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衰退世界の人形劇  作者: 小柚
上巻
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第一章(3)

「ねぇ、ばあや」

「何でございましょう、カノン様」

 わたしは夕餉の席で、大きなテーブルに一人分だけ置かれた食器を見ながら口を開いた。

「今日がなんの日か覚えている?」

「もちろんでございます」

 ばあやはわたしの首にエプロンを巻いてから、チリンとベルを鳴らす。

 召使い達が次々と、テーブルに食事を置いていく。パンの入ったバスケット、一欠片のバター、お豆のポタージュ、生野菜の盛り合わせ。

 わたしは茶色くてカチカチのパンを手に取り、大きなため息を漏らした。

「ねぇ、ばあや。今日はわたしのお誕生日なのだけど」

「存じております」

「リリムは先月、たくさんの親戚や友人を招いてパーティを開いたって言っていたわ」

「お恥ずかしい限りです。サナトリム本家は戒律に疎いもので」

 苦々しい声。わたしがしびれを切らして振り返ると、ばあやの眉間には深いシワが刻まれていた。

「リリムだけじゃないわ。アイリスだって、姉さま……シノンだって、お誕生日にはご馳走を食べているのよ」

「左様でございますか」

「別にご馳走を食べたいわけじゃないの。ただわたしは、白くてふわふわなパンくらい食べられないものかなって」

 せめて誕生日くらいは、と言いかけてわたしは口をつぐんだ。

 誕生日だけじゃなくて、毎日だって食べたい。誕生日だけ食べられたところで、心は全く満たされないことは自分でもわかっていた。

 わたしはじっとばあやを見る。白髪が半分くらい混ざったひっつめ髪は、仕事終わりに近い時間だというのに一切の乱れもなく、ばあやの几帳面さを体現していた。

 紅の引かれていない、肌色に埋もれてしまった薄い唇がゆっくりと開かれる。

「アピスヘイルの都民に、貴族のような生活をしている者はほとんどおりません。平均的な都民はこのような黒いパンを食べ、豆のスープを飲み、野菜を食します。彼らは誕生日であろうが、同じものを食べます」

「それは何度も聞いているわ。だけど、たまにはわたしだって……」

「白子は八戒を厳守しなければなりません。アピス国の代表として、平均的な都民の暮らしを理解しなければなりません」

 一度八戒という言葉が出てしまうと、ばあやはもう同じ話しかしない。わたしは食卓に向き直り、茶色いパンを見つめた。そしてもう一度ため息を付く。

「あなたが特別に質素な暮らしをしているのではありません。貴族たちが過剰の暮らしをしているのです。そのことをきちんと理解されていると仰いましたから、修道院へ通う許可が下りたのです。もしこれ以上変なことを仰られるようなら……」

「はあい。八戒ね、わかっているわ。大丈夫よばあや」

 わたしはばあやの話を遮り、勢いよくパンを食べ始めた。バターを塗り、スープに浸せば割と美味しく食べられることは長年の経験からわかっている。毎日のようにお昼に白パンを食べているから、少し物足りなくなっただけなのだ。

「わたしが修道院に通っているのは、勉学のためよ。けして貴族の女の子たちに混じりたかったわけじゃないわ。本当よばあや」

 ましてや、お昼に白いパンが食べられるからなんて不純な動機じゃないわ。心の中だけでそう主張して、ペロリと舌を出す。

「よく存じております」

 わたしの内心を知ってか知らずか、ばあやは一言そう言って後ろに下がった。

 わたしはふやけたパンを頬張りながら、視線を上げる。大きな食卓テーブルの先には、聖堂へ下りる階段と、その真上に飾られたガッシリした額縁が見えた。その中には厳かな文体で書かれた八列の文字が並んでいる。

《一の戒 応変 神民は変化に応じよ。停滞は怠慢なり》

《ニの戒 就学 神民は学に就くべし。無学な者を主は愛さじ》

《三の戒 天真 神民は天から与えられたままであれ。偽りを纏うべからず》

《四の戒 公序 神民は公に準じよ。公とは最大幸福である。隣人と同じ物を愛することである》

《五の戒 賛美 神民は美を愛すべし。美は尊ばれる存在である》

《六の戒 正伝 神民は正しく伝えよ。主の言葉を曲げることは許されじ》

《七の戒 穏便 神民は穏やかであれ。怒りは自らを滅ぼすだけと心得よ》

《八の戒 献身 神民はいかなるときも主と共にあれ。主から離れた先には闇しかあらず》

 これは、『神民の八戒』と呼ばれるものである。教典の二章から九章に書かれてあることを端的に纏めた文章だ。

 わたしたちの神さま、藍猫さまは、わたしたちアピス国の民を愛してくださっているけれど、全ての民を無条件に慈しんでくれるわけではない。藍猫さまから永遠の慈愛を受けるために、わたしたちは努力をしなければならない。それがこの八戒なのである。

「藍猫さま。確かに隣人と同じ物を愛するのは大切だわ」

 食事の後、お清めの湯浴びで体をきれいにしてもらったわたしは、ホカホカの体で部屋に戻りベッドに身を投げ出してぼやいた。

「隣人が普通の、平均的なアピス国民というのも分かるわ。過剰な振る舞いは公序に反するというのもわからなくはないわ」

 ばあやによると、わたしがこのような質素な生活を強要されているのは、四の戒の『公序』に従うためのことらしい。

 確かに教典の引用部分、五章『公序』には、我欲にまみれた人が公共の設備や食糧を奪い、人々に迷惑をかけるお話が載っている。このアピスヘイルで豊かな暮らしをする貴族たちが、平民の人たちのものを吸い上げていると悪く言われていることも知らないわけではない。

