第一章(2)・イメージイラスト
修道院までの道のりは短く、結局試験の話はそれほどできずに教室に辿り着いてしまった。
正門を抜け、玄関で履物を履き替え、ケープを脱ぎ、干し場に乱雑に引っ掛ける。そしてギシギシと軋む階段を登って教室階へ向かった。
狭い廊下の左側に三つの扉があり、手前から第一教室、第二教室、第三教室と刻まれた木片がぶら下がっている。わたしたちは背の高い女の子、カーミィ以外の四人で第一教室の扉を潜った。
九時から始まったのは音術の授業で、今日は二時間の授業時間の間に発声のテストと筆記のテストが一時間ずつ行われる。音術はわたしの一番得意な科目だったから、特になんの困難もなく課題をこなした。
一人一人前に出されて先生のオルガンの隣で行われる試験は、苦手な人には苦痛らしい。再試験を言い渡された何人かの女の子は我慢できずに泣いてしまったくらいだ。
そんな中、同様に再試験を言い渡されたリリムはおどけた顔でペロリと舌を出し、先生に怒られていた。
その後の十一時から午後一時までは、お昼休み。再び集合したみんなでランチを楽しむのが日課だった。
第三教室の向こうにある階段を下った先にある食堂は新しく増設された建物で、ボロボロの修道院とは比べ物にならないくらい綺麗だ。
扉を潜った両脇にはピカピカ光る銀のお皿が並べられ、その一つ一つにたっぷりの料理が盛られている。院生はその中から好きなものを自分のトレイに載せて、窓際に一列に並んだテーブル席で食べる。
わたしたちはいつもの、特別きれいな青いガラスが埋め込まれた窓の側に集まり席についた。
「結局、再試験になったの? リリム」
「そうなのよ。どうしよ、お母様に怒られちゃうわ」
「聞いてくださいよ、カーミィお姉さま。リリムさんたら、酷かったんですよ」
アイリスが笑いをこらえながら、試験の話をカーミィに聴かせている。カーミィとアイリスは仲の良い姉妹だから、いつもリリムをネタにして二人で笑っているのだ。
「ああもう、笑うんじゃないわよ! 大丈夫よ、お母様がなんとかしてくださるから」
「いつまでも家の権力に頼っていたら、あなたのためにならないわよ」
「いーのよ、別に、私は今世で零の門は目指していないもの!」
リリムのお決まりの冗談に、わたしたちはドッと笑った。
「それに引き換え、カノンさんは素晴らしかったです。私、試験の最中ですのに、つい歓声を上げたくなりました」
リリムをからかったあとに、わたしを引き合いに出すのはアイリスのお馴染みのパターンだった。皆からの注目を受けたわたしは途端に居心地が悪くなり、苦笑いを浮かべる。
「アイリスだって綺麗な声だったよ」
「そんなことないです。私なんかカノンさんの足元にも及びません」
アイリスはそう断言し、しばらくわたしのことについて長々と礼賛した。彼女に悪気はないのはわかるんだけど、彼女のこの癖には一同飽き飽きしている。
みんながハイハイと適当に相槌を打っている中、リリムが急にわたしのトレイを指差して話を遮った。
「カノンが優秀なのは認めるわ。だけどね、私はそれを見ていると心配になるのよ」
なんのことだろう。わたしが首を傾げると、リリムが言葉を繋ぐ。
「いつもどうして白パンばかりなの? あなたが神官になったら、楽園には白パンとジャムしかなくなるんじゃないかって心配になっちゃうわ」
ドッと辺りに笑いが沸いた。わたしが自分のトレイに目をやると、確かにそこには大量の白いパンが乗っている。
「だって、白パンおいしいじゃない。ふわふわして、もちもちして」
「確かに美味しいけど、そんなに沢山はいらないわ。家でも食べられるし」
リリムの言に、アイリスとカーミィも頷いた。わたしが周りを見回すと、みんなのトレイに載っているのは、小綺麗に盛り付けられたパスタの小皿。これはいわゆる"シェフの特別メニュー"で、国内の様々な地域から送られてくる、珍しい食材を用いた料理だ。
