第三章(3)
「お邪魔します、テオドアさん――」
わたしは声を上げた。そこに居るはずの彼に向かって。
「突然すみません。カノンです。禾穂の白子の……。えっと、あのー、テオドアさん?」
わたしは広い部屋を見渡した。わたしの部屋と同じで、殺風景な石壁と石床。年季物の家具や絨毯が広がり、ゴミだかなんだかよくわからない物品が至る所に山積みになっている。
わたしはテオドアの姿を探しながら、部屋に踏み込んだ。間仕切りの裏、机の影、ゴミ山の後ろ、いろんな場所を覗いたけど、目的の人物の姿はない。
「あれ? ……あれ?」
わたしは首をひねり、しばらく考え、ハッと気がついた。そうか、彼は病気なのだから、ここじゃなくて医務院のベッドにいるのかもしれないのか。
馬鹿、わたしの馬鹿。なんでその可能性を思いつかなかったの? わたしはポカポカと自分の頭をたたき、その場に座り込む。
苦労してここまで来たのに。ここから向こうに帰るのも一苦労なのに。何の成果もなく帰ったら、姉さまがどんなに落胆するか。
医務院は貴族区の真ん中にある。アリアト派とアルベルト派がどちらもお世話になれるように、両区画の境に建っている。貴族以上の身分の人は、自宅療養で対処できない病なら医務院で診てもらうのが普通だ。
わたしは大病になったことがないので、白子も医務院に掛かれるのかはよくわからないけど、藍猫さまからお預かりしている大切な神子を平民の診療所に送るわけはない。この部屋で療養していないのなら、テオドアは医務院にいると考えるのが妥当だろう。
絶望して、窓の外の空を仰ぐ。ああ、日が少し傾いてきた。日没がわたしの門限だ。それまでに聖堂の奥に入っていないと、ばあやから大目玉を食らってしまう。
仕方がない、帰ろう。諦めて、わたしが重い腰を上げたとき。
ガッシャ――――ン。どこか遠くで、鋭い金属音が鳴るのが聞こえた。
「? なにかしら」
初めは外からかと思った。格子のはまった窓から外を覗いたけど、見えたのは豆粒のような人々の姿だけ。
しかし、どうして窓に格子がはまっているのだろう。わたしの部屋の窓にはこんなものは付いていない。わたしは首をひねりつつも先程の音の発生源探しに戻る。
外じゃない。もっと近くからだったわ。再び周りを見渡したわたしは、ふと部屋の隅の絨毯が不自然に捲れているのに気が付いた。
そういえば――。わたしの脳裏にとある光景が浮かび上がる。
昔、わたしが白子であるとの宣告を受けたばかりの頃。大好きなお母さまに会わせてくれない主教さまに、わたしは泣きわめいて不満をぶつけた。まだ幼かったわたしは愚かにも、『藍猫さまとか、ラウドさまとか、しらない! こんなのいらないもん!』そう言って、主教さまからいただいたラウドの書の写本を床にたたきつけた。当たり前だけど、烈火のごとくお怒りになった主教さまはわたしの腕を引っ張り、部屋の隅に連れて行き――。
「開いている……」
わたしが絨毯を捲ると、そこだけ不自然に被さっていた床板が少し浮き上がっているのが見えた。
重い床板を持ち上げる。ぽっかりと空いた空洞と、荒っぽい石造りの階段が現れる。
「まさか、この中にいるの?」
わたしは混乱した。だってここは、お仕置き部屋。真っ暗で冷たくて黴臭くて、何にもない怖い部屋。
わたしは部屋の入口に戻り、ランタンを手に取る。燃料はわずかしかなかったけど、着火装置をいじるとぼんやりと明かりが灯った。
せっかくここまで来たんだから、隅々まで調べておかないと。わたしはゴクリとつばを飲み込み、真っ暗な階段に足を踏み入れる。
