第五章(3)
でもわたし、何も間違ったことを言っていないわ。
この日のわたしは、強情だった。前回と同様に、無様に逃げ帰った部屋のベッドに寝転がって、脳裏に焼き付いた赤い光景を眺めながらも、わたしは強情に言い放った。
「テオドアさんは逃げたりしていないし、わたしだって逃げないわ!」
わたしはサリーの備忘録を掲げる。三枚目の頁を開く。そこにはこう書いてある。
「『"逃げる"こともできるけど、わたしは八戒に殉じましょう。アピスの民と、オズアルド君のために』。サリーは逃げずに神官になったのよ。わたしだって、なれるんだから。わたしも誇りあるアリアト派の白子なんだから!」
″殉じましょう″とは、小難しい言葉を使うなぁと思っていたけど、この単語を選んだのはサリーの強い決意の表れなのかもしれない。
「真実が何よ。あの本に何が書いてあったとしても、わたしもテオドアさんも逃げたりなんてしないんだから!」
確かに、わたしは逃げ出したいと思ったことはある。白子の役目なんて、普通の魂であるわたしには重すぎると思ったことはある。
だけど白子は藍猫さまに選ばれた清らかな魂。いずれわたしの中にも自覚が生まれる。それは前世のことを思い出すことをキッカケとするのかもしれない。とにかくいつかわたしにだって、白子としての自覚が目覚めてくるはず。わたしはそう信じていた。
「ルカさんはなにも分かっていない! アピスの白子は愚かじゃないわ! 逃げるなんて一番愚かな選択よ! ありえないわ!」
そう吠えつつも、ルカさんが分かっていないのは当然だとも思っていた。今まで彼は藍猫さまの教えを受けずに育ったのだから。
わたしたちが白子への強い期待を一身に受けて育った同じ期間、彼は第三の白子として教会から拒絶されて育った。その経験が、彼の心にそこはかとなく暗い影を落としてしまったのは明白だ。
「ルカさんが可哀そうな人なのは解るわ。でもテオドアさんを侮辱するのは良くないわよ」
テオドアが逃げてしまった可能性は、わたしも考えていないわけではなかった。だけどもしそうだとしても、"この国の白子が逃げる"ということの重みを知らない人に軽々しく言われたくない。テオドアが逃げたという可能性を指摘していいのは、他でもないわたしだけなのだ。
「すぐに怒るのもどうかと思うわ。いくらきれいに治るからって、痛い思いをしているのを見せつけないでよね!」
あんなのを見せつけられたらしばらく食事をする気にもならないし、首元がやけにスース―したりする。わたしへの精神ダメージも深刻なのだ。
せめてどうして怒るのか、何がルカさんを傷つけるのかを教えてくれたらいいのに。わたしだって毎回ルカさんを傷つけたくて言っているわけじゃないのよ。こんなことが続いたらお互い疲れちゃうでしょう? わたしは同じ目的を持つ同志として、あなたと仲良くなりたいのに。
「どうしたんですか? カノンさん」
「わたし、怒っているの。でも、気にしないで」
わたしは数日間プリプリしていて、修道院でも機嫌の悪さを隠そうともせず過ごしていたので、アイリスはすっかり怯え、リリムやカーミィには逆に面白がられた。
「やっぱり思春期の乙女病かなぁ~? カノンにもようやく春が来たのね」
「リリム。あなたの脳内はいつもお花畑よね」
「もう、わたしのことは放っておいて!」
わたしがピシャリとそう言うと、彼女らは本当にわたしを放置してご飯を食べに行ってしまった。ひとりで寂しくお昼休憩を過ごして、わたしは徐々に冷静さを取り戻す。
何がルカさんを傷つけたのかはわからない。ただ彼を傷つけてしまったことは事実だから、ちゃんと謝らなきゃいけないわ。
数日間モヤモヤを抱えながら生活していたわたしに、フワリと天使が舞い降りた。
「カノン様~。すこしお時間よろしいですか?」
