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衰退世界の人形劇  作者: 小柚
上巻
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第一章(1)


「主は彼を試したのです。ある日ダンの麦畑に天から墨がこぼされたかのごとく、ぽつぽつと黒点が生じました。やがてそれは放射状に広がり、畑いっぱいに気味の悪い模様が描かれました……」

 天井から吊るされたランプの光が、頼りなく辺りを照らし出すだけの室内。トントンと屋根を叩く雨音と共に、嗄れた初老の男の人の声が響いている。

 わたしの前には五人がけの長椅子が三つ。どれも満席で、座っている全員が熱心に前を見つめている。少し肩口を湿らせた彼らは、ムワッとした蒸気を辺りに立ち込めさせていて、雨の日らしいもったりとしたにおいをわたしの鼻まで届けていた。

「はじめに枯れたのは数本でした。その様子におかしいと感じたものの、ダンは深く考えないままに、いつもの日々を過ごしました……」

 前方には教壇があって、そこで男の人が教典を朗読している。今日の礼拝を担当しているのは、ガルディア大司教さま。この教会で二番目に偉いひとだ。

 読んでいるのは第二章の二つ目のお話、『善良なる農夫、ダンの審判』というものだ。

「彼が慌てた頃には、すでに手遅れでした。彼は王家より任された麦の半分を失ってしまったのです……」

 わたしは周りに気付かれないよう、そっとあくびを噛み殺す。

 断じて背教行為ではない。わたしが眠気を感じてしまうのは仕方がないことだ。多分藍猫さまもわかってくださっているだろう。

 わたしはガルディア大司教さまの頭の上に見えるギラギラしたお猫さまの像に目配せをした。何の感情もこもってなさそうな青水晶の瞳がわたしを見つめ返す。

 わたしはホッと胸を撫でおろし、再び大司教さまの声に耳を傾けた。

「ダンは善良な男だったのです。集落の誰からも頼りにされ、真面目に働き、一日も欠かすことなく勉学にも励んだ。

 彼の口癖は、"主はいつも我らを見ておられる。我々は常に、恥ずべき行いがないように気を付けなければならない"でした……」

 退屈そうな人は、わたしの見える範囲ではわたしだけだった。

 無理もない。都に二つしかない大教会のひとつであるここで毎朝礼拝を受けられるのは、各大教会に付随して建てられている修道院の生徒くらいなのだから。

 この教会では大司教さまが、十二章ある教典の計六十個のお話を一話ずつ、一年間かけて朗読される。この大教会は都民が皆入れるほどには大きくないから、大部分の都民は五日ある平日のどこか一日だけしか朗読を聴きに来れない。だから大司教さまは一週間を通して同じお話を読まれるのだ。

 今日は平日最後の彩日、フロイト・ユニムの日。つまりわたしが今年、このダンのお話を聞くのは五回目なので、退屈してしまうのは仕方がないのである。

「主は問われました。『ダンよ、なぜお前は麦を駄目にしてしまったのか』。ダンは答えられませんでした。主は宣告されました。『ダンよ、お前は目の前の麦を見るべきだったのだ。私の視線を気にしているゆとりがあるのなら』……」

 前列にいるのは大司教さまと同じくらいの初老の人がほとんどで、ダボついたオーバーオールや色んなシミがこびりついたエプロンを身に着けていた。きっと小作人さんや何かの職人さんだろう。

 前を陣取る人々はいつも決まっている。信仰心の厚い都民の中でも最高クラスに熱心である彼らは、きっと今回も教会の扉が開く何十分も前から並んでいたんだろうなと思う。

 毎日礼拝堂のちょうど真ん中くらいである五、六列目を確保しているわたしは、彼らの顔ぶれの大半を覚えてしまっていた。

「『お前は敬虔だが、敬虔であるだけでは価値が低い。私の楽園に相応しいものは、私が言わずとも最善の行いを選び取れる、優れた能力の持ち主なのだ』。主は彼に、一の門を潜るように命じられました……」

 顔ぶれは彩日によって異なる。フロイト・ユニムに来る人で印象深いのは、あの二人だ。話をしたことはないのだけど、わたしの目の前にいるオーバーオールのお爺さん、たしかケインさんという小作人さん。そしてその斜め前にいる布エプロンを付けたパン職人のリンゼイさん。彼らの名前を知ったのはつい最近だけど、顔はずいぶん前から覚えている。

 何故わたしが二人を特別に印象深く思っているかというと、彼らはわたしが席に着くときに決まって後ろを振り返るからだ。そしてわたしと目が合ったら、嬉しそうにニコリと笑う。

 無精ヒゲだらけのその顔は、とてもチャーミングで素敵で、きっと優しい人なんだろうなとずっと前から思っていた。

「一の門を潜ったダンは、アピス国に生まれ変わり、やり直す権利を与えられました。前世の記憶を持たずとも、彼の善良で敬虔な魂の特性は変わりません。彼の魂はその一生の後、無事零の門を潜ることができたといいます……」

 パタンと本を閉じる音が聞こえて、わたしは意識を教壇に戻す。ちょうど大司教さまが顔を上げ、礼拝堂の皆を見回しているところだった。

「ついにこの六巡目の世も、先月より衰退の節に入りました。みなさま雨の多さを実感されている頃と思います。衰退の節は、まさに主が我々を試されるときです。みなさま、今こそこの『応変の章』の教えの数々を活かすときと考え、目の前の責務に励まれますよう」