採光窓がない真っ暗な空間。手すりもなく、不揃いな高さの石段は、油断をすればすぐに足を踏み外してしまう。入口の階段と比べて狭く、両肩にひんやりした石壁の存在を感じ取れる。
怖くなーい、怖くない。わたしは震えそうになる膝を宥めるために、そう小さく唱えながら足を進めた。
こんなところにいるわけがない。テオドアはきっと医務院の温かいベッドの中よ。そう思っていたものの、わたしは引き返そうとはしなかった。
何もなければそれでいい。帰ってご飯を食べよう。今日はとても疲れたから、きっといつもより美味しく食べられるはず。緩くカーブする階段に右手を添えて、慎重に下り続けてどのくらい時間がたったか。わたしの視界に突然、明るいものが飛び込んできた。
階下の壁にある松明が灯っていた。やっぱり誰か居る? わたしは身を固くして耳を澄ませた。特にこちらに近づいてくるような足音はない。大丈夫、たぶん大丈夫。勇気を振り絞り、階下に降り立つわたし。
明かりが灯っていたのは、階下の石壁と、その先の鉄格子の両脇。鉄格子のはめられたその小部屋、通称『お仕置き部屋』には高い位置に一つだけ採光窓がついていて、わずかに差し込む光でなんとか中が見渡せた。
わたしは壁に身を隠しながら、鉄格子の奥に目を凝らす。そこはお仕置きのための部屋だから、本当に何にもない、具体的に言うとむき出しの石床と石壁に、布団のない硬いベッドが置いてあるだけのはずだ。
でも。
「……あれ?」
なんだかそこは、わたしの記憶のものと様相が異なっていた。
まず目に入ったのが鉄格子のそばに転がる木の椅子。もしかしてさっきの音は、これが鉄格子にぶつかった音だったのかしら。そして硬い石畳には柔らかそうな絨毯が敷いてあり、その上に本や衣類などが散らばっている。
「???」
物があることに疑問を抱いたわたしだけど、そんなのは些細なことだった。その部屋は見れば見るほど異様なものだった。
ズタズタに裂かれた布団が床に投げ出されていて、中から羽毛が飛び出している。ベッドがなぜだか縦の状態で置かれ、その上に机が乗っかって、もう少しで採光窓に届きそうなほどの高さになっている。そして一番わたしの目を引いたのが、採光窓の鉄格子から垂れ下がった布切れ。それはいくつも結び目を作りながら長々と垂れ下がり、先端が輪っかのようになっている。
なんだろう、あれ。そう首をひねったとき、視界の端で何かが動いた。わたしは思わず石壁に身を隠したけど、すぐに頭を出して観察を再開する。
人だわ。誰かがここに住んでいる。わたしはその影に焦点を合わせた。その影はゆっくりとした動きで鉄格子の脇に転がる椅子を起こす。そしてそれを引きずってベッドのわきに置いた。
何をする気だろう。わたしは嫌な予感がした。良く見えないので壁から身を出した。目を凝らすわたしの前で、その影はゆっくりと椅子に上り、垂れ下がった輪っかに手をかけて――。
「だ、だめ――――っ!!」
わたしは駆け出した。わたしが鉄格子にとりつくのと、彼が椅子を蹴ってぶら下がるのはほぼ同時だった。
「だ、誰か――――っ!!」
わたしは慌てふためき、叫んだ。叫んでも誰にも聞こえないのだけど、叫ぶことしか頭になかった。ガシャガシャと鉄格子を揺らしたけど、それは派手な音を立てるばかりで一向に開きそうにない。
「テオドアさん! テオドアさん! どうしてそんなこと……テオドアさんーー」
ぶらぶらと揺れる足。採光窓から差し込む光で、その人物の髪が銀色にきらめいた。
ギシギシと軋む布の音が耳に痛い。どうすればいいんだろう。わたしにできること、何かないのかーー。
鉄格子のあちこちをガシャガシャと引っ張る。開かない。こんな錆びまくった鉄格子、どこか脆いところがあるんじゃないの?