週の終わり、フロイト・ユニムの放課後のことだ。笑顔でわたしに話しかけてきたのは侍女のククルだった。
「どうしたの? ククル」
「いえ、大したことじゃないんです。この前バターケーキをワンホール下さったじゃないですか」
「ええ。約束したから。お口に合わなかった?」
「とんでもない! ものすごく美味しくて、私感動しちゃいました!」
ククルは両頬に手を当て、今にもとろけてしまいそうな表情を見せてくれる。その仕草は可愛くて、女の子らしくて魅力的で……、もし怒られるようなことをしでかしても、彼女ならなんでも許してもらえるんだろうなと思ってしまった。
「それで私、このお礼をしなきゃと思いまして。是非是非カノン様、お納めになってくださいませ」
「えっ? お礼? 別にいいのに……」
「私の気が済まないんです! 人助けだと思ってお納めください~」
彼女がわたしに押し付けてきたのは、可愛らしいクッキーの缶だった。
わたしが贅沢をしてはいけないことを、侍女のククルはよく知っているはず。特に美食に対する贅沢を主教さまとばあやは嫌う。部屋にお菓子を持ち込むなんて、多分許してもらえない。
「駄目よククル。こういうことはしないで。もしばあやにバレたら、あなたが叱られてしまうわ」
「平気ですよ。私は教典に則ってこうしているんですから」
ケロリとそう言ってのけるククル。教典に則ってとはどういう意味だろう。わたしは気になったので問いかけてみた。
「私は以前から思っていました。″普通の子供として育てよ″の解釈を間違えているのではないかと。平均的な都民は黒パンと豆のスープなんて、数十年前の話ですよ。今の市民はもっと贅沢です。カノンさまはご存知ないでしょう? 大教会は全てにおいて古くさいんですよ」
わたしは目をぱちくりする。ククルの話は続いた。
「私はカノン様に美食を知っていただきたいです。都民が喜ぶことをもっと知っていただきたいです。じゃないと、楽園はつまらないものになってしまいます。美を尊ぶ藍猫さまがそんなことを望んでいるとは思えません」
ククルの話には説得力があった。わたしは感動に身を震わせながら、クッキーの缶を部屋に持ち帰った。缶のふたを開けると、中には色とりどりのジャムで飾られた小ぶりのクッキーが入っていた。
わたしは思った。ルカさんにも食べさせてあげたい。きっと彼も質素な食事しか摂っていないはずよ。わたしと違って修道院にも通っていないから、ずっと黒パンと豆のスープを食べているのよ。
一緒に美味しいものを食べたら、きっと仲直りできるわ。そう思ったわたしは、すぐさま抜け道に潜る決断をした。その日の晩、わたしはいつもの装備を固めて懲罰房の床の穴に身を投じていた。
この階段の上り下りにもすっかり慣れた。以前はかなりの時間を浪費していたけど、今はものの十分ほどで祭壇の部屋まで辿り着いてしまう。いつものように水路を飛び越えて羊角側の穴へ向かおうとしたとき、わたしはふと目の端に入った人影に驚いた。
「ルカさん!」
わたしの声に、祭壇の前にいた人物が振り返る。それは紛れもなくルカさんだった。彼は祭壇の台座の前で、件の石の本を読みふけっていたようだった。
「遅かったな」
「え? いつから、そこにいらっしゃっていたんです?」
「今日はさっき着いたばかりだが、ここへはお前が帰った次の夜から毎晩来てた」
「そうだったんですか」
もしかして、数日間ずっと待っていてくれたんだろうか。わたしはチクリと胸が痛んだ。ずっと愚痴を言っていたわたしと違って、ルカさんは次の日には気分を入れ替えていたようだ。
……あんなに怒っていたのに、よくわからない人。もしかして自傷すると、その直前の記憶を失ってしまうのかしら。
「あの、すみませんでした、前回も、そのー」
わたしはまず謝罪をしておこうと、水路のそばで姿勢を正していたんだけど、彼はそんなわたしをじれったく思っているようで、
