第九章(4)
わたしが前向きな気持ちにシフトし始めてから、何の音沙汰もないまま二日の夜が過ぎ去った。
お祭りが終わった次の日とその次の日は、例年、大人たちは後片付けに追われる。主教さまも忙しく、わたしなどに構っている暇がなかったのだろう。
修道院は再開されていたけれど、わたしはもう行く必要はないと、ばあやに言われた。旅立ちのことを秘密にしたまま、平然と日常を過ごせる自信がなかったから、その采配には救われた。
ルカさんのことが気になっていたけれど、あちらも旅立ちの準備で忙しいだろうし、訪問するのはやめておいた。どうせ旅立ってしまえば、ずっと一緒にいることになるのだ。片や重臣、片や雑用係の関係になってしまうかもしれないけれど、同じ職場なのは違いない。立ち話くらいは、いつでもできるんじゃないかな。
わたしはルカさんに危害を加えるつもりは毛頭なかった。ルカさんを毒殺できるわけがないと思ったからではなく、単純にそんなことをしたくなかったからだ。
人殺しをしてまで重臣になろうとする人を、藍猫さまが重用されるはずがない。羊角の白子を殺したサリーが、結果的に重臣として迎えられ、アリアト派の泉に導きの水が湧いたのだとしても、それは「一人しかいなかったから仕方なく」なんじゃないの?
このまま音沙汰がなく、旅立ちが中止になればいと、心の片隅では思っていたけれど、三日目の朝、ついにわたしの元に主教さまが現れた。
「随分と片付いていますね。用意万端ということですか。良いことです」
彼は部屋を見回してにこりと笑い、出発は明日であることを告げた。
「荷物はすべてこちらで用意します。あなたは身一つで来ていただければ結構です。衣装は正装を着用するようにと、ミリアに言いつけてあります」
「あの、主教さま。私物を持って行っても良いですか?」
「できるだけ何も持って行かないでください。ですが、この間手渡したもののように、身に着けて着衣に隠れてしまう程度のものならば、あえて目くじらを立てたりはしません」
駄目だと言われると思っていたけれど、意外とすんなり許可された。旅立ちまでは面倒を見るけれど、旅立ってからは自己責任、ということかしら。
主教さまが帰ったあとで、わたしは整理した荷物の山を見やる。ほとんどが不必要と査定された所持品だけれど、大きな山の隣に、ごくごく小さな山がある。この山に積まれたものは、こっそり持っていこうかどうか悩んでいたものだった。
許可がもらえたので、正式にこの中から持ち物を選ぶことにする。
まず、お財布。小さな皮袋に数枚の貨幣を入れた程度なら嵩張らないし、正装のポケットにもしまえる。神さまの国でお金が必要とは思えないけれど、もしかしたら何かに使えるかもしれない。持っていこう。
懐中時計。これは修道院への入学が決まったときに、主教さまがプレゼントしてくださったものだ。毎日礼拝のあとに時計合わせをし、いつでも持ち歩いていたもの。神さまの国で時計合わせができるかはわからないけれど、こまめにゼンマイを巻いていれば、一週間くらいはずれないだろう。持っていこう。
姉さまにもらった香水瓶。今年の誕生日にもらったものだ。そこまで大きいものではないし、この瓶に導きの水を入れ替えて持ち運べば何かに使えるかもしれない――などと色々考えたけれど、やっぱりやめることにした。
わたしは瓶を大きなゴミ山のてっぺんに置く。
姉さまの思い出はたくさんあるけれど、藍の都に持っていくべきものではない。
『特定の神民との縁を結ぶなかれ』
姉さまのことを忘れてあげた方が、姉さまのためになるはずだ。
他の品々はどれも思い出深いものだったけれど、しょせんはただの飾り物。旅に持っていく理由が見つからない。
思い出に浸りたいなら、これだけで十分だ。
わたしは傍らに置かれたパルフィートを手に取った。母さまの歌声が耳に残っている。