今日の食材はたしか、漁村レンナムで採れた大きなアサリが塩漬けにされたものだったかな。それをドライトマトとオリーブオイルを混ぜて炒めて、パスタに絡めている。
「パスタにはこっちのハードなパンのほうが合うし、わざわざ白パンは選ばないわね」
カーミィはそう言って、パスタのソースに浸したパンをひとかけ口に放り込んだ。アイリスも今回ばかりはなんのフォローもできないようで、曖昧に笑みを浮かべている。
わたしはすっかり困ってしまって、隣に座っている姉さまに視線を送った。姉さまのトレイもみんなと同様に、パスタと他の小さなおかずが乗っているだけだったけど、彼女は豪快に笑って言った。
「いいじゃない。楽園に白パンしかなくても。私は全然構わないわ」
「えぇー、本気? 白パンに乗せるものも、ジャムかバターかシロップかしか選択肢がないのよ?」
「楽園にはもっと素敵なことがたくさんあるんだから。食べ物なんてなんだっていいじゃないの」
ねぇ、アイリス? と付け足すと、彼女の隣に座るアイリスはすぐに同意した。アイリスと姉さまは親友だから、基本的にお互いの意見を否定したりしない。
「そうですよ、リリムさん。藍猫さまは歌や詩は好まれますが、食事に拘られているというお話は聞きません。私たちもそのうち美食を求める煩悩は捨てて、カノンさんのように清らかな魂にならないといけないのではないでしょうか」
「えぇー……」
リリムは眉を潜め、カーミィを見た。カーミィは薄く微笑みながら食事を続けるばかりで、リリムはひとり肩をすくめる。
「やっぱり私は零の門は目指さないわ」
彼女は再びそう呟いてわたしたちの笑いを誘った後、追加のデザートを取りに行くために席を立った。
わたしたちはお昼休みの終わりの鐘が鳴るまで、そんな他愛もないやり取りを続け、第一教室に戻る。今度はカーミィと一緒にリリムも第二教室へ向かった。リリムは本来はカーミィと同じ学年なのだけど、音術を含む去年の進級試験のいくつかを落としてしまって、中途半端に下級生なのだ。
今日の午後の授業は国学だった。こちらも進級試験で、先生が黒板に書いた問題をひとりひとり当てられる。
わたしは国学がちょっと苦手で、年表を埋める問題を当てられたときはヒヤリとしたけど、なんとか合格点をもらうことができた。
音術のライラ先生と違い国学のエルミナ先生は優しいので、誰も再試験とならずに試験は終わった。
「それじゃあ、さようなら。カノンさん」
「バイバイ、カノン」
「はい。また明日!」
二時間の試験を終えたわたしたちは、それぞれの棲家に戻る。みんなは修道院に付随している寄宿舎に、わたしは逆方向の大教会へ。
賑やかなみんなと別れるときはチクリと胸が痛むけど、同時にホッとする。わたしがみんなと知り合ったのは修道院に入った一年前からだけど、彼女たち四人はもっとずっと前から仲良しなのだ。
みんなはわたしがいなくても楽しく会話を続けるだろうし、むしろわたしがいないほうが話が盛り上がるのかもしれない。
わたしはみんなの笑い声が聞こえなくなってから、大きく伸びをした。午前中に降っていた雨は止んで、空は少しの晴れ間を覗かせている。
日没まではまだ数時間あるから、今日は何をしよう。庭園を散策してお城の方まで行こうかしらなんて思っていると、突然後ろから声を掛けられた。
「カーノン!」
「姉さま! どうしたの?」
振り向いたわたしの目に入ったのは、大きな青い瞳の少女。シノン姉さまだ。
彼女はこの都では珍しい、青緑色の髪の毛をふわりと揺らしてニコリと笑う。
「私、忘れてないんだから。ちゃんと覚えているんだから」
「姉さま……!」
わたしは思わず目を潤ませた。彼女が後ろに回していた手をこちらに差し出すと、青いリボンが巻かれた小さな箱が握られている。
