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衰退世界の人形劇  作者: 小柚
上巻

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第六章(2)


「何を見てる?」

「ひゃ、ごめんなさい!」

 急に冷ややかな声がして、わたしは条件反射で謝った。

「別に怒ってねえから。いちいち謝るんじゃねえよ」

「だって、その」

 あなたの顔が怖いから。さすがにそんなことは言えずに口ごもる。

「そっちは見んなよ」

「え? そっち?」

「机のほうを見てたろ、お前」

 バレていた。悪気は全くなかったんだけど、どうやらあそこにはルカさんの見られたくないものがあるらしい。

「ごめんなさい。明るかったから、なんだろうって思っただけで」

「…………」

 わたしが正直にそう言うと、ルカさんは何だか微妙な表情を見せた。

 あれ? もしかして、恥ずかしがっている? ルカさんはわずかに零れ出た羞恥心を悟られまいと、慌てて顔を伏せたように見えた。

「…………」

 これは、違うわ。わたしの脳裏に直感が走る。わたしの顔の内側に、悪い笑みが浮かんできた。

 わたしは徐に立ち上がり、平然と机に歩み寄る。

「あ! おい!」

 ルカさんは慌てて怒鳴ったけど、ほら、違う。これはルカさんが本当に隠したいことではないわ。

「何を隠しているんですか~?」

 わたしはもはや笑いを隠そうともせず、机に向かって突進した。しかしそこにあったものは、わたしの理解を軽く超えるもので、

「えっと、これ……」

説明を求めて、ルカさんを振り返る。

「うるさい! いいだろ別に! ちょっと興味が湧いてきたんだ!」

 いえ、その。これが何なのか、わたしにはわからないんだけど。ルカさんは赤面して顔を伏せるばかりで何も説明しようとしなかったので、わたしは自分の頭で考えることにする。

 机の上にあったのは、一冊の本と数枚の紙である。数枚の紙の一枚に、ミミズが這ったような落書きが書かれている。一冊の本というのが、何の本なのかというと。

「やさしい こくご……?」

 そう、それは、貴族の幼児向けに作られた、文字の読み書きを学ぶ本だった。

「ルカさん、文字を学びたかったんですか?」

「不便だろうが。文字が読めないと、本も読めねえし……」

「ランディスさまは、個人教師を付けてくださらなかったんですか?」

「今更勉強したいとか、言えるわけねえだろ」

 わたしは吹き出してしまった。その言い方があまりにも子供じみて可愛くて。

「何笑ってんだよ!」

「ごめんなさい!」

 怖い顔で怒鳴られてわたしは一応謝ったけど、笑いを止めることはできなかった。

「だから見られたくなかったのに……」

 ブツブツと文句を言っている姿も、小さな子供のようで可愛い。わたしはひとしきり笑ってから、とある提案を口にする。

「ルカさん、わたしが教えましょうか?」

「……文字を?」

「ええ。これでもわたし、勉強は得意なんです。国語でも他の学問でもなんでも、知りたいことがあれば教えますよ」

 ルカさんはもしかすると、わたしのその言葉を待っていたのかもしれない。だけどそれを知られることが恥ずかしいと思っているのか、居心地が悪そうに沈黙している。

 わたしは彼を気遣い、こう言い直した。

「いえ、わたしもルカさんが文字を学ぶのは良いことだと思います! 神さまの文字とこの国の文字をどちらも操れるなんて、素晴らしいことです。わたしで良ければ是非、お手伝いさせてください」

「……」

 ルカさんは赤面しながらも、ゆっくりと頷く。わたしは満面の笑みを浮かべて手を打った。

「良かった! じゃあ早速、こちらへどうぞ。席についてください」

 わたしは椅子の背を持ち、ルカさんを机へと誘う。彼はしばらく狼狽えていたけども、再度わたしが促すと、渋々といった様子で椅子に腰かけた。

「……気を遣わせて、悪かったな」

 ルカさんは、ぼそりと呟く。

「え? 何か言いました?」

 わたしはそれを、聞こえなかったように振舞った。ルカさんは驚いたような顔をしたけど、ふっと笑ってこう答えた。

「なんでもない。よろしく頼む」

「はい! お任せください!」

 わたしは早速、『やさしい こくご』の内容を解説した。この本、国語の入門書ではあるけど、全く文字が読めない人がいきなり独学で理解できるようなものではない。でもルカさんは文字の読み書きができないだけで、話す・聞くは普通の人並みにできるから、単純にこの文字がどういう読み方をするんですという説明をすればいい。