わたしには、これだけで十分。
カノンという個人を愛してくれた、母さまの思い出だけ持っていければいい。
母さまなら、わたしが「審判に支障を来すような記憶」を持っていったとしても、怒りはしないだろう。
母さまならきっと……。
翌朝。旅立ちの朝は、とても早かった。
みんながまだ寝静まっている午前三時ごろ、わたしは支度室でばあやに身だしなみを整えられた。
正装を着用し、黒いタイツの太もも部分に例の盾の飾りを付けられる。ここならニットのチュニックに隠れて見えないし、裾をまくればすぐにナイフの柄を掴むことができる。
激しく動いてもずれ落ちないように、腰と太ももの二か所をベルトで固定されている。もしちらりと覗いてしまっても、盾の煌びやかな模様は飾りか何かだと思えなくもない。なるほど、よく考えられたデザインだなと思った。
「カノンさま。どうか、どうか、我々に勝利を。安寧な暮らしをもたらして下さいませ……」
ベルトをきつく締めながら、ばあやが泣いて懇願してきて、わたしはどうしようもなくへにゃりと笑う。
そんなこと言われてもねぇ。選ぶのは藍猫さまだしね。まあ、ナイフは護身用にありがたくもらっておこうかな。旅の途中で獣か何かに襲われないとも言えないし。
わたしは机に置いてあった、持っていくつもりの品々を一つずつ手に取った。左のポケットに小さなお財布を入れ、右のポケットに懐中時計を入れる。パルフィートを首に掛け、正装のケープで覆い隠した。
髪型は、小綺麗にまとめてくれようとしたばあやに断りを入れ、自分で後ろ一つ結びにした。わたしはこれから神官になるのだから、髪を整えてくれる人はいない。自分で直せる髪型にしておきたかった。
ばあやはずっと泣いていて、さっきから延々と昔話をしている。あの時のわたしは可愛かっただの、困惑させられただの、よくそんなことを覚えているなというような小さな出来事まで、事細かに語って聞かせた。
彼女のそんな姿に感化され、わたしもちょっとほろりとなってしまう時もあった。だけども……。
「カノン様。どうか、どうか、アリアトに勝利を。我々に変わらない日常を……」
何度も何度もそう念を押されるので、わたしは感傷的になり切れないまま、ばあやと別れる羽目になってしまった。
真っ暗な聖堂を出ると、外に馬車が用意してある。黒い布張りの馬車。毎週のラピス・ユニアンに葬儀へ向かうために乗っていた、あの馬車だ。御者の黒猫は、わたしの挨拶も無視して前をじっと見つめていた。
これに乗ってどこかへ連れていかれるらしい。不安になるわたしの背を押して、ばあやは馬車にわたしを押し込めた。
「では、行ってらっしゃいませ、カノン様。お達者で!」
ばあやの見送りはここまでらしい。泣きながら手を振るばあやを呆然と眺めながら、わたしは街を下っていく。
正門を出ると、窓から月明かりに照らされた王城が見えた。わたしは心の中でお別れを言う。
ローダさま、元気でね。次の女王になれるなんてすごいわ。ずっとなりたそうにしていたもの。本当に良かったね。まあ、わたしがルカさんに負けてしまったら王権はアルベルト派に移ってしまうから、次の王様はランディスさまになっちゃうけど。あなたの願いが叶うよう、わたしなりに頑張るわ。あまり期待はしないでね。
馬車は広場で大きく曲がり、大通りの坂道を降りていく。左手に貴族区の門が見えてきた。わたしは再びお別れの念を送る。
アイリス、リリム、カーミィ、元気でね。わたしのことは忘れるように言われると思うけど、たまにでいいから思い出してね。姉さま、まだ怒っているかしら。こんな形でお別れになるなんて思ってもみなかった。最後に一目だけでも会いたかったけど、仕方ないよね。イザクさまとお幸せにね。
祭りの終わった大通りは、露店の一つもない、だだっ広い通りに戻っていた。ククルと食べ歩いた通りも、ブレンダにうっかり見つかってしまった通りも、すべて普通の街並みに戻っている。
