第二十章(4)
アピスヘイルへ旅立つ前。
わたしはファイさんから、神樹の実を多めに食べておくよう勧められた。
「もうご存知とは思いますが、司彩は楔樹からのエネルギーで彩謌を撃てます。しかし、それはあまり望ましくありません」
楔樹から流れるエネルギーには、それぞれの司彩に固有の色がある。
藍猫の樹は青、橙戌の樹は橙――。
楔樹に近いほど、扱える量は増える。
軽い傷を治したり、若さを保つ程度なら、世界のどこにいても自然に流れ込むらしい。
「仕都は楔樹に比較的近い土地です。他より多くのエネルギーが届きます。影響を受けぬよう、先に神樹のエネルギーで“満たしておく”方が良いでしょう」
神樹のエネルギーは白。
すべての色を均等に含む力だ。
司彩に呑まれないためには、継続的に摂取し続ける必要がある。
「人の身体は食べたもので形作られます。“何を糧に生きるか”を、常に意識してください。――特にあなた方は」
わたしは頭を下げた。
「わかりました。ありがとうございます」
船上の風に吹かれながら、神樹の実にかぶりつく。
相変わらず美味しくはない。けれど最初ほどの抵抗はもうなかった。
楔樹の話を聞いて、わたしは少し考え込む。
そろそろ真面目に、付き合い方を考えた方がいいのかしら。
普通の司彩は、仕都や司彩の都に居座る。
彼らは楔樹の近くにいれば、ほぼ無敵でいられるからだ。
逆に司彩に支配されたくない虎白さまやスイさんは、楔樹からできるだけ離れ、神樹に身を寄せている。彼らは力を維持するために、神樹の実を食べ続けないといけない。
どうやら司彩には、その二つしか選択肢が存在しないらしい。
どちらかを決めないと、これからもたくさんの人に迷惑をかけてしまう。
川を下り、段々とアピスに近付いている。雨が降り始め、船の揺れが激しくなってきた。
――マグノリア。どうしてアピスの天候は荒れているの?
わたしはふと浮かんだ疑問を、頭の中の彼女に投げかける。
――今の藍猫はあなたなんだから、あなたが雨を降らせているの?
『違うわよ。わたしはなにもしていない。アピスヘイルの辺りは、元々雨が降りやすい土地なの』
一年の半分くらいは、雨が降るのが普通なのよ。
そう言われてわたしは驚いた。
え? そんなはずない。アピスの雨季はひと月だけよ。――衰退の節に入るまでは。
マグノリアは短いため息を吐いてこう言った。
『仕都というのは、元々そういうものなの。楔樹の影響で、極端な環境を持つものなのよ』
水を司る、藍の都の周りは水が集まりやすい。
土を司る、橙の都の周りは土が震えやすい。
『それじゃあ人が住みにくいでしょ? だから彩謌で気候をねじ曲げていたの。今まで塞き止めていたものが、一気に溢れてしまっているわけね』
――元に戻ろうとしているだけよ、アピスヘイルもハルムヘイルも。
マグノリアは冷たくそう言った。
戻ろうとしているだけ……。
それは要するに、再び彩謌で塞き止めないと、わたしが知る姿には戻らないということ?
エリファレットさまがしていたことをし続けないと、アピスヘイルに平穏は訪れない。
救援に向かったところでわたしたちは、大したことはできないのかもしれない。
「我々の最終的な目的は、住人を隣街へ移すことだ。もちろん希望者がいれば別の土地に送っても良いし、ハクトに居住地をあてがっても良い」
わたしが虎白さまに疑問をぶつけてみると、さも当然のようにこんな回答が返ってきた。
「アピスヘイルは元には戻らん。もっと住み良い土地を開拓したほうが良い。ランディスともそういう話でまとまっている」
「ランディスさまは真実を知っていらっしゃるんですか? その、わたしが……」
「お前が藍猫であることは言っていない。言えば奴はお前にひれ伏して頼み込むぞ。アピスヘイルを管理してくれと」
わたしは尻込みしてしまった。
そんな自分に嫌気が差す。わたしは結局、アピスヘイルを救いたいと言いながら、何の覚悟もしていない。
「クラウディアヘイルはともかく、イグニアヘイルは同じようなものだ。管理するのをやめれば、灼熱の地になり人は暮らせん。行く行くは民を移住させることになりそうだ」
虎白さまはゆるゆると首を振って、ため息混じりに言った。
「神の力なんぞで、無理矢理にねじ曲げるのがいかんのだ。ハクトも難儀な土地だったが、コツコツと人の力で変えていった」
甘い言葉で、現実から目を背けてはいけない。