 しかしルカさんには問題があった。ペンは上手く使えるくせに、文字を書くのが圧倒的に下手だった。

「どうして見たままに書けないんです?」

「うるさい。俺にもわかんねえよ!」

 ぷるぷる震えるペン先がまた、おかしな方向へ向かっていく。苛立って紙をぐしゃぐしゃにする姿は、本当に小さな子供のようで微笑ましい。

「じゃあ、これとこれ、ちゃんと書けるように練習しておいてくださいね」

「へーい……」

「へいじゃなくて、はい」

「はい。先生……」

 この日わたしは、ルカさんにいくつか宿題を出して部屋を後にすることにした。

 テオドアの件はまだ何も解決していないけど、わたしたちにできることはほとんどなくなってしまった。それはつまり、わたしがルカさんに会う必要がほとんどなくなってしまったということなのだけど……。結果的にそれから一ヶ月の間、わたしはこれまでよりも頻繁に彼の部屋を訪れるようになっていた。

 二、三日に一度、ルカさんの部屋を訪れては文字を教え、次に来訪するまでの課題を出す。ルカさんは覚えが非常に速かった。地頭が良いというのは、こういう人のことを言うのかもしれない。とても真面目で、わたしが課した宿題は、いつも余分にやってくれた。圧倒的に下手だった文字の書き取りもみるみる上達していき、数週後には普通に読める程度の文章が書けるようになっていた。

「すごいです! さすがルカさんです」

「…………」

 わたしはことあるごとに彼を褒めちぎった。彼はその度に居心地の悪そうな表情を見せるのだけど、それが″はにかみ″であることはすぐにわかった。

 わたしは彼のその顔が好きで、意味もなく褒めてしまうのだった。

「すばらしいです! この紙、部屋に飾りたいくらいです!」

「いちいちうるさい! もう、次に行くぞ次!」

 時たま怖い顔で怒鳴ったりもするけど、その表情が張りぼてであることを見抜いていたので、全く怖くなかった。

 一緒に勉強をしているときのルカさんは、修道院の学友と何の変わりもなく、一人の普通の男の子だった。白子のわたしは今まで特定の友人と親しく時間を過ごしたことがなく、しかも異性の友人だなんて想像すらしたことがなかった。

 だから今のこの時間は、夢のような時間だったのだけど、わたしはある日、ぼんやりと思う。

 ……ルカさんはあの夜以来、テオドアの話を一切しなくなった。確かにわたしたちにできることはほとんどなくなったかもしれないけど、完全に頭から消えてしまったかのような態度にわたしは首を捻った。

「ルカさん。テオドアさんの話は、もういいの?」

 そう聞いてみたくもあったけど、今の平穏な時間を崩すような気がして、わたしは口にできないでいた。

 テオドアの手紙は綺麗に封蝋をし直して、わたしの部屋に隠してある。姉さまが帰ってきたときに、折を見て渡すつもりだとルカさんには伝えたけど、彼は興味のなさそうに『ああ』と答えるだけだった。

 どうしたんだろうルカさん。テオドアが帰ってこなくてもいいの? 故郷に帰れなくなってもいいの?

 首を捻っていたけれど、わたしは彼の変化を快く思っていた。テオドアが帰ってこなければ、わたしたちはずっと友達でいられる。もしかすると一緒に神官になれるかもしれない。

 そうよ、ずっとテオドアが帰ってこなければいいんだわ。ルカさんが羊角の白子になればいい。教典には、『ふたりの白子を藍の都に』としか書かれていないのだから、別にもうひとりがテオドアでなくたっていいはずよ。

 わたしは自分の良いように教典をねじ曲げて解釈し、不安な気持ちを心の奥底に押し込めた。

 そして日々は穏やかに流れ、六月に入ったアピスヘイルには雨季が訪れる。段々と蒸し暑くなる気候が、その後の夏の到来を予感させていた。



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