第三章(5)
ぱらり。わたしはサリーの本を開く。
久しぶりのことだ。五年ぶりくらいだろうか。
日に焼けた羊皮紙は今にも破れそうで、意味もなく触るのはやめようと決めたあのときを思い出す。
『備忘録』。幼いわたしはこの小難しい単語の意味が分からず、ばあやにそれとなく尋ねたことがあった。
「忘れてはいけないことを文字にして書き残した本のことですよ」
ばあやは怪訝な顔をしながらも、そう教えてくれた。
なるほど、これは白子にとってとても重要なことが書かれているのね。そう思ったものの、サリーの筆跡はかなり特殊で読みにくく、さらに小難しい単語を散りばめるものだから、小さかったわたしはこの本を怪文書と断じ、やがて存在すら忘れてしまったのだった。
あれからわたしも成長した。修道院や日々の生活でたくさんの単語を学び、少しは読めるようになっているはずだ。期待を込めて、久しぶりに手に取った。
表紙をめくって現れた二枚目の紙。ひどく文字がかすれていて、読めるのはわずかだった。
『××の記憶は、三回目の×で確信。正礼拝の××に違和感を覚えたのもこの頃。オズアルド君と地下へ……』
すぐに三枚目に移る。
『懲罰房に入るような不信心者でないと、××しようなんて思わないでしょう。よくもこんなものを作ったわね、ラウドさま。』
『地下の真実に首を突っ込む愚者。そして賢者は暢気にお日様に焼かれるの。あっちの洟垂れは何も知らないでしょうね。本当にご聡明であらせられますわ、お坊ちゃま。』
『×××こともできるけど、わたしは八戒に殉じましょう。アピスの民と、オズアルド君のために。』
サリーの言葉遣いは少し乱雑だ。サナトリム家らしいといえばそうかもしれない。現在の本家のお嬢さま、リリムもこんな荒っぽい口調だもの。
商人からのし上がった貴族であるサナトリム家は、品性に少し欠ける面があると、ばあやは言っていた。名家との結婚で発展した現在は品のある人も増えたらしいけど、本家の跡継ぎであるリリムがあれだから、まだ根が商人だと囁かれても無理はない。
わたしはリリムの不機嫌な顔を思い出し、思わず破顔して四枚目を開く。
『あれを読めたのはわたしだけだったから、少し嘘を吐いてしまったわ。真実を曝け出せば、彼は泣いてしまうでしょう? 泣き虫で愚図のオズアルド君。サリーは、彼のことちょっぴり気に入ってたみたい。』
『わたしが重臣に選ばれれば、いずれ彼のお兄さまが××になるんでしょう? おかしいわよね、全然想像できないわ!』
最後の五枚目には、妙な図形が描かれている。大きな四角の中に小さな四角や丸がいくつかあり、左端に小さなバツ印、その傍に数字が三つ。
『七・七・四』
余白に大きく書きなぐられた二文で、この日記は終わっている。
『勝つのはわたし。わたしが負けたら、これを読んでいる次の人、よろしくね。』
『アリアトよ、永遠なれ!』
意味不明な本だ。最後の図形は宝の地図か何かではないかと、あれこれ探したけど結局何も見つからなかった。
「でも、やっぱり地図よね。それ以外に考えられない」
言葉遣いも筆跡も独特なサリー。描く絵も独特で、一生懸命何かを伝えようと図形を描きこんでくれているのに、どれもミミズが這ったような四角や丸で、何を示すのかさっぱり分からない。一見地図に見えるけど、もしかしたら違うのかもしれない。
「サナトリム家のお嬢さまって、みんなこうなのかしら……」
いいえ、そんなことはない。実は、ばあやはわたしの“本当のおばあさま”だった。わたしの母、イリアさまはばあやの実の娘で、元はサナトリム分家のお嬢さまなのだ。
イリアさまは優しく穏やかで、“良家のお嬢さま”そのものの方だった。もしかしたらサナトリム家は、分家の方がまともなのかもしれない。
――いけない。考え事が逸れたわ。わたしは意識をサリーの本に戻す。
五年前はもっと意味不明に感じた文章も、今読めばそこまでひどくはない。わたしは、読める単語をひとつひとつ思い返す。
「悪口が多いのね。愚図とか愚者とか間抜けとか。洟垂れなんて言葉、普通は読めないよ……」
まさに悪口のオンパレード。何度も話題に上るこの“オズアルド君”という人物は、きっと彼女に振り回されていたのだろうと可哀想に思う。
オズアルド……どこかで聞いたことがあるような。そうか、主教さまの名前に似ているんだわ。
「オズワルドと、オズアルド……まさか、同じ人ではないわよね?」
何度名前を目で追っても、どう読んでも"オズアルド"。とても"オズワルド"とは読めない。
「でも、サリーだしなぁ……」
独特な筆跡の彼女なら、アとワの字を間違えて書く可能性もゼロではないかもしれない。
いけないわ。どうしてわたしは、サリーを古くからの友人のように思ってしまうのかしら。彼女は今、藍猫さまのもとで働く神官さまなのだ。不信心この上ない。
わたしは両手を組み、懺悔の詞を口にしてから、再び本に目を向ける。
「"懲罰房"これ、そう読むのよね。何のことだろう。懲罰房……」
文字の感じからするに、悪いことをしたら入れられる場所、牢屋のようなものかしら。牢屋と言えば、近くに一つあるわね、お仕置き部屋が。
わたしはふと思い立ち、ランタンを片手に部屋の隅へと向かった。絨毯を無造作にまくり上げると、現れる木目の床。今まで一度しか開けられたことのない、お仕置き部屋への入口だ。
意識的に避けてきた場所だ。真っ暗で寒く、黴臭くて、二度と入りたくない恐ろしい所だった。
でも、灯りさえあれば、なんてことはなかった。先日の出来事で、ここへの恐怖をすっかり克服していた。
「『懲罰房に入るような不信心者でないと……』」
一単語が、掠れていて読めない。不信心者でないと、何なのだろう?
