第四章(3)・イメージイラスト
出鼻をくじかれた気分になったけど、計画には何も支障は出ていない。
わたしは藍猫さまとサリーさまへご挨拶を済ませた後に、予定通り懲罰房の穴へと向かった。
鉄格子に固くロープを結び付け、いくつもこぶを作ったロープを穴に垂らしていく。これで格段に昇降がしやすくなるわ。わたしはほくそ笑んで、抜け道にするりと身を投じた。
今夜の計画では、あの男の子と会話するつもりはない。眠っているそばをこっそり通り抜けて、鉄格子の鍵を試してみるつもりだ。鍵が開けばそのままテオドアの部屋の調査に向かい、開かなければ引き返す。その間にもし気が付かれたら、ごめんなさいと謝って出て行こう。
今はそれくらいしか考えが及ばない。あの男の子は、はっきり言って普通じゃない。今までわたしが接してきたどんな身分の人とも違う気がする。彼と会話するイメージがうまく湧いてこないのだ。
あまり考えたくはないけど、彼はあんなことばかりしているようだから、あれから体をおかしくして入院しているかもしれない。下手したら亡くなってしまっているかも……。そうしたらあの部屋にまた違う第四の白子が入っていたりするかもしれない。
最悪なのは、わたし自身が冷たくなった彼の姿を発見する可能性だ。冬季の正礼拝からあの調子で生き延びてきたみたいだから、多分そんなことにはならないとは楽観視しているのだけど……。もはや何が起こるか全くわからないから、あれこれ頭を悩ませても無意味だ。
「行き当たりばったりなのは、性に合わないのだけど……仕方ないわよね」
祭壇の部屋へたどり着き、羊角側の壁に杭を打ち付けながら、わたしはぼやいた。
無茶は承知だ。でも姉さまだって危ない橋を渡っているんだから、わたしだってこのくらいはやらないと。
ここで尻込みして引き返すのだったら、初めから足を突っ込まなきゃよかったわけで。
「乗り掛かった舟だし、沈むときは一緒よ、姉さま」
登っては杭を打ち、登っては杭を打ち、なんとかかんとか抜け穴の入口までたどり着いたわたしは、その場にぐったりと倒れこんだ。
冷たい土が頬を冷やす。気持ちいい。だけどゆっくり休んでいる時間はない。わたしは体に鞭打って起き上がり、段差の大きい階段を登り始める。
二段上がり、狭い横穴がしばらく続く。やっぱりあちらと同じ構造だ。そして行き止まりにまた縦穴があった。
「…………」
わかってはいたけど、ここを登るのは大変だわ。わたしはもはや何かを考えるゆとりもなくなり、ただ無心で体を動かしていた。
この階段、一段が胸まであるので、ほとんど崖を登っているようなものだ。幸運にも壁面がごつごつしていて足を乗せる取っ掛かりがあるからなんとか登れるのだけど、疲労が蓄積するごとに足を踏み外す頻度が上がってきた。
荒く息をつく。どうして水を持ってこなかったの、わたしの馬鹿。お腹がすいた時のために、黒パンをひと切れくすねておいたのだけど、何故だか飲み物については失念していた。いえ、荷物が重くなるからといってあえて持ってこなかったんだっけ。ああ、もうどっちでもいいわ。
また一段を登り、あと何段だっけと考えながら立ち上がった時、わたしの頭に鈍い衝撃が走った。
「!!!!」
目の前に火花が散り、よろめいた体を何とか立て直す。
何? なんなのよ、一体? 目の端に涙を浮かべつつ頭上を見上げたわたしだけど、よく考えたらこうなるのは当たり前だ。抜け道と懲罰房をつなぐ入口の穴は当然閉じているのだから、頭上を注意していなかったわたしが馬鹿だったんだ。
「あっ!」
わたしは頭を押さえながら、素っ頓狂な声を上げる。
「あ~……」
そして間抜けな声を上げながら、今度は頭を抱えた。
そうだ、この穴は懲罰房にある仕掛けを動かさないと、開かないんじゃないの? ああ、どうしてそのことを忘れていたの? わたしの馬鹿!