虎白さまは、強い口調で語る。
「今までのツケを清算するときが来ただけだ、アピスヘイルは」
――『元に戻ろうとしているだけよ』。
先ほど聞いた、マグノリアの言葉が重なった。
きっとそれは正しいんだと思う。
藍猫の力でアピスヘイルを助けても、問題を先送りにするだけだということはわかる。
だけどわたしは、二人ほど冷徹になれそうもない。
わたしはアピスヘイルが好きだった。
四季や雨季、季節と共に移り変わる街並みが好きだった。
歌や絵画、古くから伝わる物語が好きだった。
一番好きだったのは行事だ。毎週のお葬式や年四回の正礼拝はうんざりしてしまっていたけど、朝の礼拝と季節のお祭りは好きだった。
特に、エリスフェスタは……思い出がいっぱいの行事だ。
わたしは胸元をギュッと握りしめる。
そこにはパルフィートと、スイさんからもらった首飾りがぶら下がっていた。
わたしが責任を放棄し、虎白さまのもとでぬくぬくと暮らすことを選択したら、わたしは二度とエリスフェスタに参加することができなくなる。
大切な誰かと、キャンドルの終わりを見ることが永遠にできなくなる。
キィン、と石の砕ける音。
もう三度目になるかしら、虎白さまが『陽光』の音を出している。
虎白さまは司彩になってから、ダェグの基準律にまつわる彩謌を石でしか出さなくなった。
もしかしたら司彩になると、自分の喉から出せる音が限られてしまうのかもしれない。
兎緋が文句を言っていたものね。金鳳には『縮地』は使えないはずだと。
『縮地』は橙戌の和音だから、金鳳には使えない。
『陽光』は天気を晴れにする彩謌なのだけど、ダェグの基準律だから、使える司彩はいない。ダェグの基準律というのは、司彩に割り当てられていない不思議な音なのだ。
「だったら藍猫は、どうやって天候を操作していたのかしら。雨を降らすことしかできないのに」
何気なくぼやくと、マグノリアから回答が返ってきた。
『藍猫は水を移動させる彩謌を得意とするわ。雨が降りそうになれば、雨雲ごとどこかにやってしまうのよ』
アピスの代わりに、遠い異国に雨害をもたらす。
それが司彩の力の本質。
神さまの奇跡の真実。
『わたしは神さまにはなれない。わたしのせいで不幸になる人がいるなんて、考えたくもないわ』
わたしはなにもしたくないの。人を幸福にも、不幸にもしたくない。
苦しげに語る彼女に、わたしは静かに頷いた。
――わかるわ、マグノリア。
だけど、わたしは……。
大切な人を幸せにしたい。
そのために知らない誰かが不幸になったとしても……それでも幸せにしたい。
『わからなくもないわ。だけどね、カノン。あなたはちっぽけな存在なのよ。
あなた自身を幸福にすることすらできていない、ちっぽけな存在』
あなた自身の幸福を考えて欲しいの。他人じゃなく、あなた自身の。
あなたを幸福にできるのは、あなただけ。
彼女の思念に、わたしは答える。
――わかっているわマグノリア。
でもわたしは、わたしにできることをしたいのよ。だから……。
言いかけて、彼女から意識をそらした。
目の前に、懐かしい景色が見えてきたからだ。
アピスヘイル。上流から眺めるのは初めてだけど、すぐにわかった。
『陽光』によって分厚い雲の隙間から照らされたわたしの故郷。
シンボルである二本の長塔は、中腹でポキリと折れてしまっている。貴族区と市民区を隔てる外城壁もボロボロになっていて、土砂を住宅街に撒き散らしていた。
「ああ、なんてことだ……」
いつの間にか甲板に出てきていたランディスさまが絶望の声をあげる。
オルドさまも、他のアルベルト派の従者たちも、みんな手を合わせて祈っていた。
「藍猫様、どうしてこのような惨いことを……」
「お許しください。我々をお許しください……」
わたしは早くも、後悔に身を焼かれていた。
想像と現実は、こんなにも違うものなの?
船が『旅立ちの岸』に近付くにつれ、恐怖で足がすくむのを感じた。
その足のすくみは、想像を絶するものだった。
わたしはここに来るべきではなかったのかもしれない。
真実を知るべきではなかったのかもしれない。
ハクトに籠って故郷の夢を見続けていれば、こんな絶望に襲われることはなかったのに。
――わたしはどうして、いつも余計なことをしてしまうのかしら。
アピスヘイルを取り巻く痛みは、わたしに抱えきれるはずもないものだと……今更になってわたしは理解した。




