第四章(1)
教会のてっぺんのこの部屋は、藍猫さまの目に届きやすいよう、高く高く作られた。この部屋に住まう我が子を、藍猫さまは青の道の果て、遠い天の国から見守ってくださっている。
『藍猫さまとその御子の大切な時間を、邪魔してはいけない』
そういう意図から、この部屋とこの部屋に関する規則は作られたようだ。
藍猫さまが本当に始終わたしの姿を見ていらっしゃるかはよくわからないけれど、少なくとも彼女は事細かにわたしの暮らしぶりを監督するつもりはないらしい。
例えばわたしがいくら夜更かしをしようと、こっそり香水を吹かそうと、部屋に残る白子の遺物を丹念に調べようと、藍猫さまがご気分を害されたことはない。もし仮に、懲罰房の抜け穴を調べることがいけないことだったとしても、そのせいで嵐がやってきたり大雨が降り続いたりはしないだろう。
この部屋での出来事は藍猫さま以外の誰にも咎めれることはないから、わたしは藍猫さまのことだけを気にしていればいい。羽目を外しすぎて翌日まで疲れを引きずり、結果的にばあやにばれることにならなければ大丈夫だ。
わたしは一通り教典に目を通し、問題になりそうな表記がないか確認した。念には念を入れ、窓の外の遠き藍の都に向けて祈りを捧げる。特に神官サリーさまへと、念入りに祈りを捧げることにした。
「藍猫さまがお怒りにならないように、ある程度大目に見てもらえるように、サリーさまからも、お口添えお願いいたします」
祈りを終えたわたしは、ひらひらのネグリジェから動きやすい服に着替え、底の厚い革靴を履き、ランタンを縛り付けた鞄を背負う。入念な最終チェックを終えたのち、ようやく満足したわたしは、満を持して懲罰房に降り、ぽっかりと空いた穴に臨んだ。
しゃがみ込み、ロープをくくりつけたもう一つのランタンを穴の中に下ろしていく。かしゃりと地につく音が聞こえてから、穴に首を突っ込んで中の様子を隈なく見渡す。内部の安全性を充分に確認するためだ。
うん、大丈夫そう。そう判断したわたしは穴の淵を両手でしっかり持ち、体をゆっくりと穴の中に滑り込ませる。靴底にしっかりと足場を感じてから、両手を放した。しゃがんでランタンを拾い、さらに奥を覗き込む。少し先に次の足場がある模様。次はそこに向けてランタンを降ろしていく。
この作業を繰り返して、わたしはどんどん奥に進んでいった。
おそらくこの隠し階段は、塔の内部を螺旋状に下に降りて行っている。普段使っている部屋までの階段は塔の外壁に沿っているので、この階段はそれより内側の、今まで何もないと思っていた部分をくりぬいて作られているのだと思う。
外の階段よりも一段一段が高く、角度も急なので、落下すれば怪我は免れない。下手すると骨を折って動けなくなり、そのまま餓死してしまうかもしれない。
慎重に。慎重に。わたしは一段一段、集中して下りる。十段ほど降りたところで、上からロープを垂らせばよかったなどと思いつく。
とりあえず行けるところまで行って、どれだけ深いのか確認してからにしよう。でないと、どのくらいの長さのロープを用意すればいいかわからないものね。
さらに十段下りると、少しの横穴があり、這って進んだ後に再び縦穴に出くわした。
「水の音がする……」
その穴から、はっきりと水が流れる音がした。これまでもわずかに聞こえていたけれど、風なのか水なのか判断が付かなかったのだ。
近くに水脈でもあるの? こんな暗い中、水中に落下したらたまらないわ。
わたしは荷物から杭を取り出し、壁に打ち付けた。そこにロープを結び付けて、簡易の命綱とした。
その判断は功を奏した。二段下りるとその先には開けた空間があって、かなりの高さから下に降りなければならなかったからだ。
「ロープが無かったら、今日の探索はここで打ち切りになっていたわね」
わたしはロープを伝ってその部屋に降りた。
そこは不思議な部屋だった。もう朝になってしまったのかと思うくらいに明るくて、わたしは慌てて光源を探した。
どうやらこの部屋は外から明かりを取り入れているわけではなく、そこにあるもの自体が光を放っているようだった。
"そこにあるもの"というのは、祭壇と、二つの水路だ。
祭壇には二本の柱があり、その柱がまぶしいほどの輝きを放っている。そしてその柱は上から水が注ぎこまれており、それぞれ水路に繋がっている。
わたしは足元を流れる一本の水路に顔を近づけた。柱に比べると輝きは弱いけど、部屋の様相を照らし出すには充分な光量だ。二本の水路は部屋の奥にぽっかり空いた二つの洞窟に向かっていて、その先はどうなっているのかここからでは見えない。
わたしは光る水を両手ですくって臭いを嗅いだ。微かに刺激臭がツンと鼻を衝く。
「これって、『導きの水』かしら」
わたしはそう呟いて、鞄のポケットをまさぐり小瓶を取り出した。ランタンの予備の燃料として持ってきたものだ。蓋を開けて臭いを嗅ぐ。同じように微かな刺激臭がした。
水路の水と比べると、小瓶の水の光は弱いけど、独特な臭いはほぼ同じ。おそらくこの二つは同じものなのだと思う。