「早くこっち来いよ。これを調べに来たんだろ?」
そう手招きをされて仕方なく、わたしは彼のそばへ歩み寄った。
「あの、ルカさん……気にしていないんですか?」
「何を?」
「いえその、わたし、何か怒らせるようなことを言ったのかなと」
「ああ……」
ルカさんは本に顔を向けたまま顔を顰めたけど、努めて明るくこう言うのだった。
「忘れろ。あれは、病気みたいなもんだ」
「忘れろって……」
忘れられるわけがない。脳裏に焼き付く鮮血は、なかなか忘れようにも難しい。
「最近はなかなか成功しなかったから気が立ってたんだ。あの晩は久しぶりに成功したから、今は気分がいい」
「成功した? 何をですか……」
「熟睡することだ。ああしないと熟睡できないんだよ俺は」
わたしはポカンとした。熟睡……? えっと、わたしは彼になにを質問したんだっけ。
「あの。成功したって、最初の方も言っていましたよね。飛び降りが成功率が高いとか」
「そうだ。飛び降りは熟睡できる。最長で半日だ。あのあとは二週間気分が良かった。あれは良いぞ」
「そ、そうですか……」
それは熟睡ではなく、昏睡状態と言うんじゃないかしら。呆れるわたしとは裏腹に、やたらと機嫌が良さそうなルカさんはよくわからない話を続けた。
「失敗続きでも最近は、あまり眠たくならなかったんだ。たぶんお前のお陰だな。テオドアの件を考えていたら暇が潰せた。暇だとやたら眠たくなるんだよな……」
「眠たくなるのは普通の事じゃないですか。ルカさんは毎晩どうしているんですか」
「寝てない」
「は?」
間抜けな声が出たわたしは、慌てて口を塞ぐ。
何を言っているのこの人。睡眠は人間の必須事項よ。眠らないなんて無理に決まっている。
わたしが怪訝な目を向けているのに気付いてか、ルカさんはニヤリと笑って言った。
「一時間の熟睡ができれば丸一日は全く眠気が来ない。二時間で二日、三時間で三日だ。先日の成功はでかかった。たぶん五、六時間は行けたな」
「そんなに昏睡してたんですか」
「昏睡って何だよ。熟睡だよ、熟睡」
わけのわからないところに拘る彼がなんだか可笑しくて、わたしはつい噴き出してしまう。
「ご、ごめんなさい……」
「なんで謝るんだよ。それよりこれを見ろよ。お前が言ってた本ってこれだろ?」
「そうです、そうです」
わたしは彼の隣に立ちながら、内心ドキドキしていた。相変わらず訳のわからないことを言う人だけど、この人、かなり格好良いわよね。
ここが明るいからなのかもしれない。目の前の男の子はちょっと目付きが悪いだけの普通の男の子で、牢の中で見た怖い男の子とはまるで雰囲気が違っていた。
ルカさんって特別整った容貌ではないんだけど、目元がきりっとしていて意志が強そうで、今まで見たどの男の子よりも魅力的だ。
こんな素敵な男の子とふたりで過ごせるなんて……。わたしはついつい赤面してしまった。同時に脳裏にリリムに言われた言葉が浮かんでくる。
『カノンにもようやく春が来たのね』
違う、違うわ。そんなのじゃなくて。わたしはリリムの幻影を振り払う。
「おい、聞いてんのか?!」
「はい、すみません!」
「お前、これが読めないとか言っていたよな」
ルカさんはわたしの浮わつきには露ほども気付かず、台座の石の本を指さして言った。
「読めませんよ。頭がポワポワします」
「ポワポワね……変な話だな」
ルカさんはわたしにそれだけ確かめると、黙々と文字列を追う作業を再開する。
「なんて書いてあるんです?」
わたしは文字を視界に映さないように目を細めつつ、ルカさんにそう尋ねた。
神さまの言葉で書かれた神さまの本。一体どんなことが書かれているのかしら。
ルカさんはしばらく読む作業を続けていたけど、徐に石の頁を持ち上げて、最初の頁らしきところに戻してこう言った。