第九章(5)
黒猫の船頭さんたちはその間も巧みに帆と櫂を操って、黙々と船を進めている。わたしたちに興味がないのか、触れないように命じられているのか知らないけど、ちらりともこちらを見ようとしない。
禾穂と羊角の白子が相容れないものだと知ってしまったわたしは、いくら彼らが見ていないからといって不用意にルカさんと雑談をする気になれない。わたしたちはお互いに視線をそらして、ただぼんやりと景色を眺めた。
川岸には背の高い草がぼうぼうと生え、かわいらしい桃色の小さな花が群生している。その先の陸地は森だったり、山だったり、草原だったりして、およそ人が踏み込んだことがなさそうな、自然そのものの姿が広がっていた。
ここはもう、死者の領域なのだ。わたしはふと気が付く。アピスヘイルは青の道の一番下流にある街。藍猫さまのいらっしゃる藍の都に最も近い街である。アピスヘイルの上流からも水葬の棺は流れてくるけど、アピスヘイルよりも下流から流れていく棺はない。アピスヘイルから先は、死者と黒猫しか足を踏み入れない領域なのである。
そよそよと吹く風。そのおかげで、川下りは順調だ。エリスフェスタが終わった後、アピスヘイルの空は再びどんよりとした重たい雲に覆われ始めたけど、まだ雨が降り始めるには至っていない。オズワルドさまが祭りのすぐ後を旅立ちに指定したのは、その狙いもあったのかもしれない。折角の貢物が、雨に濡れてしまってはたまらないもの。
数時間ほど時間が流れただろうか。川下に何やら建造物と、何艘かの小舟が目に入った。川辺に突き出した桟橋で、一人の黒猫が手を振っている。
「やあやあ、長旅ご苦労様。待っていたよ。こっちこっち」
黒猫にしては珍しく、その人は陽気な性格をしているようだった。船に乗っていた黒猫の一人がロープを持って桟橋に跳び、足元の杭に結び付ける。
「やあ、クミン。ご苦労様。朝飯まだだろう、中に用意してあるよ」
陽気な黒猫が彼に駆け寄って、労いの言葉と共に肩を叩いた。その手を振り払い、クミンと呼ばれた黒猫は面倒そうに呟く。
「ルーク、喋んなって言われてるだろ」
「固いこと言うなよ。どうせここにはお偉いさん方はいないんだし」
ルークと呼ばれた黒猫は、今度はこちらを振り向いて言った。
「やあやあ、白子様もお疲れ様。えっと、カノンちゃんとテオドアくんだっけ? ごめんねぇ、おじさん、砦暮らしが長くてさぁ、あんまり街のこと知らないんだよね」
「こら、ルーク! 白子と喋るなって言われてるだろ!」
ルークさんはクミンさんの叱責をものともせず、ふらふらとわたしの方に歩み寄ってくる。
「カノンちゃん? 可愛いねぇ。まだ十四なんだって? それなのに、こんなことになって可哀そうにねぇ」
「あ、えっと、その……白子なんで、仕方ないです……」
「いやいや、白子だからって、無理に国を背負わせて外なる海に送り出すなんてねぇ、こんな死体みたいな扱いで。おじさん、どうかと思うんだよねぇ。お偉いさんには言えないけどねぇ」
ルークさんはわたしの目線の高さに合うように座り込んで、よしよしとわたしの頭を撫でた。その暖かい手に、思わずわたしの涙腺が緩んでしまう。
「わ、どうしたんだい? 大丈夫かい? おい、クミン! カノンちゃんが泣いてるぞ!」
「お前が泣かしたんだろ!」
ルークさんはあたふたとして、わたしの背中をなでたり、汚い布を差し出したりしていたけど、ふと思い立ったようにわたしにこう提案した。
「カノンちゃん、お腹が空いたんじゃないかな? おじさん、料理上手なんだよね。ちょっとあっちで食べて行かないかい? 内なる土地での最後の食事が、おじさんの料理じゃ嫌かもしれないけど」
「いえ、その……わたし……」