「導きの水の源泉……ということは、この二つの水路はそれぞれ、大教会のほうに繋がっているのね」
わたしはそう納得して、立ち上がった。
『導きの水』とは、わたしたちの信仰心に対する報酬として藍猫さまから与えられる不思議な水で、藍猫さまの代わりに様々な恵みをもたらしてくれる。確か大教会のご神体の後ろにある秘密の部屋に、この水が湧く泉があると聞いたことがある。
市民の生活を支える湯社や火社が焚いている湯も火も、粉社の粉引き機もこの水を燃料としているし、鍛冶屋やパン屋さんなどもこれを燃料として使っている所もあると聞く。この小瓶程度の量で小さな湯屋が一か月稼働し続けることができるというから、たくさんの市民を抱えるアピスヘイルにはなくてはならないものだ。
藍猫さまの恩恵であるこの水は際限なく使えるわけではなく、極めて公共性の高い場所から順番に配られている。教会が管理する湯社、火社、粉社などの公共設備、一部の鍛冶屋、パン屋がそれだ。
そういえばローダさまが、最近小雨が続いて農作物の収穫量が激減しているので、肥料としてこの水を使うことを検討しているとか言っていたかな。
それらの分を差し引いて、余った分が教会区や王城の個人使用分として貯蔵されていて、わたしがランタンの燃料として使用しているのはそれにあたる。ランタンだけに使用するなら、この小瓶一本分あれば数年間灯りには困らないんじゃないかな。
ほんのり光って独特の刺激臭のするこの液体は、一般市民からしたら金銀宝石よりも価値のあるもので、この小瓶一本がいくらで取引されると言っていたかな? 横流しして捕まる使用人が後を絶たなく、数年前に罰則が強化されたとかなんとか、昔誰かが言っていた。
多分、わたしじゃない人がここを見つけたなら、王さまの宝物庫を見た時よりも興奮してしまうんじゃないかしら。国宝級の財宝が絶え間なく流れているのに等しいんだもの。
導きの泉ですら立ち入り禁止で、導きの水が汲み出される様子を見たことはない。まさかその水源にお目に掛かれるなんて驚いた。
わたしは光に集まる羽虫のように、輝く柱に吸い寄せられていく。
初めは目を開けていられないほど眩しかった光にも段々と慣れ、柱の根元に着く頃には、柱の中身が認識できるほどになっていた。
「なにかしら、この丸いもの」
柱の中にはこぶし二つ並べたくらいの大きさの瓢箪型の物体がたくさん浮かんでいる。この物体が発光源らしく、ずっと眺めていると目がつぶれてしまいそうだ。
わたしはそこから目をそらして、祭壇に目を向けた。壁一面に積みあがった石に模様が彫られている。それは毎日のように目にしている部屋の入口の扉の模様に酷似していた。
「きれい……」
その模様にしみ込んだ水が、光を放っている。輝く祭壇は今まで見たことがないくらい神々しく、わたしは内なる信仰心の誘うままにその場に跪いた。
「藍猫さま……真なるお母さま。あなたの祭壇を拝見できて、カノンはとても感激しました」
サリーさま、わたしをここまで導いてくださりありがとうございます――。
そう唱えて顔を上げたとき、わたしはふと、目の前の台座が奇妙な形をしていることに気が付く。
「これ、何? ……本?」
台座は何枚かの薄い石で構成されていて、本のように中央が半円の石で綴じられ、捲れるようになっている。
その本と石板の中間のようなものには、びっしりと文字が書かれている。
「うわっ」
わたしは思わず声を上げ、しりもちをついた。
突然頭の中をもみくちゃにされたような感覚。読んだはずなのに読んだ内容が頭から抜けて行くこの感覚。これは、この文字は。
「正礼拝のあの呪文と同じものだわ……」
わたしはもう一度、石板の文字を目に焼き付けるべく立ち上がる。だけどやっぱり目に入った瞬間に、頭の中をもみくちゃにされて、何一つ記憶に残らない。
「神さまの文字だわ……」
正礼拝の呪文以外でこの文字を見たのは初めてだ。こんなものがアピスヘイルにあったなんて。
「ローダさまが知ったらどうなるかしら……」
旧約の書とか、前回の白子だとか、そんなものふっとんじゃうくらいの衝撃だろうな。
導きの泉の源泉と、神さまの本。おそらくアピスにあるどんな国宝よりも貴重なもの――。
「あ、いけない!」
違うわカノン、わたしがここに来たのはこれを見るためではないでしょう? わたしは我に返って、周辺の探索に戻る。
この祭壇を流れる水が導きの水なら、二本の水路は大教会のご神体の後ろにあると言われる、導きの泉へと流れている。
そして禾穂と羊角の大教会が、王城を境に鏡面構造になっているならば。
「羊角側にもここへの抜け道があるはずよ!」
わたしは水路を飛び越えて、向こう側の壁へと向かう。天井は凸凹としていて、いくつも影を作り抜け穴を見えにくくしている。
だけど、この辺りにあるはずよ。わたしはランタンを翳し、根気よく探す。
あった! わたしの期待通りに、それはぽっかりと口を開けていた。
思わず顔がほころぶ。だけどもその喜びはすぐにしぼんだ。
確かに横穴はあった。けど、それで何がわかったというの?