わたしは思い切り体当たりする。借り物の服に錆が付いたけど、気にしている時じゃない。人の命がかかっているのだもの。わたしが助けなきゃ、彼は死んでしまう。
数回体当たりをしたあたりで、どさりと何かが落ちる音がした。見ると、布がちぎれてテオドアが床に落ちている。良かった、まだ息があるかもしれない。
「テオドアさん、待ってて! 人を呼んでくるわ」
わたしがそう叫び、ランタンを手に階段を駆け上がろうとしたとき。
「やめろ」
低い声が、響いた。続いてゲホゲホと激しく咳き込む音。
「だ、大丈夫ですか?」
鉄格子に駆け戻るわたし。テオドアは起き上がって、首に巻き付いた布切れを取ろうと自棄になっていた。
「うるさい。とにかく人は呼ぶな」
「で、でも……」
「うるさいって言ってるだろ」
彼は掠れた声でそう言い放つと、傍にあった何かを手に取る。それは水時計のようだった。
「五分も持ってねぇじゃねえか! クソッ!」
彼はそれを壁に投げつけ、鈍い音をたててガラスが割れた。ガラス片と水が絨毯にぶちまけられる。
なにやらぶつぶつ言いながら、這うようにして彼は壁際に向かった。そして壁に向かって何事かやっている。
「何を、しているんですか」
わたしはギョッとした。そこには無数の傷が刻まれていた。いや、そこだけじゃない、部屋全体の壁のあちこちに大小様々な縦線が刻まれている。その数、軽く数百はあるだろう。
「数を数えてる」
「な、何の……?」
「失敗した回数」
「何を……」
わたしは聞きかけて口を塞いだ。今の状況的に何を失敗したかなんて考えなくてもわかる。
「こんなにたくさん……その、失敗しちゃったんですか」
「違う。そっちは成功した数」
「えっ」
彼が指し示す方を見ると、掌くらいの長めの線の横に、小指くらいの短い線が数本刻まれている区画があった。
わけがわからない。成功したとは一体どういう意味なのか。
「あの……失敗とか成功とか、どういうことなんでしょう。意味がわからないのですが」
「成功率が高いのはトビオリだ。クビツリとクビキリはイマイチなんだよな」
「トビオリって……」
わたしはハッとした。上の部屋の窓に付いていた格子。いかにも慌てて付けましたと言わんばかりに雑な、板を釘で打ち付けたものだったけど、もしかしてあれは……。
「トビオリは目立つからやめろと言われて困ってる」
「目立つって、そりゃそうでしょう……」
なにこの奇天烈な会話。というか、誰? この人。話に付き合っているうちに、わたしは気が付いてしまった。この部屋に住むこの人物が、テオドアとは似ても似つかない少年であることに。
「あなたは誰ですか? テオドアさんは?」
「知らない。誰だそれ」
「この上の部屋に住んでいるはずの白子ですよ」
薄暗い中、わたしは目を凝らして彼の姿を見た。年の頃はわたしたちと同じくらいか、少し上。品のある美少年のテオドアと違い、精悍な顔つきをしている。
「この間の正礼拝にいたのはあなたですね」
顔は隠されていたけど、その目、鋭い黒い瞳が、あの時見たものと同じだったから分かった。テオドアの瞳は紫で、くりくりとした大きな目であることはわたしでも知っていたから、あの時強烈な違和感を覚えたのだった。
「あなた、声が出せないって……あ、そうか、声を出したら別人だとばれるから……、あ、そうだ! 手紙、姉さまの手紙は?」
「うるさいな、お前……」
「手紙はどうしました? わたしがあの時ポケットにねじ込んだものです」
彼はさも面倒くさそうに顔をゆがめながら、部屋のある点を指さした。その方向を目で追うと、本や衣類がぶちまけられているあたりに、見覚えのある桃色のものが見えた。
「あ、あの、中身、読んじゃいました? あなた宛てではなかったんですけど」
わたしは赤面しながら尋ねた。姉さまのプライバシーに関わる重要なことだ。わたしも中を読まないように何度も何度も注意されたくらいだ、中にはテオドアにしか見せられない何かが書いてあるのだろう。
「俺は字が読めないから読んでない」
「あ、そうなんですか……」
ほっとしつつも、その言葉に引っかかる。字が読めない? 文字の読み書きは貴族にとっては嗜みだけど、一般市民はほんの一握りの人しかできないのだと聞いた覚えがある。
でも、この人は白子だ。暗いながらもキラリと輝くその銀髪、それだけはテオドアと同じだった。