「誕生日おめでとう。十四歳になったのね。時間が経つのは早いわ」
「うん。そうだね……」
わたしはありがとう、とお礼を言い、小箱を受け取った。大きさの割にずしりと重いそれに、胸がときめく。
「お部屋に帰って開けてね。ばあやに見つからないように、気を付けるのよ」
「わかった。ありがとう」
わたしたちは笑顔を交わして、再びそれぞれの帰路についた。
わたしは手元の小箱にもう一度視線を落とし、笑みを浮かべる。
今日、アピス歴百六年二月十二日はわたしの十四歳の誕生日だ。姉さまは物心ついた頃から、いつもわたしのためにプレゼントを用意してくれていた。一緒の家に住んでいた八歳まではもちろん、その後の六回の誕生日も全部。
坂の上に大教会の正門が見えてきたところで、わたしは小箱を丸めた雨避けケープの中に隠した。そして素知らぬ顔で聖堂を通り抜ける。
礼拝がない時間の聖堂に人影はほとんどなく、誰の目にも付かないうちに右隅にある階段に辿り着くことができた。
階段の先には、教会に住み込みで働く召使いたちのスペースがある。大広間には何人かの召使いが、食事を採るときだけ出される大きなテーブルを設えている最中だった。
わたしは彼女たちの背後をするりと通り過ぎ、奥の階段を駆け上がる。その先には奇妙な模様が刻まれた扉があり、わたしは慣れた手付きでカラクリ錠を外して中に滑り込んだ。
「はぁ〜」
思わず大きな溜息をつくわたし。この先はわたしのほかに入り込める人はいない。わたしに約束された、わたしだけの憩いの場所だ。
ヒヤリとした石壁をつたい、螺旋状の階段を登る。長々と続く階段は、大教会の高い高い塔の外周をくるくると回りながら最上階まで続いている。
初めのうちはしんどくて、何度も休憩を取りながら登ったものだけど、毎日欠かさず六年も上り下りしているのだからすっかり足腰が鍛えられてしまった。
わたしはひとつも息が乱れることなく、最上階まで登りつく。
最上階のこの広い部屋は、隅から隅までわたしだけの場所だ。日に焼けて黄ばんだ絨毯、ひび割れた机や椅子、ところどころ棚が外れてしまった本棚に並ぶ黒ずんだ本。
一月前に壊れてしまったので、主教さまに簡単に直していただいたベッドに座ってわたしは箱のリボンを解いた。
「わあ、可愛い!」
わたしは思わずそう叫ぶ。箱に手を入れ、掌サイズのそれを取り出し光にかざす。キラキラと輝くそれは、食堂の窓にはまっているのと同じ、国で一番高価な藍玉ガラスと呼ばれる青いガラスでできた小瓶だった。
「香水瓶だわ」
わたしはベッドの隅に置かれていた猫のぬいぐるみを引き寄せ、瓶の中身を吹きかける。ふわりと漂うその匂いは、姉さまのサラサラの髪の毛を思い起こさせた。
わたしはしばらく香りを堪能し、ハッと正気に戻る。ぬいぐるみをベッドに置き、立ち上がって袖の匂いを嗅ぐ。
「良かった。移っていない」
わたしはホッと一息ついた。これから夕餉の時間だ。香水の匂いなんてさせていたら怒られてしまう。
姉さまや他の貴族の女の子が香水を付けるのは普通のことなのだけど、わたしは違う。
わたしは普通の女の子ではないのだ。
部屋の隅に立て掛けてある、くすんだ全身鏡の前に立つ。そこに佇んでいたのは、痩せっぽちの女の子。特別可愛くもなく、特別スタイルがいいわけでもない。地味な修道院のワンピースが似合う、素朴な顔立ちの女の子。
だけど、わたしは普通の女の子ではない。左右に分けた、長い前髪を撫でる。指でくるくると弄ぶと、光を反射してキラキラと煌めいた。
わたしは白子。白銀の髪をした、このアピスヘイルの都に二人しかいない特別な存在。
わたしはこの髪の毛のせいで、八歳の時からこの部屋に独りで暮らすことを命じられ、他の女の子と同じ生活をすることを禁じられてきたのだった。