 大司教さまが礼をすると共に、周りの人が立ち上がる。右奥にあるオルガンの前で司教さまのひとりがお辞儀をし、軽やかなメロディを奏で始めた。

 フロイト・ユニムの聖歌、『わがたましいのゆくさき』である。

 ちゃんとオルガンの音が聞こえていない人もいるのだろう。おぞましいほどの不協和音を立てながら合唱が行われ、わたしはいつものように顔を引つらせながら歌う。そして意識が遠ざかるかと思われる寸前に歌が終わり、バラバラと席を離れる人たちに気が付いた。

 わたしのすぐ横をケインさんが、ウインクをしながら通り過ぎる。わたしは軽く笑顔を向けて頭を垂れた。そして人の波に紛れて聖堂の外へ出て、小雨の中を小走りに歩む。目の前に広がる庭園にポツポツと建っている屋根付きの休憩スペースに潜り込み、一息ついた。

 そこにはわたしのほかに数人の男の人がいて、大教会の上の方を見ている。わたしも彼らと同じ様に視線を上げると、高い高い塔が見えた。

 彼らが見ているのは、その塔の中腹だった。そこでは永久時計という、けして止まらない不思議な時計が時を刻んでおり、都中の時計はこの時刻に合わされている。

 彼らは自らの懐中時計の時刻合わせのために時計を見上げており、わたしも同様にポケットから小さな時計を取り出してゼンマイを巻いた。

「カノン、おはよう!」

 快活な声と共に、肩を叩かれる。振り返ると、見慣れた顔が笑顔を浮かべていた。

「おはよう、姉さま」

 わたしも彼女に笑顔を返す。そして彼女の後ろにいた三人の女の子にも、同じ様に笑顔を送って言った。

「みんなも、おはよう」

「おはようございます、カノンさん」

 手前にいた女の子はスカートをつまみ上品に会釈し、少し離れたところにいた二人は軽く手を振ってくれる。

 彼女たちはみんな紺色の地味なワンピースを着ていて、雨よけのケープを羽織っていた。わたしと全く同じ服装、女子修道院の制服である。

「カノン、あなたあくびをしていたでしょう。見ていたわよ」

「えっ、姉さま、近くに座っていたの? 全然気が付かなかった」

「あなたの二列後ろの席よ。駄目じゃない、あなたが礼拝中にあくびなんてしていたら、みんなびっくりしちゃうわ」

 わたしは肩をすぼませて、反省の意を示す。姉さまはニコリと笑ってわたしに体を寄せ、両肩に腕を回した。

「大丈夫大丈夫、誰も気付いてなかったみたいだから。次から気を付けるのよ」

「はぁい」

「返事は、はい! ですよ?」

「は、はい!」

「よろしい」

 わたしたちのやりとりに、他の女の子たちは笑っている。

「イチャイチャしてないで、早く行こうよ。遅刻したら大目玉よ!」

 一人がふざけてそう言ったのを皮切りに、わたしたちはまとまって歩き始めた。

 所々にある小さな水溜まりを避けながら、小雨の降る中庭の緩やかな坂道を下っていく。

「ホント、嫌よねぇ。毎日毎日、こんな天気でさ」

 前を歩く、金色の髪の少女が愚痴をこぼした。

「仕方がないじゃない、リリム。衰退の節ってそういうものなんだから」

 金髪の少女リリムの隣を歩く背の高い少女がため息混じりに言う。その女の子は、長く美しい小麦色の髪の毛を腰まで伸ばしていた。

「でも、リリムさん。先月は嬉しいって仰っていたじゃないですか。雨が降っても、“あなたがちゃんとしないから藍猫さまがお怒りになっている”と叱られなくなったと」

「あぁ、そうなんだけどさ」

 リリムは後ろを歩いていた、背の低い女の子を振り返って言う。この女の子も小麦色の髪の毛で、先程の背の高い女の子とは違い、腰まで長い髪を二つに結えていた。

「良く考えたらさ、叱られることには変わりないんだよね」

「叱られないような言動を取りなさいよ、あなたは」

 背の高い女の子がリリムを小突き、一同にドッと笑いが起こる。リリムは溜息をつき、後頭部を掻きながらぽつりとこぼした。

「よくわかんないけどさぁ、衰退の節ってやつ。三年間も雨が続くわけ?」

「いいえ、前回は二年足らずで終わったらしいわ。白子が早く旅立ったから」

「ああそっか。白子が衰退の節を終わらせてくれるのよね」

 リリムはふとこちらを振り返り、ニンマリと笑う。

「カノン〜〜、期待してるわよ! 私のために頑張ってね!」

 わたしはその顔に曖昧な笑みを返すだけに留める。一瞬だけ流れた沈黙の後、リリムの前後から同時に口撃が始まった。

「カノンはなんの心配もないでしょう。あなたじゃないんだから、リリム」

「リリムさんのために頑張っているわけじゃないですから! ねぇ、カノンさん」

 二人の小麦色の女の子に微笑を返して、わたしはちらり隣に目をやる。そこにはわたしが姉さまと呼んだ青い髪の女の子がいて、大きく手を振りながらこう言った。

「はいはい、その話はおしまい。まだまだ先のことなんだから。それよりも、今日の試験の話をしましょ。リリム、どうせなんの用意もしていないんでしょう?」

 リリムはテヘヘと笑って舌を出し、猫なで声を出しながら背の高い女の子に擦り寄る。

「カーミィ様、どうか教えて下さい。どんな問題が出ると思いますか?」

「知らないわよ。あなた、本当に何も用意しなかったの?」

「だって昨日は一番の難関、神学の試験だったじゃない。あれで疲れちゃって、家ではすぐに眠っちゃったわ」

「リリムさん、来期はわたしたちよりも下の学年ですね」

「やだ、アイリス! 縁起でもないこと言わないでよ」


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