抜け穴があっても、それをテオドアが使用したかどうかわからない。だいたい、あんな分かりにくい抜け道、どうやって気が付くというのよ。わたしだってサリーからの情報が無かったら絶対に見つけられなかった。
穴からロープが垂れ下がっていたのなら、テオドアがここを通った証明になり、彼が消えた先を予想する手掛かりとなったかもしれないけど。横穴はひっそりと暗闇に紛れて口を開けているばかりで、中からなにも垂れ下がったりしていない。
わたしは一旦そこから離れて、部屋の隅々を見て回った。この部屋は祭壇と水路があるばかりで、あまり広くはない。二つの水路が飲み込まれていく背の低い洞窟の間に錆びた鉄扉があったけど、閂を抜かないと開きそうもない。閂には例の奇妙な文字が刻まれていて、見ているだけで頭がくらくらする。
「ここはどこにつながっているのかしら」
おそらくこの閂もからくりだ。開けるには手順を踏まないといけないのだろう。押しても引いてもびくともしない閂に、わたしはすぐに匙を投げた。
水路が流れていく先の洞窟にも足を踏み入れてみたけど、すぐに行き止まりにぶつかった。水は祭壇と同じような石造りの壁に開いた小さな穴に吸い込まれて行って、それ以上は進めそうになかった。
お手上げだ。テオドアの手がかりはここにはない。
わたしはすっかり意気消沈して、とぼとぼとロープの下に戻った。ローダさまや他の人から見たら、涎を垂らすほどのすばらしい場所なのかもしれないけれど、わたしの期待にはそぐわなかった。
もしこれ以上の捜索をするとするなら。わたしは抜け穴の有った場所を睨む。
あの抜け穴に上って、羊角側の懲罰房に出る。あそこにはあの男の子が居るはずだから、彼から話を聞く。テオドアのことは知らないと言っていたけど、彼自身の話くらいは聞けるだろう。彼が何故テオドアの代わりになっているのか、彼がどこから来たのか。
ーーそうは言っても。
わたしは部屋に帰り、汗にまみれた服を脱ぎ散らかしてベッドに飛び込む。
ーーあの男の子に話を聞くなんて。わたしにそんなことできるかしら。
わたしは尻込みした。
少し接しただけでも異常な人なのがわかる。普通は近付かない、というか専門のお医者さんじゃないと近付くのは危険なんじゃないかしら。
彼はわたしの話を落ち着いて聞いてくれるのかしら? 話の途中でまた首でも吊り始められたら、わたしはどうしたらいいのかわからないよ。
わたしは腕を抱えて悩む。
彼が死にたいと願うほど辛い状況を、まずは取り除いてあげないといけないのでは? それはあの部屋から逃してあげることなのかもしれないし、他のことかもしれない。
逃してあげることならできるかも……。わたしは机の引き出しに突っ込んでいた鍵を取り出して眺める。
この鍵で入り口が開けられたなら、彼はわたしの話を聞く気になってくれるんじゃないかな。
そうしたら……お名前と出身地を聞いて……ここに来た経緯を聞いて……もう一度テオドアのことを聞いて……。
わたしは具体的なイメージトレーニングをしようとしたけど、どうしても会話のイメージがそれ以上浮かんでこない。
だって、自分と同い年くらいの異性と話をしたことなんてないんだもの。初対面の男の子とはどうやって話をしたらいいの?
前はその場の勢いでなんとなく会話をしてしまったけど、本来この国では親族以外の異性とはお話ししてはいけない。
そりゃあ都合上、司教さまや修道院の先生、召使いやお城からの使者さんとかとお話することはある。けれどみんなわたしよりも一回り以上歳上だ。
「男の子かぁ……」
わたしはなかなか向こうへ行く意志が固まらず、数日間をぼんやりと過ごしてしまった。