おまんじゅうもミートパイもおいしかったな。ククルやブレンダは、来年までわたしを覚えているかしら。彼女たちとの付き合いはとても浅いから、自信がないわ。でも、その方が彼女たちには良いのかもしれない。わたしがいなくなれば、彼女たちは解雇されてしまうだろう。新しい職場で新しい主人に仕えるのだろうから、わたしのことなんか早く忘れてしまった方がいい。
カラカラと音を立てて走る馬車。わたしは途中から、自分が棺に入れられたご遺体のように思えていた。
ご遺体は街の小教会で告別の儀をし、シロマツリという白い花に囲まれた状態で港に運ばれる。港の一番下流側に、棺を流す専用の場所があった。『旅立ちの岸』と呼ばれる場所だ。水葬の儀の時にしか解放されない特別な場所。わたしはそこに運ばれているんじゃないのかな、と思う。
馬車が静かに止まる。到着したのは予想通り、『旅立ちの岸』。わたしが到着した時には、すでにたくさんの黒猫がそこにいて、小型の帆船にせっせと荷物を積み込んでいた。
わたしを連れてきた黒猫が、わたしを一人の黒猫に引き渡す。その黒猫は顔がマスクで半分隠れていたけれど、オズワルドさまだということがすぐにわかった。
「ついに旅立ちですね。おめでとうございます」
主教さまは最敬礼をしてから、恭しくわたしの手を取り、帆船に誘導する。
「荷が多い故、少々窮屈な思いをするかもしれませんが、我慢なさってください」
不安定な細い板の足場を渡って、わたしたちは帆船に乗り込んだ。三馬身ほどのゆったりとした船内に、木箱がたくさん積まれている。
その隙間を縫って、わたしは中央部を横切る梁に腰を下ろした。わたしの斜め向かいには、いつものように正装を妙な形で着こなした男の子がすでに座っていて、不機嫌そうに川下を眺めている。
「カノン、これを」
主教さまはわたしに一本の巻物を手渡した。
「今回の献上品の一覧です。藍猫さまにお会い出来たら、読み上げてください」
「はい。わかりました」
巻物は見るからに高級そうな手すきの薄紙でできており、金の糸が巻かれている。一覧ごときでこの様子では、中に書かれている献上品というのは、わたしの想像を超えるほどの逸品ぞろいなのだろう。
まあ、藍猫さまに捧げるものなのだから、当然と言えば当然か。
「あと、こちらの麻袋にあなたの食料が、そしてそちらの樽に飲用の水が入っています。藍の都へ着くまでに一体何日かかるのかわかりませんので、とりあえず三日分用意させていただきました」
足元に置かれた袋を覗くと、塩漬けの肉がひと塊、ドライフルーツが一袋、カチカチのパンが一本、チーズがひと塊入っていた。三日分というにはちょっと少ないような気がしたけど、ルカさんは食べないだろうから、なんとかなるかもしれない。
わたしは早くも鳴るお腹を押さえて、「ありがとうございます」とお礼を言った。
空が白んできたころ、荷の積み込みが終わった。黒猫たちは慌ただしく駆け回り、主教さまとランディスさまらしき黒猫に報告に行く。そしてその中の二人がこちらへ駆け寄り、一人が足場の板をどけて船に乗り込んだ。もう一人は港と船をつないでいたロープに手をかけ、結び目をほどき始める。
「それでは、これより白子が審判へと向かいます。見届け人はアリアト派代表、オズワルト・アピスリムと」
「アルベルト派代表、ランディス・アルベルト・アピスリムだ」
「黒猫二人が、外なる海まで見送りしますことをお許しくださいませ」
主教さま二人の最敬礼を合図に、ロープが解かれ、もう一人の黒猫も船に飛び乗る。二人は長い櫂を使って船を岸から離していった。
水葬の儀は、私語禁止だ。見送る者は、たとえ涙を流したとしても、嗚咽の声を上げてはいけない。
辛く悲しい決まりだけれど、普通の葬儀では問題ない。だって普通は、水葬前に行われる告別の儀で、存分に故人との別れを嘆くことができるのだもの。