試しに、下へ降りてみることにした。サリーのいう懲罰房がここなら、何か隠されたものが見えてくるかもしれない。
コツリ、コツリ。狭い通路に足音が反響する。暗闇の中、石階段を踏み外さないよう慎重に下る。
あちらの大教会とは違い、松明には火が灯っていない。高い天井に一つ開いた窓だけが、薄明かりを差し込む光源だった。
鉄格子は開いている。当然だ、誰も入っていないのだから。壁には錆びた鉄の鍵がぶら下がっている。
「この鍵で、あちらの鉄格子を開けられたりするかしら……」
開けてどうするというのか。あの男の子を逃がして恩を売るつもり? もしかして彼、テオドアの居場所を知っていて、お礼に案内してくれたりするかしら。
そんな都合のいい話、あるわけない。わたしは首を横に振る。
ただ、あの男の子。石壁に刻まれた無数の傷が、今まで繰り返した……自傷の回数と言っていた。
さすがに鵜呑みにはできない。いくら白子といっても、わたしたちは不死身の体ではない。
幼いころから活発だったわたしは、転んで無数の傷を作った。一番の大怪我は、こっそり貴族区へ行こうとして崖を下ろうとしたときのこと。
あれは本当に痛かった。崖を転げ落ち、何度も木に体をぶつけ、傷だらけになった。医務院に運ばれるほどではなかったものの、木の破片が刺さった場所はジクジク痛み、二日ほどまともに眠れなかった。
だから断言できる。白子だからといって、首を吊っても死なないとか、苦しくないなどということはありえない。
彼が本当に首吊りを繰り返しているなら、いつか死ぬか、一生治らない傷を負う可能性もある。成功や失敗が何を意味するのかはわからないけど、とにかく彼は追い詰められているのだ。
「死にたいと願うほど、あそこに閉じ込められているのが嫌なのね……」
ランディスさまはどうしてそんなひどいことをなさるのだろう。テオドアの代わりをさせるため? テオドアは表舞台に出られなくなるほど重い病なの? それとも、すでにテオドアは……。
いけない。最悪の想像をしてしまった。わたしは頭を振る。藍猫さまから預かる白子に、そんなことがあったら、この国に災厄が降りかかる。そんなことは、あるはずがない。
とにかく、死にたいほどに嫌がっている人を無理やり閉じ込めるなんて、その人が罪人でない限りはしてはいけないことよ。
藍猫さまの教えに従う全ての善良な民は、心のまま自由に生きることが許されている。いいえ、許されているのではない。アピスの民は『心赴くままに生き、魂の全てを神の御前に曝け出さなければならない』。これは権利ではなく、義務だ。三の戒『天真』だ。
ラウドの書いわく、神民は誰も自由を奪われてはいけない。好きなことを好きなようにし、誰からも強制されてはいけない。不自由に生きることはすなわち、藍猫さまに"隠し事をしている"と評価されてしまうのだ。
天真の解釈に関しては他の戒との辻褄合わせが難しく、様々な議論が燃え盛っているのだけれど、とにかくこの件に関しては明らかに教えに反しているとしか言えない。
できたら解放してあげたい。わたしや姉さまに何もメリットがなかったとしても。
「次にあちらへ行く機会があれば、そうね、この鍵を持って行ってみましょう」
わたしはその鍵をポケットにねじ込んでから、ランタンを鉄格子のほうに翳した。
ぼんやりと浮かび上がる室内はわたしの記憶と違わず、冷たそうな石床と石壁に筵が敷かれた硬いベッドだけしか見えない。
わたしは開かれている鉄格子の扉から、そっと内部に足を踏み入れる。コツコツと靴を鳴らしながら、四隅を確認して回る。
「あれ?」
