プロローグ
夜の闇に沈みそうな室内に、しとしとと外壁を打ち付ける雨の音が響いていた。
ベッドの脇に置かれたランタンと、暖炉の明かりが、慎ましやかに辺りの輪郭を照らし出している。
そのとき、わたしの視界に映っていたのは、体を包み込む厚手のブランケットと、わたしの腕よりも大きな本の、少し黄ばんだページ。そして、それを捲る白くて長い指だった。
すぐ背後で、女の人の柔らかく優しい声が、わたしの耳をくすぐる。
「わたしたちの神さま、藍猫さまは、美しい青色の毛並みをもつ、大きなお猫さまなのよ」
「知っているよ。カノン、いつもお祈りをしているもの」
「そうね」
声の主は、得意げなわたしに軽やかな微笑を被せてから、絵本の挿絵に白い指を這わせた。
「でもね、カノン。藍猫さまはね、普通のお猫さまじゃないの。教会にある青銀の像よりも、ずっとずっと体が大きくて、全身が水のように透き通っているのよ」
「ふうん」
ランタンの光にぼんやりと浮かび上がる幻想的な水彩画。
そこに描かれた美しい猫は、普段見ている教会の猫の像とは、だいぶ印象が違っていた。
「あ、このお猫さま、尻尾が二本あるよ!」
「そう。藍猫さまは尻尾が二本あるのよ。暗くてよく見えないけど、教会の像にもちゃんと二本あるわよ」
「そうなんだ」
そういえば、以前、他の誰かにも教えてもらった気がする。そんな記憶を掘り起こしながら、わたしは再び挿絵の猫に視線を向けた。
「お腹の中を、お魚が泳いでいるよ」
「藍猫さまはとっても大きいからね。海も河も、藍猫さまの一部なのよ」
「頭には、雲が映っているね」
「お空も藍猫さまの一部なの。空も海も青いのは、そのためよ」
「目の奥に、街が見えるね。もしかして、どこかにカノンのおうちも映っているのかなぁ」
「そうかもしれないわ。藍猫さまは、いつでもこの都を見守ってくださっているのだから」
わたしはくまなく挿絵を眺めながら、女の人と会話を続けた。
他愛のないやり取りだったけれど、とても楽しかったことを覚えている。
幾晩も繰り返された、幸せなひととき。
眠りにつく前の、絵本の時間。
このときだけ、彼女はわたしだけを見て、わたしだけに語りかけてくれた。
わたしは、この日々がずっと続くのだと思っていた。
決して取り上げられることはないと、かたく信じていた。
けれど、彼女が初めてこの藍猫さまの絵本を読んでくれた夜、わたしは、それが間違いだったことを知らされる。
「あのね、カノン。母さまね、言わなければならないことがあって……」
「え、なあに?」
無邪気な瞳で見上げたわたしの目に、きゅっと結ばれた唇が映った。
わたしを抱き締める腕は、にわかに震えはじめ、胸の奥に不安が広がる。
「母さまね、今まで母さまって呼んでもらっていたのだけど……カノンの本当の母さまは、私じゃないの」
「え?」
意味が、わからなかった。
わたしは、まだ小さかったから。
母さまに、本当も嘘もあるの?
ぽかんとするわたしに、彼女は続けて言った。
「カノンの本当の母さまはね、藍猫さまなの。カノンは、神さまの子供なのよ……」
藍猫さまが?
わたしの?
冗談を言っているのだと思った。
だって、藍猫さまは神さまだし、お猫さまだ。
カエルやニワトリみたいに、両親と似ていない動物はたくさんいるけれど、猫とヒトは、両親と似ている動物だと知っていたから。
「わたしは、藍猫さまよりも、母さまに似ているよ?」
わたしはケラケラと笑ったけれど、母さまは、ニコリともしなかった。
とても悲しそうな声で、こう続けた。
「カノンはね、いつかは本当の母さまのところに帰らないといけないの。そして、母さまを慰めないといけないのよ」
「慰める……? 藍猫さまは、泣いているの?」
「泣いているわ、きっと。ほら、今も雨が降っているでしょう?」
白い指が指し示す窓に目を向ける。
分厚いガラス窓は真っ黒で、外の様子はまったく見えなかったけれど、そこに無数の雨筋が描かれているだろうことは、想像できた。
突然、優しい感触が、わたしの頭に触れる。
続いて、ぽたぽたと生温い液体が、わたしのうなじを濡らした。
「母さまはね、子供をとても愛しているものなの。だからきっと、藍猫さまも、カノンに会いたくて仕方がないはずよ。だって、こんなに可愛いカノンを、抱くことができないなんて、寂しすぎるもの……」
彼女が泣いているのだと気づいて、わたしは黙り込んだ。
どうして泣いているんだろう。
泣き止んでもらうには、どうしたらいいんだろう。
懸命に頭を働かせたけれど、何も思い浮かばず、ただ、彼女の生温い涙を、うなじに受け続けた。
「だからね、私のことは忘れて。これからは、藍猫さまのことを考えて生きて」
「…………」
「それが、私の――あなたの育ての母である、母さまの、最後のお願いよ」
わたしは、なぜかこのとき、黙り込んだまま、雨の音を聴いていた。
外壁を叩く音が、さっきよりも強くなっていた気がする。
このとき、何を思っていたのかは、よく覚えていない。
でも、こんなことを考えていたかもしれない、と思う。
――藍猫さまは、本当に泣いていらっしゃるのかしら。
だって、雨が降ると、みんなは言う。
『雨を降らせるのも、止ませるのも、藍猫さまのお力』だと。
笑っているから降るのだという人もいれば、怒っているからだという人もいる。
うたた寝しているから降るのだという人までいるのだもの。
どれが正解なのかなんて、わたしたちにはわかりはしない。
それなのに、母さまは、どうして泣いていると断言できるのだろう。
「眠りましょう、カノン。風邪を引いてしまうわ」
横たえられ、布団を掛けられるわたし。
隣には、最愛の母さまがいて、彼女の温もりを感じている。
幸せでいっぱいのはずのその時間は、微かに聴こえる嗚咽によって、奇妙なものへと変貌していた。
その声を聴きたくなくて、しとしとと降り続く雨音に耳を澄ませながら、わたしは考えた。
――もし、藍猫さまが泣いていらっしゃるのだとしても。
わたしが、泣き止んでほしいのは、隣にいる母さまだ。
本当の母さまでなくても。
今、泣いているのは母さまだし、泣き止んでほしいのも、母さまだわ。
――それから、八年後。
わたしの記憶のなかで、彼女は、いまだに泣き続けている。
そして、本当の母さまだという主神、藍猫さまも、相変わらず気まぐれに雨を降らせている――




