第六章(1)
翌晩、わたしはルカさんの部屋へ向かった。
一週間ぶりに訪れたその部屋は、なぜかきれいに片付いていた。天窓から垂れ下がるロープも、ささくれたりちぎれたりせず、ほとんど使われていないことがわかる。
「結局、読むことにしたのか」
「はい。印璽は見つかりましたか?」
「ああ。回収しておいた」
わたしはルカさんから印璽を受け取り、紋章を確認する。星と麦、羊のマークは、明らかにわたしの手元の手紙の封蝋と同じものだった。
「それでは、開けますね」
わたしはゴクリと喉を鳴らし、慎重に封を剥がしていく。中から現れた便箋を開くと、整然と並ぶ文字列に息をのむ。
テオドアはその容姿と同じく、文字まで美しく整えていたんだ。感嘆の思いとともに、その文章をわたしは静かに読み上げる。
「『愛するユノへ――』」
ルカさんはベッドの端に腰掛け、静かに朗読に耳を傾けていた。
『今回私は、あなたにお別れを言うために筆を執りました。この手紙を上手くあなたに届けられるかはわかりませんが、私の気持ちを確実に遺すために、あえて書き記します。
以前、誰かに意識を乗っ取られているようだとお伝えしましたね。誤解のないよう申し上げますが、それは私の前世ではありません。彼は私の前世とともに現れましたが、私の前世とは別のものです。
私は彼を「悪意」と名付けました。「悪意」はまず私の前世を食らい、遂には私をも食らおうとしています。あなたの手紙を読み返すことで抗っていましたが、そろそろ限界です。
大人しく降伏することを条件に、「悪意」は私の要望を聞き入れ、あなたからの手紙を隠してくれました。どこに隠したのかはわかりませんが、誰にも見つからない場所のようです。
あなたも、私の手紙は燃やすか、どこかへ隠してほしい。私とのつながりは、人の世を生きるあなたにとって毒でしかありません。もっと早く気づくべきでした。
私の前世は、あなたが仰っていたように気高く尊い魂でした。すぐに「悪意」に飲み込まれ、わずかしか触れることはできませんでしたが、私は藍猫さまに選ばれるべくして選ばれた魂だったと思います。
「悪意」に汚染されなければ、私は立派な神官となり、遠き藍の都であなたが訪れる日を心待ちにしていたでしょう。
いいえ、「悪意」に汚染されても、気高き私の魂は神官になることを願い、自由にならない体を離れて天へと向かうでしょう。
だから安心してください。あなたが審判を受けるとき、私は一番に迎えに行きます。それは間違いなく、お約束します。
その約束を取り交わすにあたり、お願いがあります。テッドからの最期のお願いとして、聞き届けてください。
「悪意」は私をこの箱庭から出そうとしています。何が目的なのかはわかりません。もしかすると、この箱庭から出すことが彼の目的なのかもしれません。
この土地から離れた私は、もはや私ではありません。どこかで姿を見かけても、どこかから連れ戻されても、それは「悪意」に染まったテオドアであり、あなたのテッドではありません。
あなたは私のことを忘れ、他人として振る舞ってください。それは私ではないのです。私の魂は、すでに藍猫さまの元へ向かっています。
最後になりましたが、これだけは言わせてください。私が白子テオドアでなく、あなたのテッドになりたいと申したのは、恥ずかしながら本心です。決して「悪意」に汚染されたからではありません。
それだけは誤解なく受け取ってほしい。恥を承知で書き遺します。
それでは、ユノ、お元気で。幸せな現世をお送りください。私はいつまでもあなたを見守っています。
テッド』
「……」
「……」
読み終えて、しばらく声が出せなかった。ルカさんも同じで、わたしたちは余韻に浸るしかなかった。
「だいぶ、予想と違ったな……」
先に沈黙を破ったのはルカさんで、落ち着かない様子で足を踏み鳴らしていた。
「こいつ、抜け道を知っていたわけじゃなかったのか?」
「そうみたいですね。もしかすると、テオドアさん自身は神さまの言葉をまだ理解できていなかったのかもしれません……」
ルカさんは、前世の記憶と共に神さまの文字を識字できる可能性を示唆していた。だけどテオドアは、前世の記憶を取り戻す前に「悪意」というものに汚染されてしまったようだ。
「『悪意』って、何でしょう」
「さあ……」
ルカさんはそう答えたけど、どこか思い当たることがあるのか、表情を歪める。
「ルカさん?」
「いや……何でもない。何でも……ない」
絶対に何でもなくない。そう思ったけど、ルカさんの秘密に深入りするのは良くないと、わたしは身を以て知っている。
「何でもないなら、いいんですけど」
わたしはそう言って、手元の手紙に視線を落とした。
テオドアの手紙は、姉さまへの配慮に満ちている。少しほっとした。テオドアがちゃんと白子としての責任を感じていたこと、前世の魂を気高いものと捉えていたことが伝わってきて嬉しかった。
だけど、この手紙の内容と、それがあった場所を考えると、テオドアはすでにこの都を離れてしまった可能性が高い。
姉さまがどこを探しても、テオドアはいない。もし見つかっても、恐らく彼はもう、別の何者かになってしまっている……?
「姉さま、これを読んだら悲しむだろうな……」
「じゃあ、捨てるか?」
「とんでもない! 渡しますよ」
テオドアの優しさに溢れた手紙は、絶対に姉さまの手元に届けるべきだと思った。そして、彼が望んだように、姉さまはテオドアのことを忘れ、前を向かなくてはならない。
「最初は悲しむと思いますけど、そのうち吹っ切れます。この手紙は、いいきっかけになるはずです」
多分、姉さまにとっての“答え”は、この手紙の中にすべてある。姉さまに関して言えば、この事件はひとつの終着点を迎えたのだ。
だけど、わたしたちにとっては、全く解決には至らず……泥沼の闇に踏み込んでしまった。
わたしは長く息をついた。
「テオドアさん、どこに行っちゃったんでしょうね」
「この都から連れ出すことが目的だ、と言っていたな」
「はい。彼をここから連れ出して、『悪意』は一体何をしようとしているのでしょう?」
「…………」
「『悪意』とは、一体何者なんでしょうか……」
ルカさんは険しい表情をしていた。わたしはそれ以上口を挟む気になれず、所在なく視線を泳がせる。
見回す部屋は以前と比べ、驚くほど片付いていて、まるで別の部屋に来たように感じた。机、椅子、ベッド、敷かれた絨毯。鉄格子と首吊りの縄さえなかったら、普通の部屋とほとんど変わらない。
わたしは、机のそばに椅子が置かれていることに違和感を覚えた。以前は椅子が変な位置で横倒しになっていることが多かったからだ。
地べたに座るわたしの視線は、机の上へと向かう。小さなランプが置かれ、周囲を明るく照らしている。インクの瓶と羽ペンも見える。
――ルカさん、また神さまの文字で何かを書いているのかしら。