そのときタイミング良くお腹が鳴る。わたしは赤面して俯いたけど、ルークさんは嬉しそうに笑って言った。
「そうだよねぇ、白子様でもお腹はすくよね。おい、クミン! お前の朝飯抜きだから、手ぇ付けるんじゃないぞ!」
「はぁ? ざけんじゃねえぞジジイ! こちとら朝から重労働でクタクタなんだよ! 飯分けるんならお前の分にしろよ!」
「俺はもう食っちまったんだよ! もうお前らの分しかないんだから仕方ないだろ!」
「じゃあリコの分をやれよ! 俺は先に食ってるからな!」
クミンさんはそう怒鳴って、桟橋の奥の建物に消えていった。
「そういうことだから、リコ……君の朝飯、分けてあげてもいい?」
ルークさんは、船のマストを畳んでいたもう一人の黒猫にそう問いかける。リコと呼ばれたその黒猫は、無言でこくりと頷いた。
「よかった。じゃあおいで、カノンちゃん。テオドアくんもどうだい?」
わたしの向かい側に座っているルカさんは、その言葉にプイとそっぽを向く。
「おや。あっちの子は不愛想だねぇ。じゃあ行こうか、カノンちゃん。おいでおいで」
勝手に話を進められ、わたしはいささか困惑したけど、旅立ちの日に初めて優しくしてくれたこのおじさんにわたしはすっかり好感を抱いてしまっていた。
彼に勧められるままに、つい船を降りる。そして彼の後について小さな石造りの建物に入っていった。
この建物は、通称『最果ての砦』というものらしい。焼き魚を頬張りながら、わたしはルークさんとクミンさんの話に耳を傾けた。彼らはわたしに同情してくれているみたいで、こちらが問わずとも色々な話をしてくれた。
彼らはこの砦から陸の方のことを『内なる土地』、向こう側に広がる海を『外なる海』と呼んでいた。外なる海の先に藍猫さまの住まう『藍の都』があるそうだけど、ここから先は亡くなった人間しか送り出すことができないそうだ。
「この先はねぇ、生きているものは入っちゃいけないの。内なる土地の川の水はね、内なる海というところから流れてくる『命水』なんだけど、外なる海の水は『死水』って言ってね、生きているものが浴びたり飲んだりしたら毒なの。体が溶けちゃうの」
外なる海の水は、流れて行った遺体をゆっくりと溶かし、魂だけを藍の都に迎え入れる。できるだけ海に不要なものを流さないように、この砦で棺を回収して、裸にした遺体を板に乗せ換えて海に送り出すらしい。
「おじさんも気が滅入っちゃうよね。死んだ人間の相手ばっかりさせられちゃあさ。初めから船とか棺とかに入れないで流してくれたらいいのにね。だけどね、途中で転覆して外なる海に行けなかったりすると困るからね、仕方がないんだよね」
「服を着せないのは個人の尊厳にかかわるとか、棺の蓋はしっかり止めないと心配だとか、まあ、何も知らねえ奴らは好き勝手言うんだよな」
魚を豪快に骨までぼりぼりと貪りながら、クミンさんがぼやく。
「めんどくせーから、たまにそのまんま流したりするけど。雨が酷い日とか、すげえ量の棺が流れてきたときな。ここ常駐してんの多い日で五人くれえだし、一気に五十とかきたときにゃあもう対処できねえよ」
「大量のご遺体はね、飢饉とかだったらまあいいんだけど、伝染病とかだったら嫌だしねぇ。いっぱい来たときはそのまま流しちゃうねぇ」
「最近は布教も進んで、すげえ遠い村からも船が来んだよ。いったい何日かかってんだよ。もう棺の外までくせーのなんの。あの花の防臭効果もてんで役に立たねーの。やべえよなあれ、まじ勘弁してくれって話」
あんまり食事中には聞きたくない話だった。わたしはコトリとお椀を置いて、秘かにごちそうさまをした。
彼らの話は、街の人たちには全く知られていないものだった。アピスヘイルのほとんどの人が、死者は水葬の儀を終えたらそのまま藍の都に召されるものだとしか教わっていない。黒猫たちがどんな仕事をしているのか、詳しく知ろうとしたこともなかった。
