお姿を隠されてしまったんですか。神殿は崩れてしまったんですか」
「それはわからない。異常事態が起こっている、としか言えない」
肩を竦めるスイさんに、わたしの頭の中は再び暗雲に覆われた。
「……やっぱりわたしのせいなんじゃないですか?」
「そんなことはない。問題を発生させているのは藍猫自身だよ。君にはなんの落ち度もない」
「でも、わたしが上手くやれていたら……」
「確かに藍猫があの時君の血を取り込めていたら、結果は違ったかもしれない。だけどそんなことは関係ないよ。それを含めて上手くやるのが司彩の責任。上手くやれなかったのは単に藍猫がトロかったからだ」
わたしの心臓がびくりと跳ねる。スイさんの言葉に若干の冷たさを感じたからだ。
スイさんの顔を見る。彼の表情は相変わらず柔和なものだったけど、細められたその目は意地悪な色に染まりつつあるような気がした。
「そうだよ、藍猫が悪い。今起きている混乱も、これから起きるだろう災いもね」
その予感が間違っていないことを、わたしはすぐに理解することになる。悪意に満ちた声でクスクスと笑いながら、彼はとんでもないことを口にする。
「今まさにアピスヘイルの上空を覆っている嵐の雲は、彼女の不始末の最たる例だね。彼女は今、仕都として敬虔に仕えてくれたあの街を保護する責任すら全うできずにいる。契約違反だ。とんでもないことだよ」
「!!」
目を見張るわたしに、スイさんは尚も笑いながら言う。
「今までアピスヘイルに与えられていた特権は全て、"藍猫様のお力"によるものだからね。これからあの街には災厄が降りかかることになるだろう。今まで彼女の手で遮蔽されていたすべての災厄だよ? それはもう、一つの街に止まらず、周辺諸国にまで波及することになるだろう。困ったものだね」
全然困ってなさそうに肩を竦めるスイさんだったけど、その話はわたしを震え上がらせるのに充分な破壊力を持っていた。
「わ、わたし、そんな恐ろしいこと……」
「だから、君の責任じゃないよ。全く君には関係のないことだ」
スイさんはクスクスと笑いながら、でも、と付け加える。
「君はとても真面目な人間なんだね! 責任をとろうと考えている。藍猫がやらかしたヘマの後始末を、その小さな体でなんとかしようとしてくれているんだよね。すごいすごい。なかなか真似できない考え方だよ」
スイさんはパチパチと、先刻聞いたあの奇妙な音を立てた。この場には全く似つかわしくない、称賛の意を示す音。あの時彼がそんな音を立てたのは、わたしの発言を受けてのことだったのか、と今さら思い当たる。
「で、でも、どうしたらいいか、わたしには何も……」
「そうだよね。そりゃあそうだよね。わからないよね」
スイさんは満面の笑みを浮かべながら、わたしに向けて人差し指を突き立てて見せた。
「それで、私から提案があるんだ。責任感の強い君にもご満足頂けそうなプランだよ。聞いてくれるかい?」
わたしは力を込めて何度も頭を上下させる。この不安で一杯の状況下、神さまの使いの人に直接ご指示を頂けるなんて願ってもないことだった。
「もちろんです。わたしは一体何をすれば良いんでしょうか」
「それはね……」
人差し指を唇の前に持っていき、彼が語ったこと。それはとても簡単なことだった。
一瞬の迷いもなく承諾するわたしに、ルカさんは困惑の表情を浮かべていた。




