第二十章(2)
次の日の朝、ティカさんは台所を借りたいと言い出した。
「それと、肉屋で買い物をしたいんだが。この町はウサギの肉を置いているかい?」
ウサギの肉? わたしは首を捻りつつもリンさんに尋ねた。リンさんも食事をほとんど摂らないので知らないようだったけど、すぐに他の人に聞いてきてくれた。
「売っているようですよ。商店街に行ってください。肉屋は隅の方にあるはずで……。あ、台所はちょっとハクテイにはありませんので、カノンさんの住居まで行っていただかないといけないかもしれません」
「わかりました。ありがとうございます」
ティカさんと肉屋を探し、ウサギのもも肉を一本仕入れる。久しぶりに家に帰り、小さなキッチンに彼女を案内した。
「他に必要なものはありますか?」
「水と石窯があればいい。他は全部持ってきたから」
ティカさんは、床にずだ袋の中身を広げる。コロコロと転がる芋を気にも留めず、布に包んだ包丁やまな板、調味料などを抱えて炊事場に降りた。
小麦粉を水で練り、伸ばし、ウサギの肉と潰した芋とスパイスを炒め合わせたフィリングを包み、石窯で焼く。彼女が手際よく作り上げたのはミートパイだった。
香ばしいかおりが漂い、数ヶ月前に侍女のブレンダがご馳走してくれたウサギのミートパイを思い出す。
焼きたてのそれをずだ袋に入れて、わたしたちはルカさんの元へと戻った。
「それはルカさんの好物なんですか?」
「そうだ。毎年誕生日に焼いてやっていた」
まだ温かいパイをルカさんの枕元に置く。穏やかな顔つきになっていたけど、彼は未だに目を覚まさない。
段々と弱くなる香りを残念に思いながら、わたしたちはルカさんをじっと眺め続けた。
「この子、急に食べなくなったんだ。十二歳の誕生日にさ」
「え……そうなんですか?」
「ウサギの捌きかたを教えたのがきっかけだろう。その頃は色々と手伝いをしてくれるようになっててね、ウサギの世話を全部任せていたのが良くなかったのかもしれない。情が移ってしまったみたいでさ」
それは悪魔が乗り移り、どんどん食が細くなっていた頃でもあった。ルカさんはミートパイを食べるのを拒否し、ティカさんを非道だと責め立てた。
「掴み合いの喧嘩になったね。まだ力負けはしなかったけど、落ち着かせるのは骨が折れた。ずいぶんと怒っていてね」
「結局ルカさんはパイを食べたんですか?」
「いいや。食べなかった。あの時は食べなかった……」
お皿の上のミートパイは、すっかり冷めてしまっていた。肉汁が滲みベトベトになってしまった見た目は、お世辞にも美味しそうだと言えない。
「数日後にミートパイは捨てたんだ。もう腐ってしまっていたからね」
「そうなんですか……」
今、枕元にあるパイもそうなってしまうような気がした。
わたしはふと思い出す。ブレンダのミートパイをルカさんが美味しいと言って食べたことを。それを伝えた方が良いかもしれないと口を開きかけたけど、その前にティカさんが話を始めた。
「次の年からはまた食べるようになったんだ。他のものは食べられなくなっていたけど、ミートパイは食べてくれた」
「えっ、どうしてですか?」
「反省したんだろうよ。パイを捨てるときに私が随分と恨み言を言ったからね」
「恨み言?」
ティカさんはフフと笑う。ルカさんの前髪を優しく撫でながら、懐かしそうに話してくれた。
「お前が食べてくれないから、私は無駄にウサギを殺してしまった。お前は私ひとりに地獄に落ちろと言うんだね。私はお前の喜ぶ顔が見たかっただけなのにさって」
「…………」
「お前はウサギと一緒に天国へ行けばいいさとも言ったかな。恨み言はこの子に随分効いたみたいだね」
天国と地獄というのは、異教の死生観だとマグノリアが教えてくれた。藍猫の教えが届いていない地方の人たちは、死後には天国と地獄という二種類の場所に行き着くと考えている人もいるらしい。
死後には何もないと考える人もいるし、神さまの教えが届かない人たちは、わたしたちよりも自由な発想で死後の世界を捉えているようだ。
「ルカさんがミートパイを食べるのは、ティカさんひとりを地獄に行かせないためですか?」
「きっとそうなんだろう。この子は優しい子だからね……」
ブレンダのミートパイを食べたのも同じ理由だろうか。わたしたちに優しくしてくれたブレンダに、無益の殺生の罪を負わせないように。そのせいでルカさんは眠たくなってしまったけど、それをわかっていながら、ルカさんはミートパイを食べた。それがルカさんという人なのだ。
わたしは強く思った。戻ってきてほしい。優しいルカさんに、また戻ってきてほしい。ルカさんが優しいルカさんでいてくれるなら、わたしは何でもする。だからもう一度、わたしたちの前で笑顔を見せてほしい……。
願いも空しく、ミートパイは古くなっていった。見るからに乾燥して硬そうで、全然美味しくなさそうだった。