「まあ、なんにしたって、白子は特別だよ。生きたまま外なる海に出られるなんてさ、なぁ、クミン」
「そうだな、白子様はきっと死水も大丈夫なんだろうな。なんたって神から与えられた特別な体を持ってるんだ。きっと溶けたりしねーんだろ」
「ど、どうなんでしょう……わたし、死水なんて言葉、初めて聞いたので……」
わたしは一気に不安になる。そんな話、オズワルドさまは一言も仰らなかった。
うっかり海の水を飲んでしまったら、藍猫さまの元に辿り着く前に溶けて死んでしまうんじゃない? それともクミンさんの言うように、白子は死水を飲んでも大丈夫なのかしら。
わたしの不安な気持ちが伝わったのか、ルークさんは笑って頭を撫でてくれた。わしわしと撫でながら、こんなことを教えてくれた。
「大丈夫だって。おじさんが若いときなぁ、サリーっていうすごく別嬪な女の子がアリアト派の白子だったんだ。彼女もな、おじさんたち黒猫が送り出したんだが、ちゃあんと神官さまになったんだよ。大丈夫大丈夫。カノンちゃんもきっとなれるよ」
ルークさんに感化されて、クミンさんも深々と頷きながらこう言った。
「俺も覚えてる。十八年前、前回の衰退の節は酷いもんだった。雨が酷くて青の道が氾濫して、畑が駄目になるやら、麦が育たないやらで、随分ひもじい思いをしたよ。サリーさまが旅立って一週間もしないうちに雨が降らなくなった。太陽が久しぶりに顔を出したときには、藍猫さまに一生魂を捧げてもいいと思ったな」
「黒猫に就職しなけりゃあなぁ、おじさんたちも敬虔な藍猫さまの信徒のままだったんだけどなぁ」
「しょうがねえでしょ。俺たちの身分じゃ、黒猫が一番の出世先だぜ? 給料良いんだから文句言わずに働きましょ」
「そうだそうだ違いない!」
がははと再び笑う二人。なんだかんだ言いながら、ふたりとも教会の教えに不満があるわけではないようだった。
「とりあえず、がんばってな、カノンちゃん。おじさんたち応援してるから」
「白子ってのは選ばれた魂なんだから、なんも不安がる必要ねえって。軽い気持ちで行ってこいよ」
「カノンちゃんが行くだけで、藍猫さまは笑顔になって、アピスはお天気になる。みんな幸せ、みんな満足。いいことづくめだ、なあ!」
「ちげえねえちげえねえ」
楽しそうに笑う二人を見ていると、なんだかうじうじと悩んでいたのがどうでもいいことに思えてくる。
みんな幸せ、みんな満足、かあ。確かに、そうなのかもしれない。白子の審判っていうのは、そういう軽い気持ちでいくものなのかもしれない。
だってわたしは、本当の母親に会いに行くだけなのよ? 主教さまがおかしなことを言うから、わたしは変に委縮してしまっていたんだわ。
「ありがとうございます。お魚、美味しかったです」
砦の入口で振り返り、わたしはルークさんにお別れを告げた。あまりに長居しすぎて、外は小雨が降り始めてしまっていた。
「ああ、降り始めちまったなぁ。ちょっと待ってなぁ」
ルークさんは奥へ引っ込み、何かを抱えて戻ってくる。
「雨除けは持ってきてなかったろう。このマントでも被って雨を凌いで。こんなことしかできなくてすまんなぁ」
「いいえ、助かります。ありがとうございます!」
わたしは二人分の黒いマントを受け取って、ぺこりとお辞儀をした。
ルークさんは水門を開けるために砦に残り、わたしとクミンさんで帆船に戻る。帆船にはルカさんが、別れた時と全く同じ格好で座っていたけど、リコさんの姿が見えなかった。
「ありゃ? リコはどこ行った……」