行動力だけはあるけど、最後の最後でうっかりしているのがわたしの悪い所よね。わたしは呆然と頭上を見上げ、しばらく頭を真っ白にしていた。
でも、いつまでもそうしているわけにはいかない。わたしは気力を振り絞って、周辺をカンテラで照らして回る。何かこちら側にも仕掛けがあるんじゃないかしら。部屋への扉だって、両側から鍵を操作できるようになっているんだから。
怪しい所はすぐに見つかった。頭上の穴の周囲は、きれいに木の板が打ち付けられているのだけど、その隙間から何か、紙片のようなものが覗いているのを見つけた。
「なにかしら、これ……」
引っ張るとそれは抵抗なく引き出されて、わたしの手の中に納まる。目の前で照らし出されたその外貌に、わたしは飛び上がって驚いた。
「これ! 姉さまの手紙じゃない!」
見まごう事なきその姿。わたしがポケットに押し込んだ際についた皴までもが記憶そのままの、桃色の書簡。キッチリと封がされたままの未開封の手紙にわたしの手は震えた。
「え? え? どういうこと?」
どうしてこれが、こんなところにあるのだろう。
確か先日、上の牢を訪ねた際には、床に無造作に投げ捨てられていたような気が……。
『手紙は、隠してください!』
……叫んだ言葉が、脳裏によみがえる。
どういうこと? あの人、律義にここに隠してくれたのかしら。確かにここなら誰にも見つからない……じゃなくて、あの人はこの抜け穴を知っているの? じゃないとこの手紙がここにあるわけがないもの。
目の前がぐるぐると回る。いやだわ、あの男の子に関わってから、わけのわからないことばかり。頭の処理が追い付かない。
わたしがふらついて外壁にぶつかると、カランと床に何かが落ちる音がした。どうやら木の板が一枚落下したようで、見ると手紙が刺さっていた部分に空洞ができている。
「あった……」
わたしは力なく呟いた。見つかって嬉しいような、怖いような、複雑な気分だ。
空洞の中には、上にあるのと同じような配管が通っていて、同じように連結部が三つ付けられている。
しばらく呆然とそれに見入っていたけど、ここまで来たのなら、わたしは確かめるしかない。
「七・七・四かしら。それとも、四・七・七?」
傷が入った面をこちらに揃えて、わたしは試しに四・七・七と回してみた。いとも簡単に、頭上の石が持ち上がっていく。隙間から、淡い光が漏れ入る。
こちらの懲罰房は、松明に火がつけられていたから真っ暗ではないのだっけ。しびれた頭でそう理解した。
「開いちゃった……」
腹を決めるのよ、カノン。ここを何度も上り下りするのは嫌でしょう? わたしは石に手を付け、力を込めた。
確認するのよ、まず第一に、この手紙があの時の手紙かどうか。
もしかしたら別の時に姉さまが送った手紙かもしれない。そうであればこれをここに隠したのはテオドアで、テオドアはこの道を知っていたのかもしれない。そしてここにいる男の子は、この道のことを知らない。
調べるのは簡単よ、ここを開けて、床を見て、あの手紙が転がっているか確認すればいいだけだもの。一瞬で終わるわ。それから静かにここを登って、鉄格子の鍵を試すの。
上から引くよりも、下から押すほうが格段に楽だ。石は簡単に持ち上がっていく。
倒れてこなくなるまで石を開いて手を離し、わたしはまず床を注視した。手紙のあった場所は、たしかあのあたり。
駄目だわ、松明の明かりだけでは部屋の隅までは見渡せない。わたしは鞄に括り付けたランタンを外し、そっと懲罰房の床に置いた。そして自分も部屋に上ろうと、思い切り足場を蹴ったとき。
「……なんだ、お前か……」
誰かの声が、聞こえた気がした。
わたしは全身を凍らせて、しばらく考えることを拒否した。けれど、声がした事実が変わるわけでもなく。
「……何の用だ?」
「ごめんなさあああああい!!」
再び聞こえてきた声に、わたしは金切り声を上げて石の端を持ち、穴の中に引っ込むと同時に蓋を閉じた。
その場にしゃがみ込み、ガタガタと震えるわたし。パニックになりすぎて何も考えられないでいたけど、しばらくして気が付く。上にランタンを忘れてしまったことに。
背中に冷や汗がびっしりと浮かぶ。まずいわ、あれがないと帰れない。
前回は未知の洞窟を探検するということで二つのランタンを持っていたけど、今回は必要ないと思って一つしか持ってきていない。
真っ暗の中を帰れるわけがないので、上に上がって取ってくるしかないのだけど、あの男の子、絶対に起きてるわよね……。
どうしよう。どうしよう。背中は汗でびしょびしょだ。落ち着いて、落ち着くのよカノン。大丈夫よ、ランタンを置いたのはすぐそばよ。ちょっと開けて手を伸ばせばいいのよ。
わたしは意を決して、石を持ち上げた。ランタンの光を見つけて手を伸ばす。
「…………」
ランタンを掴んで引きずるわたしは、彼が何も言ってこないことに拍子抜けしていた。段々と冷静さを取り戻すわたし。