今何か見えなかった? わたしは床にランタンを翳す。うすぼんやりと浮かび上がる石床の一部が、淡い色をしていることに気が付いた。
わたしはサリーの本を見る。大きな四角の中心から少し上のあたりに、小さな四角。
もしかしてこれのこと? わたしはすぐさま、その右側にあるべき歪んだ丸を探す。
あった、これだ。次はその上の台形。あったわ。
この絵はやっぱり地図だったんだ。サリーの下手な絵は、床に敷き詰められた大きな石の形を示していたんだ。
このバツ印のところに宝があるの? わたしはドキドキしながら、バツ印のあたりを探る。
それはベッドの下だった。わたしはベッドを引きずり、現れた床を照らす。
一見何もない。そんなはずがないと、わたしは床を手でまさぐる。少しの違和感があった。ざらざらした石の表面が、一部だけツルツルしている。その部分を照らすと、微かに線が入っているのが見えた。
「なんだろう、これ」
つるつるした石で蓋をしているの? この部分、外れそうだけど、何のとっかかりもないので持ち上げることができない。
「もう。どうすればいいのよ、サリー……」
わたしは何かヒントがないか、サリーの本をくまなく眺めたけど、特に何も書かれていない。同様に部屋の中もくまなく調べたけど、何も怪しいものは見つからなかった。
わたしは諦めて、上に戻ることにした。そろそろ夕餉の時間だし、大広間に向かわないとまずいだろう。
「ねえ、ばあや。困っていることがあるのだけど、相談に乗ってくれないかしら」
「なんでしょう、カノン様」
湯浴びの時間に、わたしは何気なくばあやに尋ねた。
「部屋でね、うっかり手鏡を落としてしまって。床のくぼみにすっぽりとはまってしまったの。あんまりぴったりはまり込んだものだから、うまく持ち上げることができなくて。どうしたらいいかしら……」
わたしは懸命に、似たような状況を作り出し、身振り手振りで説明した。なんとか伝わったみたいで、ばあやは少し考えた後でこう答えた。
「吸盤という遊具をご存知でしょうか。そちらを試されてはいかがでしょうか」
「吸盤?」
「手鏡のような軽くてツルツルとしたものであれば、上手く持ち上がると思いますよ。どれ、昔ばあやが作ったものを持ってきましょうかね」
ばあやは着替えを手伝ってくれた後、丸く切り取られた革の中心に紐が結ばれた、奇妙な道具を手渡してくれた。
「使用する前に革を濡らして、手鏡にぴたりと密着させてください。わずかな空気も入れないように、ぴたりと密着させるのですよ」
「ありがとう、試してみるわ」
「しかし、同じような質問を昔、誰かから受けたことがあるような気が……はて、どなたでしたか……」
ばあやはそんなことをブツブツ言いながら、仕事場に戻っていった。
わたしは懲罰房に戻り、さっそくそれを試してみる。革を水でよく濡らし、ツルツルした表面にぴたりと付ける。そして紐を上に引くと……。
「わ、すごいわ。持ち上がりそう」
初めはすぐに取れてしまっていたけど、何度か繰り返すうちにどんどんと耐えられる時間が長くなり、ついに平べったい石を外すことができた。
胸を高鳴らせながら、くぼみに目をやる。中から現れたのは……なにこれ?
「水道管?」
手で握れるくらいの太さの、金属の管がそこにはあった。わたしはあまりにもがっかりして、ため息を吐いた。
なにこれ……水道でも引こうとしていたのかしら。確かに部屋に水道があったらすごく便利だわ。洗浄室に行かなくても顔が洗えるもの。
でも贅沢すぎやしないかしら。水道があるのはお金持ちの貴族の家の台所くらいのもので、洗浄室にだってまだ引かれてないのよ?
