第十章(1)
「おい。いつまでぼーっとしてんだよ」
深くなる霧の中。わたしはルカさんからの叱責で意識を取り戻す。
「受け取ったんだろ、鍵。早くこっちに寄越せよ」
鍵? 霞がかかった頭で記憶をたどる。確かに、クミンさんから小さな鍵をもらったな。わたしは右手の握り拳を開く。体温を吸収してすっかり暖かくなった鉄の鍵が、そこにはあった。
「これ、何の鍵か知っているんですか?」
「当たり前だろ。お前、話を聞いてなかったのか?」
話? クミンさんの話なら聞いていたわ。ちゃんと覚えている。確か、『藍の都に着いたら外してやってくれ』って言っていた。
「何を外すんでしょうね」
「良いから早く寄越せよ」
そんなに怒らなくてもいいのに。わたしは差し出されたルカさんの手に渋々と鍵を乗せる。彼はそれを毟り取るように乱暴に受け取り、足元をごそごそと弄り始めた。
何をしているんだろう。わたしが尋ねるよりも前に、ゴトリと重たい音と共に黒い何かが床に転がる。ルカさんは鬱陶しそうにそれを足蹴にして、久方ぶりに立ち上がった。
彼が立ち上がることで、わたしは足元のそれが足枷だったことにようやく気が付く。船が揺れ、梁に打ち込まれた短い鎖がゴロゴロと転がった。
「ご、ごめんなさい、気が付かなくて! ひどいわ、ランディスさま」
わたしは驚いて、悲鳴のような声を上げる。ルカさんは足を曲げたり伸ばしたりして体をほぐし、最後に大きく伸びをした後、非常に面倒くさそうにこう呟いた。
「逃げないって言ってんのに、信用しねえんだよあいつ……」
ランディスさまの気持ちはわからないでもない。だけど、人の自由意思を奪う行為は藍猫さまの教えに反する。クミンさんの言うように、藍猫さまに知られたら一発で失格になってしまうかもしれない。
普通の人間ならいざ知らず、白子は選ばれた魂。わたしたちは『天真』のままに、"自分の意思"で神官にならないといけない。いくらルカさんがアピスの白子でなくとも、アルベルト派の白子として旅立った以上は、そういう建前にしておかないといけないのだ。
「ったく、あいつら、帆も櫂も持っていきやがった。徹底してんな……」
ルカさんは船体の中央にそびえる柱を見上げて呟く。そういえば張られていたはずの帆布がいつの間にか消えており、帆柱はただの裸の柱に変貌していた。おそらくわたしが食事を戴いている間にリコさんが外したのだろう。ルカさんは悔しそうに足元の木箱を蹴った。
「やめてください。これは全部、藍猫さまへの貢物なんですよ?」
わたしは彼の足元に駆け寄り、木箱の損傷をチェックした。ちょっとひびが入ったけど変形はしていない。よかった。わたしは安堵の息を吐く。そんなわたしの姿に、ルカさんは心底呆れたような深いため息を投げかけた。
「お前、いつまでそんなこと言ってんだ。俺たちは今、絶体絶命の危機の真っ只中なんだぞ」
「ルカさんこそ何を言っているんですか。海流に乗っていれば藍の都に着くって言われたじゃないですか。大人しく待っていましょうよ」
「待っていたら駄目だろ! 俺たちは生贄なんだぞ。目的地に着いたら食われちまうだろうが!」
ルカさんはすぐそばの木箱の蓋を剥ぎ取り、中身を引きずり出す。わたしはびっくりして、慌てて箱に取りついて中身を守った。
「駄目ですよルカさん! 貢物を勝手に触っちゃ」
「なんでだよ! どうせこんなものいらねぇだろ、食いものでもねえし」
「駄目ですってば! 開けちゃ駄目です!」
なおも箱を開けようとする彼の手を押さえて、わたしは叫ぶ。思ったより大きな声を出してしまったことに、ルカさんのみならずわたし自身も驚いた。
「……帆の代わりになるような布があるかもしれないだろ。それか、なんか漕げるものか」
「そんなもの探してどうするんですか? このまま流れに乗っていれば藍の都に着くんですよ」
「着いたら困るだろ。着く前に逃げるんだよ」
「はぁ????」
わたしは素っ頓狂な声を上げる。何を言っているのこの人。ここまで来ておいて、逃げる? 開いた口が塞がらないわたしに向けて、ルカさんはさも当然のことのように持論を展開した。
「あの国を旅立っただろ、それで俺たちの役目はおしまいだ。旅の途中で不幸にも船が転覆しました。藍の都とやらに辿り着けずに餓死しました。そんな事故に巻き込まれていないことを誰が証明できる? できねえんだよ。だから逃げる。今なら逃げられる」