 だけど。だけど。

「わたしが白いパンが好きだという気持ちは、偽りのない気持ちなのです藍猫さま。これを隠すことは、三の戒の『天真』に違反することになりませんか」

 考えてはならないことかもしれないけど、教典のお話は曖昧な部分が多い。八戒もいまいち具体性に欠けて、解釈の仕方でいろんな言い訳が成り立ってしまう。

 だから貴族の人たちは、敬虔な神民を演じながら平気で優雅な暮らしをするし、平民の人たちもそのことを強く批判したりできない。

 そもそも八戒は、藍猫さまから慈愛を受け、死後に楽園で復活するために守らなきゃならない戒律であって、リリムのように今世で楽園行きを諦めている人には守る必要のないものだ。

「わたしだって、リリムの小指の先くらいでいい。自由な暮らしがしたいわ」

 だけどもそんなわがままはわたしには許されない。

 産まれながらにして銀色の髪をした子供。わたしはアピスヘイルで『白子』と呼ばれる存在だ。

 白子は普通の神民とは違う。白子は、生きながらにして天の国へ行ける、楽園へ入ることを約束された存在。

 だからわたしはアピス国のみんなのお手本として、八戒を厳守しなければならないし、他にも色々不自由な暮らしを余儀なくされている。

 全ては藍猫さまの思し召し。教典の十二章『黄昏』に、わたしのことが詳しく書いてある。

 教典の一番大切な章と言われているこの章は、一年の終わり、十二月に読まれるのだけど、わたしにとっては毎日のように耳元で念じられているかのような、圧迫感を覚えるものだった。


『白子は、天より使われし神子である。藍猫さまに特に愛された魂が、楽園の創世に先んじて受肉を果たしたもの。主と共に、これから先の審判を行うものでもある』

 十二章に書かれた白子は、とても自分のこととは思えない神秘的な存在だ。

『白子は一周期に一度、芽吹の節に、人の子として生まれる。生まれながらにして白銀の髪をしたその子供は、黄昏の節に母なる主のもとへ帰る。幼少期を神民とともに過ごすことで、神民の暮らしを観察し、主に伝える。これは審判を円滑に行うための仕組みである』

 一周期とは、白子が生まれて旅立つまでの十八年のことだ。三年ごとに区切られた「節」というものがあり、一周期は六節、つまり芽吹の節、成長の節、結実の節、収穫の節、祝祭の節、黄昏の節で構成されている。

 六巡目と呼ばれている現周期の芽吹の節、アピス歴九十一年から九十三年の間に生まれた白子がわたしで、衰退の節、百六年から百八年の間にわたしは神官になるために天の国へと旅立つことになっている。

「そんなこと言われてもね。わたしは神官なんて器じゃないよ……」

 何度かそういう弱音をぶつけたこともあったけど、ばあやにたしなめられた。あなたは間違いなく白子だし、間違いなく神官になるのだから、大丈夫ですと励まされた。

 あまりしつこく言うと怒られるから、ここのところは弱音を吐かなくなった。文句も弱音も、言うだけ無駄なのだ。

 白子は八歳の誕生日を迎えると共に、生まれ育った家の名前を捨てさせられて、神さまの子供として扱われる。

 わたしは八歳の誕生日、母さまが藍猫さまの絵本を読んでくれたあの日の翌日に、アピスリム家の次女『カノン=アピスリム』でなく、藍猫さまの娘の『神子カノン』となった。

 姉さまと呼んでいるシノンと言うあの女の子は、かつては本当にわたしの姉だったのだけど、今はもう他人。わたしたちがこっそりと姉妹を演じ続けていることにばあやも気が付いているけど、今のところ大目に見てくれている。

 だけど母さまに会うことはけして許されず、生家に近づくことすら許されず、わたしは六年前からこの大教会の長塔のてっぺんで一人寝起きしている。

 この部屋には白子以外は入ることができない。大教会の一番偉い人、主教さまを除いては。

 それもこれも、十二章で定められたこと。わたしに抗議する権利も疑問を挟む余地もない。

「仕方がないことなのですよ、カノン様。教典に定められたことは絶対なのです。ただ一つとして破ってはならないのです」

 小さかったわたしは、ばあやにずいぶん不満をぶつけたと思う。ばあやはガンとしてわたしの訴えを聞こうとせず、何度も何度も同じお小言を言って聞かせた。

「白子は神民の代表であらねばならないのです。八戒を体現した存在でないといけない。でないと、我々は次の周期に進めない。白子が立派な神官になることで、衰退の節を終わらせることができるのですよ」

 それもこれも十二章に書いてある。十二章というのは本当に細かいのだ。漠然とした内容の他の章に比べて、ひどく内容が細かくて陰湿だ。

 十二章で一番嫌だと思っている部分が、次の文章だ。

『白子を特別視することは許されない。白子は神官として主と共に審判を下すことになるが、審判に支障を来すような記憶を植え付けることを禁ず。白子は八戒を遵守し、一人の平均的な子供として育てよ。けして特定の神民との縁を結ぶなかれ』

 この文章のせいでわたしは腫れ物のように扱われる。みんなわたしにどう接して良いかわからないのだ。

 わたしと仲良しておけば、審判のときに温情を受けられると思う人は少なくない。だけども、教典はその邪な気持ちを禁じている。だからどうして良いのかわからず、大抵の人はわたしの顔を見ないようにして通り過ぎることを選ぶ。

 わたしを振り返って笑ってくれるのは、姉さまと、姉さまの友人と、侍女の何人か、そしてケインさんとリンゼイさんのような奇特な人だけだ。

 まあ、何事も例外は付き物なのだけど。


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