わたしはしばらくそれを眺めて、ふと気が付いた。この配管には三つの連結部がある。
「七・七・四……」
まさかね、と思いながら、わたしはその部分に手をやった。回せたりしないかと力を籠める。
カチリ。軽快な音を立てて、それは回った。
「え?! 嘘でしょう?」
もう一度回す。カチリと音が鳴る。まさか、これはカラクリ? 白子の部屋の入口の閂と同じようなもの? わたしは一番左を七回回し、同様に真ん中を七回、そして右を四回回した。そして配管を押したり引いたりする。ピクリとも動かない。
「そんなわけないか……」
わたしは肩を落としたけど、さらなる発見を目にする。真ん中の部品に、傷が入っている。
もしかしてと、左の部品をくるくる回すと、同様に傷が入っている面を見つけた。右も同様に、傷があった。
ここを基準にしなきゃいけないのかな。わたしはもう一度、左から七回、七回、四回回し、配管を押し引きしてみる。
「違うの……?」
絶対そうだと思ったのに。期待を打ち砕かれ、どっと疲労感が押し寄せた。しばらく座り込み、呆然と管を眺めていたけれど、当然何の変化も現れない。
そういえば、昨日はあまり眠れていないんだよなぁ……。疲労感と共にやってきた強い眠気に苛まされたわたしは、後ろ髪引かれながらも立ち上がる。
「明日また、明るいときに調べに来よう」
明日はラピス・ユニアンだから朝から忙しい。ちょっとだけ早く起きれば調べにこれるかな。日が落ちるまで葬儀巡りだから、本格的な調査は平日の放課後になるだろう。
まあ、急がなくてもこの部屋は逃げないし、ここには誰も来ないからゆっくり調べればいいよね。わたしがあくびをして、出口に向かって足を踏み出したとき。
「きゃっ!」
何かに躓き、思い切り転んだ。膝と肘、そして顎を打ち付け、目の前に火花が散る。
ランタンを投げ飛ばしてしまい、部屋は暗闇に閉ざされた。
いけない、早く再点火をしなければ。
わたしは手探りでランタンを見つけ、震える手で着火装置を操作する。
「落ち着いて……落ち着くのよ、カノン」
自分にそう言い聞かせ、何度か着火を試みた末、五回目でようやく火が灯った。
一体、何に躓いたのだろう。わたしは足元にランタンを翳す。
あれ? 何もない。床に這いつくばり、周囲に目を凝らす。何もないはずはない。そう信じてしばらく辺りをまさぐると、床の一部にわずかな段差があることに気が付いた。
「なんだろう、これ……」
床の模様だと思っていた歪んだ丸い石が、わずかに浮き上がっている。手をかけると、しっかりした窪みがあり、それを取っ掛かりに石を持ち上げられそうだ。
「重っ……」
先ほどのペラペラのものとは打って変わって、こちらの石はかなり重い。渾身の力でふんばって持ち上げると、中から現れたのは真っ暗な空洞だった。
「ただの穴……? どこかに繋がっているのかしら」
人が一人十分通れる大きさの穴で、耳を澄ますと水か風か、何かが流れる音が微かに聞こえる。ランタンで照らすと、ちょうど足がつくくらいの段があり、順に下りていけそうだ。
「…………」
わたしはごくりと喉を鳴らす。好奇心がジリジリと胸を焼いていた。
今すぐ下りてみたい——そんな欲望に駆られたけど、頭の端には冷静なわたしもいた。
(明日はラピス・ユニアンよ! あなた、早く眠らないで大丈夫なの? ちゃんと起きられるの?)
(でも、カノン。この穴のことを放っておいて眠れる?)
(どこへ繋がっているか分からないわ。もしかしたら遭難してしまうかも。何の用意もなく行っては危険よ)
(そうね。もしもの時のために食料や道具が必要ね。ククルに頼んで手配してもらいましょう)
(決まりね。今晩はとりあえず寝ましょう。明日のために)
(そうしましょう)
脳内会議の結果、わたしは部屋に帰ることにした。穴はそのまま放置し、懲罰房への入口を厳重に封鎖する。万が一、主教さまに見られたら大変だから。
ベッドに横になり、今後の調査に必要なものをリストアップする。
「ロープと、ナイフと、杭と槌。ランタンの予備も必要ね。燃料も多めに用意しておかないと」
自分で用意できないものは、ククルや他の侍女に分散して頼むことにした。怪しまれるとまずいからだ。
計画を立て終えると、ようやく安心して睡魔に身を任せることができた。
翌日は祝日で、日中はいつものように粛々と義務をこなす。夜は終業前の侍女を捕まえて、必要物品を頼む。
平日の授業中は上の空で過ごし、放課後には侍女たちに手に入れてもらった物品を回収し、かばんにぎゅうぎゅうに詰め込む。
調査の決行は、今夜に決めた。まとまった時間が取れるのは、夕餉と湯浴びが終わった後しかない。
今日の修道院では始終ソワソワして、他のことに気を回す余裕はなかった。
姉さまが修道院をお休みしていたにもかかわらず、心配の一声すら上げなかった。
先週までは毎日のように二人で話していたのに、あまりの変わりように、アイリスたちの目には奇妙に映ったことだろう。
だけど、このときのわたしは、自分を客観的に見ることすらできなかったのである。