ティカさんは付け合わせの芋だけを食べて、ミートパイはそのままにしていた。食べるかい? とわたしに聞いてくれたけど、丁重にお断りをした。もったいないけど、やっぱり美味しくなさそうだったから。
数日経ってカチカチになったパイを、ティカさんは手に取った。捨てるつもりなのだろう。もう誰も食べたくないくらいに縮んでしまっているから仕方ない。
「もう一度焼いてこようかね。またウサギの肉を買ってもらってもいいかい?」
良いですよと言おうと思ったその時、信じられないことが起こる。
お皿を持つティカさんの腕を、ルカさんの腕が掴んだのだ。
「!」
白目勝ちな目をいっぱいに開いて、ティカさんは彼を見る。
ゆっくりと、確かに、ルカさんは口元を動かした。がさがさになった唇を動かして、掠れた声でこう言った。
「作るなよ。そんなもの……作るなって言っただろ……」
ティカさんは震えていた。震える両手で彼の手のひらを包み込み、枕元に倒れ込むほどに顔を近付けて答えた。
「お前が食べないからだよ。お前が美味しいと言って食べるまで、私は何度だってウサギを殺してやる……」
ルカさんはゆっくりと目を開ける。ティカさんと同じ、ギラギラとした赤い瞳が目蓋から覗いた。
「仕方ねぇな。食うよ。全く、世話が焼ける……」
「それはお前の方だろ……」
声を上げて泣くティカさんの後ろで、わたしはその様子をぼんやりと見ていた。
それは奇跡のような光景だった。ルカさんが目を覚まして、ティカさんの頭を撫でている。
わたしも泣いていた。いつの間にか両目から滝のように涙が溢れていた。
ルカさんは古くなったミートパイをゆっくりと食べて、美味しいと言って笑った。
弱々しい笑顔だったけど、確かにそれは笑顔だった。
ティカさんはずっと泣いていて、話をすることもできなかった。ルカさんはパイを全て食べてしまってから、再びストンと意識を失ってしまう。
でもわたしにはわかった。もうルカさんは大丈夫だって。彼は食事を摂って眠たくなってしまっただけなんだって。
「良かったね。カノン」
泣き疲れたティカさんも眠ってしまって、嘘のように静かになった部屋の中で、ノギスの声が響いた。
「はい。本当に良かったです……ありがとうございます、ノギス」
彼女は少しだけ目を細めて笑顔を作る。これがノギスの精一杯の笑顔なんだろうと思った。
「きっともう大丈夫ね。ルカの中の彼は救われたわ」
「そう……なんですか?」
頷くノギス。聖母のように優しい表情を浮かべて、彼女はこう言った。
「彼は違う人生を歩むでしょう。復讐なんて無益なことは忘れてしまって、新しい幸せを見つけるでしょう」
それでいいの、とノギスは小さく呟いた。
今更ながらわたしは思う。ノギスは一体何者なんだろう。チャフさんに恩があると言っていた。チャフさんを救いたいと言って、わたしたちを助けてくれた。
でも彼女が救ったのはルカさんであって、チャフさんではない。チャフさんに会いたいのだったら、ルカさんを救わない方が良かったんじゃないの? と気が付いてしまう。ルカさんが戻ってくることによって、彼女はチャフさんに会えなくなってしまったと言えないかしら。
「ねぇ、ノギス」
「何?」
「あなたと悪意はどういう関係なんですか?」
「…………」
ノギスは答えない。わたしは予てより持っていた疑問をぶつける決意をした。
「ノギス。あなたはわたしをディールに送るときに何か術を使いましたね。あの術は何なのでしょう」
「…………」
「あの術を使うと、このような痕跡が残るのですか? この模様はあなたが術を使ったからできたのですか?」
「模様?」
ノギスはとぼけた声を上げる。その様子は、まるでわたしの言葉に虚を衝かれたかのようだった。
「模様ですよ。床のこの模様です」
わたしは足元を指差す。そこには無数の楕円が放射状に広がった、花のような模様がある。ノギスが指を踊らせたあとに浮かび上がった模様が、今でもくっきりと地面に刻まれていた。
「模様……? 何を言っているの?」
「あなたこそ、何を言っているんですか……」
わたしはそう言いながら、ふと思い出す。前にもこんなことがなかったかしら。地面に広がった謎の模様。見えないとぼやく人物……。前にもこんなことがなかったかしら?
ノギスは首を傾げていたけど、わたしが思考を巡らせている間に興味を失ってしまったらしい。
じゃあ、元気でね。そう言い残して、彼女は消えてしまった。
おそらくもう二度と会うことはないだろう。そんな気がした。
わたしの頭の中は、ノギスとの別れによる寂しさなんて微塵もなくて、ただひたすらに奇妙な模様がぐるぐる回っていた。
あの模様は、わたしの背中にもあった。ルカさんの鎖骨の辺りに見えたのも、きっとあの模様だ。
あれは、ノギスのような不思議な人たちによる、不思議な術をかけられた刻印なのかしら。
わたしはいつ、誰に術をかけられてしまったのだろう……。