「駄目ですってば。逃げてしまったら藍猫さまがお怒りになり、アピスヘイルの気候は回復しません。導きの泉も枯れます。わたしたちが失敗したことは国中の人に知れ渡ります」
「別にいいじゃねえか。何か問題あるか?」
「ありまくりですよ! 大体、どうやって逃げるんですか。どこか適当に陸地に行きついたとして、そこはまだアピス国ですよ。いずれどこかで見つかってしまいます」
「あっちに行く」
ルカさんは、迷いなく一方を指さした。霧が深く周囲は真っ白に染まっていたけど、ルカさんには何か見えるのかな? 怪訝なわたしの視線に、ルカさんは投げやりにこう言い放った。
「別にどっちに行ってもいいんだよ。水の流れから直角に外れて船を進めたら、違う国に出られる。海に国境はない、多分」
「多分って、随分いい加減ですね……」
「いいんだよ、適当で。このまま行ったらどうせ死ぬんだ。少しでも可能性のある方へ行こう」
「だから、駄目ですったら! 貢物に触らないで!」
わたしを押しのけて再び木箱を開けようとするルカさんに、わたしは取りすがる。だけども今回のルカさんは強硬姿勢だった。わたしの手を振りほどき、次から次に蓋を開けていく。
がしゃんがしゃんと、中のものを放っていくルカさん。わたしの足元には、銀製の器、宝石をあしらった櫛や冠、化粧道具、鏡や置物が転がっていった。
「これを繋げたらなんとかなるかな……」
ルカさんは、絹織物を広げて呟く。それが入っていた箱の中身をぶちまけて足元を織物の海にしながら、ゴロゴロと転がってきた銀の器を蹴とばした。
わたしは何故だかそれを見て、反射的に体が動く。転がって行く器を追いかけて受け止め、散らばる宝飾品を腕いっぱいに抱えて、口を開いた。
「やめてくださいルカさん! お願いします、やめてください、触らないでください! 貢物には触らないで!」
わたしは身を折り曲げて、必死に叫んだ。息が切れるまで叫んで、大きく息を吸ってまた口を開く。
「お願いします! 駄目なんです、貢物に手を出しては駄目。必要とか、必要じゃないとかじゃないんです、とにかく駄目なんです! 元に戻してください、全部、全部、あった場所に全部戻して、綺麗にしてください、お願いします……」
わたしは必死だった。どうにかしてルカさんを止めなければと、頭がいっぱいになっていた。再び息が切れて、息を吸ったときにルカさんと目が合う。彼は、今まで見たことのないような驚きに満ちた顔でこちらを見ていた。
「どうしたんだ、お前……」
その声に、わたしはハッとする。
どうしたんだろう、わたし。気付けばわたしの手は汗でぐしょぐしょで、額からもたくさんの汗が滴っていた。
霧雨はいつの間にか止んでいたから、これは雨で濡れたのではない。冷やりとした風が吹き、背筋にピリッと悪寒が伝う。
「ど、どうしたんでしょう……あはは」
わたしは力なく項垂れ、腕いっぱいの宝飾品をぽろぽろと床に落としていった。コロコロと転がる音だけが、辺りに響き渡る。
「…………」
ルカさんは無言で、梁に腰を下ろした。わたしはただ項垂れて、船の揺れに身を任せる。
コロコロ。コロコロ。コツンと船壁にぶつかる器。拾わなければ、箱に戻さなければと思うけど、どうしてそう思うのかが良くわからない。
ぼんやりと荒れた船内を眺めていると、ルカさんがぼそりと呟いた。
「それで、どうするんだ? お前は、このまま藍の都っていうところに行くのか?」
「……どうして、そんなことを聞くんです」
そんなこと、当然でしょうと言いたかった。どうしてルカさんは、この状況下でその運命に抗おうとするのか、わたしには理解できなかった。
だって、流れに身を任せたほうが絶対に楽だ。海流から離れるなんて無謀でしかない。ルカさんが指差した方角、霧に包まれて全く見通せない遠景に、わたしは恐怖しか覚えなかった。
そっちは何も見えない。何もわからない。藍の都のほうが情報がある。安心で安全だ。
「藍の都っていうのが、本当にあるのかどうかも分からないぞ。このまま何日も漂うことになったらどうするんだ?」
「藍の都はあります。藍猫さまがわたしたちの到着を心待ちにしています」
頑ななわたしの言葉に、ルカさんは緩くかぶりを振る。
