怨嗟の坩堝 破滅への序曲 3
バンドゥ邸宅のエントランスを潜り抜けてすぐのホールには、先日の賑わいも白蝋の夢へと消えたように静まり返っていた。有象がひしめき合ってもまだ抱擁の余地を残すほどの広さを持つ絢爛で華美なエントランスホールも、その場にいるのが少女一人ならば随分と静かなものであった。
ホールの中心で、ダフトフ男爵一行を待ち受けていた人物、それは彼が予測していた人物であるし、彼が良く見知っていた人物でもあった。そして、なによりも彼自身がここに訪れるのを心から望んでいた人物でもあった。
フィリア=フェルト。
どうにも、彼の名門を卒業しているらしい。ドラン=ドッチからホドの位階を持っていると聞いた。念の為にテレーマ・エウトピアに情報の照査を願い出たところ、明確に保障されていることを伝えられた。
容姿は中々に良い。絶世とは言わないものの、傍においても不快ない、中々に心地よい見栄えをしている。仮に奴隷娼婦として売り出したとしても上々の額になりそうだとダフトフはひそかに思っていた。
フィリアは、慇懃に礼をし、口を開く。
「男爵閣下。本日は御目通り頂き、有難く存じ上げます」
「うむ」
と、ダフトフ男爵は頷く。すでに彼女がこの地に訪れてから幾分の時が流れている。その間、ドラン頭取を通じて、フィリアとは何度か接触を果たしていた。表向きは随分と筋の良い会員が仲間に入ったので激励を宜しく願い出ての事だが、真実は後々異国の地へと売られる商材の価値が如何ほどかという見定めであった。そして、その答えはすでに出ている。最良の至玉であった。
ダフトフは至高の玉を愛でるかのように言う。
「さて。ドランから聞いている。どうやら本日が返済の期限日のようだな。ハラムの商売の方が随分と滞っているようだが、返済の用意は出来たか。我々は恩情深い。全額とは言わずとも、今節発生した利子の分だけでも用意できたのならば、元金の返済については都合をしよう」と、まで言うと「どうだね」と腐った狸のような表情でフィリアに問うた。
フィリアは、無念そうに首を横に振り、そして答える。
「申し訳ありませんが、用意できませんでした」
「なんと」
と、片割れのドランがわざとらしく驚く。そして、表情を明確に曇らせた。まるで、信じていた物に裏切られていたように。良い返済の報告が聞けると思っていたのに、予想外もあらわと言った態度で。
ただ、腹の底に沈殿した真実は違う。明確に予想していた事であるし、彼らが望んでいた事でもある。彼女の自由の終わりが、今日だという事も含めて。
ダフトフはドランと顔を見合わせて、困ったように眉を顰めると暫く逡巡した後、困惑した様子を見せつつフィリアに問いかける。
「それは、残念だ。では、どうするかね。我々も長年頑張ってくれた君に恩情をかけてあげたいところだが、切り離せぬ事情もある。たとえ君が努力家で誠実であったとしても、それを理由に返済を待ったとなれば、他の債務者の方々に示しがつかないのだ」
「ちなみに、返済金額はすでに白金貨で十枚を超えております。そこに、当社が設定した利子を鑑みると、毎節の返済金額は、ざっとの計算で大金貨二枚ですな」
「随分な金額だな。払えるかね」
ダフトフはドランの言葉に、わざとらしく驚いて見せる。まるで何も知らない赤子のように、何も知らない善良を装っている。
払えるわけがない。
大金貨二枚とは、平均的なセインブルグ人一節の給与に値する。先日、一時を共にした泡沫の友人が告げたように、自らの専門性を示して、然るべき機関に属せば何とか稼げる程度の金額である。
だが、それは稼いだ収入をすべて返済につぎ込めばという条件付きの話である。当然、日々の生活には必ず出費が発生する。飲まず食わずで、家賃も払わず、森の雑草のように道端に転がっていなければ払いきれない金額であった。
それをわずか、四十五日で。
例え、今回の時節を乗り切ったところで元金が減るわけではない。元金がわずかにでも減るのであればまだ、状況を改善する余地はあるが、結局のところ払いきれないのであればどこまでいっても自転車操業でしかない。フィリア=フェルトにとって、手に負えない金額であった。
元々、ここまでの話ではなかった。勤勉な彼女は学費に対する融資を最低限にしていたし、実際に立て替えてもらった借金は白金貨で三枚といったところである。セインブルグ人の年収に匹敵する額だが、決して無謀、無策な額ではなかった。金利は年に五分、中金貨二枚程度であったし、つつましやかに節制に努めれば数年で完済しうる金額であった。
だが、それをドラン=ドッチに立て替えてもらってから話は変わった。気が付いた時には借金は元の倍に膨れ上がり、よほどの無茶をしなければ返済できない状況になっていた。