別に彼と話をするプランに変更してもいいのよ。彼が普通に会話をしてくれる人なのなら。
ランタンを取り戻したわたしは、再度石を持ち上げて部屋の様子をうかがってみる。真っ暗な部屋には相変わらず物がたくさんあり、目の前には羽毛がゴッソリと落ちていた。
「あの……」
返事がない。
「夜分遅くにすみません……」
返事がない。耳を澄ませると、深い呼吸音が聞こえる。
もしかして、眠っている? さっきの声は空耳だったのかしら……。わたしはそう思い、ゆっくりと石を押し上げた。
「……ちょうど」
「?!」
「ちょうど、お前のことを考えてた」
わたしはビックリして固まる。やっぱり起きている? わたしは暗がりの中視線を泳がせて、声の主を探した。
「えと、わ、わたしのこと……ですか?」
「この前、お前がそこに来たとき……言ってただろ」
「わたし、何を言いましたっけ……」
「『機会があったらお話しましょう』」
確かに言ったけど……、それがどうしたというのだろう。わたしはようやく彼の足らしきものを見つけた。靴は履いておらず、左右の足の裏が暗闇からこちらに突き出している。
「何か、話すことがあるのか?」
「えっと、その……」
「暇だから聞いてやるよ」
「……!」
意外と友好的だわ。わたしは思わず目をぱちくりさせた。もしかして、かなり話が通じる人なのかもしれない。
わたしは再び石を垂直になるまで持ち上げて、懲罰房の床に這い出した。
「あの、こんな真夜中にお邪魔してごめんなさい」
「……」
「おっしゃられる通り、お話があって来ました……」
暗闇から何かが投げられる。わたしの前で弾んだそれは、椅子のクッション部分のようだった。
「それ、使えよ」
「あ、ありがとうございます……」
彼の足元に壊れた椅子の残骸らしきものが転がっている。おそらくあの椅子の一部なのだろう。
わたしはそれを床に置き、その上に腰を下ろした。
想定外の事態になってしまった。わたしは気まずさに溺れそうで、視線を忙しなく泳がす。
目が慣れてくると、部屋は思いのほか明るく、鉄格子の反対側の隅以外は簡単に見渡せた。壁には相変わらず不気味な傷がたくさん入っているし、天窓からぶら下がる布切れも撤去されていない。
彼は松明の明かりが届かない壁側にもたれていて、相変わらずこちらに両足を投げ出していた。その姿はぼんやりとしか見えないけど、こちらを刺すような鋭い瞳から、この前会った男の子と同一人物であることだけはすぐにわかる。
目を合わせるのが怖くて、再び視線を泳がすわたし。そうだ、姉さまの手紙は? 肝心なことを思い出し、床に転がるゴミの山に目をやったけど、そこに目的のものはなさそうだった。
「で、話ってなんだよ?」
「あの、えっと……」
うまく言葉が出てこない。聞きたいことはたくさんあるはずなのに、何から話せばいいものやら。
「まだあんなことをやっているんですか、その……」
「首吊りか?」
「えっと、はい」
窓の鉄格子から下がる輪っかが気になりすぎて、わたしはつい尋ねてしまった。まだ生きていたから良かったものの、あんなことを続けていたらいつかこの人は亡くなってしまう。
白子が神の御元に参上せずに亡くなった場合どうなるのかはわからないけど、白子はすでに零の門をくぐった魂だから、おそらく他の魂と同様に夜空の星になって、楽園の創世を待つことになるのだろう。
主をお助けするという義務を果たさずに眠りにつくわけだから、藍猫さまの心証が良い訳がない。
白子の保護義務を果たせなかったアピスの民はもっと心証を損ねてしまうわけで……。
内心穏やかでないわたしとは裏腹に、この人の返答はいつも唐突でそっけない。
「椅子が壊れたから、できなくなった」
「そ、そうですか……」
椅子が健在なら続けていたのね……。わたしは呆れつつも、少しほっとした。
「じゃあ今は、特に変なことはしていないんですね?」
「……変なこと?」
「その、つまり、……ご自分を傷つけるようなことです」
「…………」
彼は思案するように天を仰ぎ、傍にあった何かを手に取る。
「今は、これくらいだな……」
わたしは彼が右手で弄んでいるそれを注視した。ランタンの明かりにきらめくそれは、短い金属の棒のようだった。
「フォーク?」
独特の先端の形に気付き、わたしはその道具の名前を呟く。
何の変哲もない、食事用のフォーク。それを彼は片手でくるくる回している。
「躊躇すると、逆に痛いんだ……」
「え? どういう……」
わたしはそう問おうとして、息を呑んだ。
彼が首を傾げたときに、襟で隠れていた首筋が見えた。首筋には妙な形の傷があり、彼の動きに合わせてパクパクと口を開けている。
そういえば、ぼんやりと見えていた彼の服。襟元から右胸にかけて広がっているその赤い色は、もしかして、その傷に関係があるもの……?