「藍の都というのが、この海自体を指すのだとしたら? この海で漂流することが、この海で餓死して朽ち果てることが神官になるということだとしたら、どうするんだ?」
わたしはふと、ルークさんたちに言われたことを思い出した。海の水は死水と呼ばれていて、生物の体を溶かしてしまう――。
ルカさんの話は、なんだか有り得そうなことのように思え、わたしは不安を口にする。
「そう、どこかに書いてあったんですか? アルスの預言書に書いてあったんですか?」
「いや、そうじゃねえけど」
なんだ。書いていないのか。わたしはほっとして顔を上げた。すると、とても悲しそうな目でこちらを見ていたルカさんと目が合って、わたしたちはお互いにさっと目を逸らす。
「では、アルスの預言書には何と書いてあったんですか? 十二章には白子のことが書いてあったんですよね。神官になる手順について、何か違うことが書いてありましたか?」
「いや、別に……。今の状況と大差ない。白子は船に乗せて藍の都に送れと……」
「ほら、そうでしょう。藍の都はちゃんとあるんですよ! このまま大人しく待っていましょう? いらないことをしないで」
「……本当に、このままでいいんだな?」
「良いって言っているでしょう。あ、ちゃんと散らかしたものは片付けてくださいね」
ルカさんはため息を吐いて、ぶちまけた織物を綺麗に畳み始める。わたしも彼に倣って、転がる宝飾品を一つ一つ箱に戻していった。
わたしたちの間を、妙な空気が流れる。なんとなく気まずくてわたしは口を閉ざしていたし、ルカさんも同様だった。
このまま気まずいままに、藍の都へ着いてしまったらどうしよう。わたしは時間が経つと共に焦り始める。わたしたちは白子の審判を受けて、片方が重臣に、片方がその他大勢になるというけれど、その身分の違いというのは、立ち話も許されなくなるような厳格なものなのかしら。
このままルカさんと、気まずいままに離れ離れになってしまったらどうしよう。わたしは空気を悪くしてしまったことを後悔したけど、焦れば焦るほどに仲直りのきっかけになりそうな話の種は見つからない。無情にも時間が過ぎ、辺りはどんどん薄暗くなっていく。
わたしは空腹を感じて、梁に腰を下ろした。ルカさんはどうせ食べないだろうから、この食糧はいただいても良いわよね。袋をまさぐり、カチカチのパンを取り出す。
ひとかけちぎって、口に放る。美味しくない。パンはパサパサで砂を噛んでいるような味がした。チーズと塩漬けの肉はそれなりに美味しかったけど、塩味がきつくて喉が渇く。わたしは樽の蛇口に掛けてあった銀のコップで水を汲み、カラカラの喉を潤した。
空腹が満たされたわたしは、少しだけ気分が落ち着く。同時に強い眠気に襲われた。今日は朝が早かったから、当然だ。むしろ今までよく眠たくならなかったものだと思う。
霧雨が止んでから、辺りは不思議と暖かくなり、わたしは寒さを感じなくなっていた。貰ったマントは結局使うこともなく、足元で丸まっている。わたしは一枚を綺麗に畳んでルカさんの方へ置き、一枚を床に広げてごろりと寝転がった。
いつの間にか辺りは真っ暗になっていて、周りはほとんど見えない。ルカさんの顔も全く見えなくなってしまっていた。
「ごめんなさい、ルカさん。わたし少し眠たくて。寝かせてもらいますね」
わたしは闇に向かってそう告げる。返事が返ってくるか少し不安だったけど、その不安は杞憂に終わった。
「ああ。おやすみ。良い夢見ろよ」
彼の声音は特に怒っている感じもなく、いつも通り淡々としていた。
わたしはその声に安心して、ゆっくりと目を閉じる。ユラユラ揺れる船は落ち着かなく、床板も固くて最悪の環境だったけど、わたしはすぐにうとうとし始めた。
ほとんど夢の中を泳ぎながら、わたしは考える。明日には藍の都に着くかもしれない。審判ってどんなことをするのかしら。修道院の進級試験のようなものだったりして。それならルカさんに勝てる自信があるわ。あと勝てそうなのは、歌か足の速さくらいかしら……。
教室のような場所で机を並べて、黒板に書かれた問題を必死に解くわたしたちの姿を目の裏に浮かべながら、わたしはいつのまにやら眠りに落ちていた。
このときわたしは、ルカさんが眠らないということはすっかり忘れてしまっていた。能天気にもすやすやと眠り、明るくなるまで一瞬たりとも覚醒することがなかった。