だからきっと故人の魂も、気持ちをしっかりと切り替えて、藍猫さまの審判に向かうことができる。
だけど。
わたしは、ばあや一人としかお別れをしていない。
目の前に広がる、感情すらうかがえない黒猫の集団による見送りの光景は、わたしが今まで思い描いていた「旅立ちの光景」とは似ても似つかなかった。
誰も手を振らない。
誰も嘆かない。
誰も声援を送らない。
わたしはもっと、賑やかで暖かいものを想像していた。
手を振る人。顔を覆って泣く人。船が見えなくなるまで追いかけてくれる人。
だってこれから、藍猫さまと共にアピスを見守ってくれる神官さまが旅立つのよ? みんな、そのくらいしてくれるんじゃないかと信じて疑わなかった。
まさかこんな、身寄りのない人の葬儀のような、寂しい旅立ちを迎えることになるなんて。わたしはショックのあまり、すべてが幻であるような気がしていた。
これは全部夢で、わたしはまだ部屋のふわふわのベッドで眠っているの。部屋の外には侍女が、友人が、ローダさまが、姉さまが、母さまが待っていて、わたしの旅立ちを祝福しようと瞳を輝かせているの。
部屋を出たら、祝福の嵐。みんな我先にとわたしに駆け寄って、「おめでとう」「がんばってね」と口にする。彼女たちはそう言いながらも、心の中では寂しくて、必死に涙をこらえているのが、わたしには一目見てわかるのよ。
そう、それがわたしの本当の旅立ち。アピス国の代表として、藍の都へ向かうわたしにふさわしい旅立ち。
ぼんやりと、遠ざかるアピスヘイルの街を見た。豆粒のように小さくなった黒猫たちの後ろで、大きな商船が港に停泊しているのが見える。
港の周りには小ぢんまりとした商店街。その向こうには、生産区の人たちが働く畑や田んぼ、牧場、広大な森が広がっている。
その内側に彼らが暮らす平民区の家々があり、その内側に外城壁がそびえ立っている。
この間の夜祭で、わたしたちが川を眺めたのはあのあたりだったかな。
城壁に隠れて見えないけれど、裏には貴族区が広がっている。そして、なだらかな丘を切り開いて作られた広大な園庭と、大教会と修道院が見える。
王城と二つの大教会は丘のてっぺんに立っていて、その立派な姿を惜しげもなくこちらに向かってさらしている。
微かに見える永久時計は、朝六時を指している。
そろそろ朝餉の準備かしら。ククルやブレンダが起きだして、食卓を整えて食器を磨いている姿が目に浮かぶ。そこへ目を赤くしたばあやがやってきて、「朝餉の準備は必要ありません」と告げる。
侍女たちは困惑しながら、自分たちの食事の準備をして、いつものように大広間に集まる。そこでやっとばあやがみんなに告げるのよ。わたしがすでに旅立ってしまったことを。
アピスヘイルが遠ざかり、もはや教会のてっぺんの屋根しか見えなくなったころ、ようやくわたしは涙を流した。これが現実だということを受け入れた。
暖かいベッドも、美味しいご飯も、みんなとのおしゃべりもこれでおしまい。お祭りもおしまい。勉強もおしまい。ばあやに怒られるのも、お風呂でくつろぐのも、みんなみんなおしまい。これでおしまい。
「大丈夫か?」
湿っぽい風と共に、小さな声が聞こえた。見るとルカさんが、フードの陰からこちらに視線を送っていた。
「え、あはは。だいじょうぶ、だいじょうぶですよ、あはは」
わたしも小声で返したけど、途中で涙と鼻水がだらだらと流れて、どうしようもなくなった。
ルカさんは少し困った顔をして、何か拭くものがないか探してくれたみたいだけど、仕方がなさそうに、はめていた黒い手袋を外してこちらに差し出してきた。
さすがにそれで鼻をかむわけにもいかず、丁重にお断りして、わたしは船の端から身を乗り出し、川の水で顔をバシャバシャ洗う。綺麗になった顔を、自分のケープでごしごしと拭いた。