周囲を見渡して、ほどなくしてリコさんの姿を見つける。どうやら水門の方へ行っているようだ。水門というのは、あの川を横切る長い鉄柵のことだろう。一隻の船がそこに引っかかっており、リコさんがロープを使ってそれを引き寄せていた。
「ああ、仕事か。ちょいと待ってな」
クミンさんは付けていた猫耳のフードと黒猫のお面を取り、首元に弛ませていた不気味な被り物を引き上げ顔を覆う。革で作られたその被り物は、鼻から首元までをすっぽりと覆い、口元にプツプツと穴が空いた変な形のマスクだった。その上から黒猫のお面を付け直すと、彼の顔は完全に隠れてしまう。さらに不気味な姿になった彼は、同じような姿のリコさんを手伝って船から棺を引きずり上げた。
おそらく棺の中は、すっかり腐乱してしまったご遺体なのだろう。黒猫のあのマスクは、腐乱臭を防ぐ役割を持っているのかもしれない。
わたしたちが毎週見ていた、猫耳フードとお面だけの姿は彼らの仮の姿で、本来の姿はあのような不気味な姿だったのだ。黒猫はただの葬儀屋さんではなく、影でひたすらに死体を処理する役割を担っていたのだ。
彼らは葬儀の間ほとんど喋ることがなかったのだけど、裏でこんな仕事をしていたのなら当然の反応だったのかもしれない。わたしは自分が見送った無数の棺を脳裏に浮かべてそう思う。
彼らは手を挙げて、砦に何かの合図を送る。すると川を横切っていた鉄柵が、ギシギシ音を立てながら両側に開いた。
「やっと出発か」
その音を聞きつけたルカさんが、顔を上げてぼそりと呟く。棺を残して一人戻ってきた覆面の人が、桟橋に括り付けられていたロープをほどいた。彼はそれを船に投げ入れて、船壁に足をかけて言う。
「じゃあな、お嬢ちゃん。船の操縦はできねえが、海流に乗って行けばそのうち藍の都に辿り着く。頑張ってな」
「はい、ありがとうございます」
「あ、いけね。これ忘れてた!」
クミンさんと思しき黒猫は、ポケットをまさぐり取り出した何かをわたしの手に握らせた。
「これ、藍の都に着いたら外してやってくれ。くれぐれも藍猫さまにバレねえようにな。白子が自分の意思じゃなく藍の都に来たなんて知られちゃ、アルベルト派は一発で失格さ」
なんだろう。ゆっくりと開いた掌には、小さな鉄の鍵が乗っかっていた。
クミンさんに蹴られた船体が、ゆっくりと岸を離れていく。川の流れと共に緩やかに、船は水門へと流れていった。水門の傍の桟橋で、棺の釘を抜いているリコさん。その背中側にある砦の二階の窓から、ルークさんが手を振っているのが見えた。
「ありがとうございました。わたし、頑張ってきます!」
わたしがそう叫び手を振ると、ルークさんは徐にお面を取り素顔を見せてニカっと笑った。無精髭の生えたくたびれた顔のおじさんだったけど、その笑顔はとても魅力的に映った。
どんどん、その姿が小さくなる。砦も、水門も、周りの森も崖もすべて、空から降り注ぐ霧雨に紛れて消えていく。
わたしはマントを羽織ることもせず、ただ茫然とそれを見つめていた。夢のように溶けて消えていく陸地を、ただぼんやりと見つめていた。
果たしてわたしは無事に神官になれるのかしら。わたしを待ち受けているのは、一体どんな場所なのだろう。わたしの頭には色んな思いが渦巻いていたのだけど、何故だかさっきまでの不安はどこかに消えてしまっていた。
わたしは前向きになりつつあったのだ。ラウドの書に書かれている藍の都の描写を思い出したりして、期待に胸を踊らせたりもした。
このときのわたしは、不思議なくらいに自分の記憶を操作していたのである。わたしが知っていたはずの、あらゆる不都合な情報を、きれいさっぱり頭から追い出してしまっていた。
それが、世界を巻き込むほどの悲劇に繋がるとも知らず。わたしは暢気に、冷気に髪を靡かせながら船に揺られ続けたのだった。