「…………!!」
わたしは理解が及んでしまって、喉の奥で悲鳴を上げる。
体が勝手に動き、彼の手からフォークをもぎ取った。
「だ、駄目じゃないですか! なにをやっているんですか!」
近くで彼の首を見る。小指くらいの長さの生々しい傷が、喉から鎖骨にかけて四つ並んでいた。骨まで覗いているようで、見るからに痛々しい。
「お医者さんに見せないと……ああ、もう、服も血みどろじゃないですか」
わたしは彼のシャツに触れて、その感触に違和感を覚えた。
あれ? まだ固まっていない。わたしは自分の手を覗き込み、背筋が凍る。
「きゃああああああ!!」
掌が真っ赤になっていた。ぬらぬらとしたその光沢は、まだ乾いていない血液のそれで、鉄のにおいにわたしは気を失いそうになる。
「大げさだな……」
「いや、全く大げさじゃないですから!!」
最初から違和感があったんだ。なんだか呼吸が苦しそうというか、喋りづらそうにしていることが気になっていた。
首にこんな酷い傷があるなら当然だ。いえむしろ、普通に会話できているのがおかしいくらいで。
「もうだいぶ治ってきてるんだ。お前が来て失敗したからな……」
「……え?」
治ってきている? どういうこと? わたしは彼の首元を凝視した。
確かにそれは違和感がある傷だった。周りの血がまだ固まっていないということは、出血からそれほど時間は経っていないはず。なのに、傷の周りはすでに乾きはじめている。
気持ちの悪さよりも好奇心が勝ち、わたしは至近距離から傷を眺め続けた。
時間にすると十分くらいだろうか。わたしの目でも捉えられるくらい凄まじい速度で骨が肉に覆われ、傷の生々しさが薄まっていく。先程まで見えていた骨が完全に見えなくなったところでわたしはやっと彼から離れた。
じりじりと後退る。気持ち悪かったからではない。今まで不躾に、彼の体に触れていたのが恥ずかしくなったからだ。
背中にクッションの感触を捉えて停止する。
彼の言うとおり、首の傷は治るだろう。さすがにあと数分で、とはいかないけど、きっと半日もあれば傷跡は完全に消えてしまうだろう。
それは神の奇跡としか思えないほどの治癒速度だった。
「……あなたは、一体……何者ですか?」
目の前のものが信じられなくて、わたしの口からそんな呟きが漏れた。彼から帰ってきたのは、相変わらずそっけない一言だった。
「さあ? 何者だろうな……」
彼に問いつつ、わたしは思った。
そういうわたしも、自分が何者か分かっていないじゃないの。
神の子と呼ばれ、ちやほやされて生きてきたけれど、髪の毛が白いだけで他の子とほとんど変わりない。その違和感に六年間、ずっと悩まされてきたのだ。
それに対して、目の前の彼は。髪が白いだけではない、明らかに神に愛されているとしか思えない奇跡をその身に体現している。
もしかして、彼こそが『神の子』? わたしとテオドアは、偽物の白子だったの? わたしの頭に畏怖の念が湧き上がる。
すっかり混乱してしまったわたしはその場に跪き、今までの無礼を徹頭徹尾お詫びしたい気持ちに晒された。