白子は八戒を重んじて生活しなければならない。藍猫さまはなによりも学業を重んじられる。学業にも色々あるけど、全ての始まりは文字の読み書きだ。平民の学校ですら、まずは読み書きを教えるはずである。普通に考えたら、白子が読み書きを出来ないはずがない。普通に考えたら……。
というか、すでに普通じゃない状況だ。そもそもわたしたち以外に白子がいたの? 白子は一周期十八年に二人、男女一人ずつしか生まれないはず。アピスにはテオドアがいるのだから、アルベルト派閥に他の男の子が生まれるはずがないんだけど……。
ランディスさまはご存知のはずよね? オズワルドさまは? 国王陛下は? みんなご存知のことなの? どういうことなの……。
疑問がどんどん湧き上がって、頭の中でぐるぐる回る。
そんな中、わたしは大変なことに気が付いた。窓から差し込む光がほんのりと赤い。
「あ、あ―――! 大変、わたしもう帰らないと!」
迷惑そうにこちらを見る彼に、わたしは早口でまくし立てる。
「えっと、わたしがここに来たことは誰にも言わないで! あと、手紙は隠してください! もしテオドアさんに会ったら渡して! 首なんて吊っちゃ駄目です、飛び降りるのもやめてください。事情はわかりませんが、命は大切にしてください。機会があればまたお話しましょう。では!」
彼の答えを聞くこともせず、わたしはランタン片手に階段を駆け上がった。
もう、全力疾走。誰に見つかろうと、走り去ってしまえばいいのよ! わたしは、開き直って来た道を駆け戻る。幸いにも、わたしは自分の体力と足の速さに自信があった。
「カノンさま~遅いですよ! 聖堂が閉まっちゃいます」
「ご、ごめんククル。待っていてくれたの?」
「心配で待っていたんです。ほら、早く着替えてください!」
彼女の助けでなんとか門限に間に合ったわたしは、なにやらばあやが叫ぶ声を背中に受けながら、自分の部屋に駆け戻って一息ついた。
ベッドに寝ころび、こんがらがった頭を整理する。
羊角の大教会にテオドアはいなかった。居たのは似ても似つかない、同じ年頃の男の子。しかも彼は部屋ではなく、隠されたお仕置き部屋にいた。
でも別に、彼はお仕置きされているわけではないようだった。お仕置き部屋には物があふれていて、彼が過ごしやすいように配慮されているのを感じたからだ。……本人が過ごしやすいと思っているかはさておき。
テオドアはどこへ行ったの? 彼はテオドアのことを知らないと言った。正礼拝に来たのは彼だった。多分声が出せないと言っていた冬季の正礼拝から別人だった。
姉さまがテオドアから返信が来なくなったのは十一月頭にある収穫祭の後頃だと言っていたし、入れ替わったのはそのあたりからだろう。
どうして入れ替わる必要があったの? テオドアはどこに隠されたの? 白子がいなくなるなんて前代未聞の大事件だ。白子は藍猫さまからの預かり子、いずれは母親の元に返さなくてはならない。我が子が別人にすり替えられたなんて知ったら藍猫さまはどうお思いになるか。
ランディスさまはこのことをご存知なの? ……当然知っているだろう。ほとんどテオドアと接したことのないわたしですら別人だとわかる。ずっとお世話をしてきた彼にわからないはずがない。
というか、正礼拝に来ていた全員が、何かがおかしいことに気付いていたはずだ。なのに誰も何も指摘しなかったのは何故? オズワルドさまもため息をつくだけで、何事もなく儀式を進めていた。どうして? 何故騒ぎにならないの?
いつまで考えても、何も答えは出てこない。わたしは一旦そのことを考えるのはやめて、違う問題について頭を悩ませることにした。
「姉さまに、どう説明しよう……」
差し当たりの問題はこれだ。姉さまには明日の放課後に話をすることになっている。
テオドアがいないなんて話をしたら、姉さま、どんな反応をするかしら。おかしくなっちゃうんじゃないかしら。いえ、わたしの頭がおかしいと思われちゃうかしら。
うんうん考えているうちに時間が過ぎ、わたしはついうっかり、晩餐とお清めの湯浴びをすっぽかして眠りについてしまった。
翌朝ばあやにおぞましい剣幕で怒られてしまったのは言うまでもない。
でもわたしはそれどころではなくて、ばあやの怒鳴り声は右から左に抜けて消えていった。
どうしよう。姉さまになんて言おう……。