それでも、時折零れ落ちる状況が続き、それが徐々に借金の額を増やし続け、今に至るという訳である。
やり方が汚い。悪辣に憤りを感じる。だが、同時にそのような手腕に嵌ってしまった自分の愚かさも決して許しがたいものであった。
なので、フィリアは黙するしかなかった。ダフトフはふむ、と息を吐くと隣のドランに顎を撫でながら聞く。
「ドラン。期日までに利息分の返済ができなかった時の処置はどうなっている?」
「まず、本人の所有する財産から払っていただく事になっているのですが、彼女の場合は持ち家も借家。実家もすでに失われているようで、身寄りといえば妹が一人。本来なら信用取引に値しない為、融資の段階でお引き取り願う状況です。彼女ならば期待に応えてくれると思い恩情をかけたのですが」
「なるほど。なんとも懐の広い話だな。ドラン。感服したぞ。その恩情を無下にしたという訳だからそれ相応の報いは、受けなければならなだろうな」
「おっしゃるとおりで」
「ちなみに、本人の所有資産でも返済を完了できない場合の処置は、どうなっているのだね」
「は。残念ながら最終的に、本人自身を売却の対象として扱う流れになっています。最悪、それで全額を返済出来なくとも、これ以上の返済能力は本人にないと見做し、それで契約を満了というのが一連の流れです」
「なるほど。本人の覚悟一つで白金貨十枚もの大金を水に流すか。随分と腹の太い話だな。ドラン頭取としては懐の痛い話だが、それで納得するのかね」
「彼女は、今まで頑張ってくれましたからな。私はそれで納得できます」
「なら、後は君の心根一つだな。どうだね。恩情に報いる覚悟は出来たかね」
と、いう。
随分と回りくどく、歪曲して語っているが要するに、奴隷として売りさばくという事である。如何に勿体ぶって回りくどく言わぬとも、フィリアはその事実を痛ましいほどに理解していた。
なので、彼女は唇をかみしめ、これから自分の身に起こりうる可能性の全てを、それこそ最良から最悪までのすべてを想像しながら、これから待ち受けるであろう過酷で凄惨な未来に足をすくませながらも、精いっぱいの勇気を振り絞る。心に浮かんだのは最愛の、最後に残ったたった一人の肉親。すでに心の中でしか会えない君の姿を思い浮かべながら震える唇で力強く答えた。
「覚悟は、できています」
その言葉に。
ダフトフとドランは顔を見合わせる。同時に、内心で悪しき邪心が滲み溢れ、それが身体中の毛穴から滲み出そうな感覚に陥るが二人は辛うじて平静を装う。ダフトフはわざとらしく心配そうな表情を浮かべ、まるで死刑宣告をするかのようにフィリアに告げた。
「本当に、良いのかね。これから自分の身に起こりうること。本当に理解した上でその言葉、申しているのかね」
「もちろんです」
「なるほど。ならば、もはや何も言うまい」
ダフトフは妙に納得した様子で一つ頷く。そして、傍らに控えるドランを軽く一瞥した。ドランはダフトフに頷き返すと、軽く手を掲げて従僕達を呼んだ。
ホールに訪れたのは三人の従僕だった。従僕といっても王侯貴族に仕える煌びやかな燕尾服、といった出で立ちではない。安手で古着の麻布を雑に纏った三人の大柄な男達であった。従僕と呼ばれていてもおそらくは、奴隷のような扱いを受けているのだろう。それが、見て取れる。
それだけなら、フィリアもそこまで深く気には留めなかった。ただ、三人の従僕たちに対してフィリアは不思議な違和感を感じずにはいられなかった。その違和感がどのようなものかを説明すれば良いのか、それは難しい。ただ、人では無い者が人の皮を被っているとでも言えば良いのだろうか。そういった違和感である。
心なしか、肌の体毛が濃い。筋骨が隆々としているのが目で解る。男達は一般的なセインブルグ王国市民と比べても体格が良く、強靭な印象をフィリアに与えていた。
これほどまでに恵体の者どもを一体どのような理由で呼び出したか、フィリアはいささか疑問であったが、その疑念はすぐに解消された。
二人の男は、フィリアの細く華奢な身体をその恵まれた身体が内包する強大な筋力で力任せに抑えた。別に逃げるつもりはフィリアにもはや、毛頭程にもなかったがそれでも強引に押さえつけるという事は、つまりこれからそこまでの覚悟を持った彼女が逃げたくなるような凄惨な何かがあるという事なのだろう。
そして、その答えもすぐに与えられた。非常に安易な回答が、非常にも残虐な形で。
二人の男に、動かないようにうつぶせに押し付けられたフィリアの目の前に、三人目の男が運んできたのは、大きな力を持つ男でなければ運ぶのが難しいほどに重い鉄の棒であった。
特殊な形状をしていた。
棒状の鉄芯の先端は大きく広がっていて、それ自身が巨大な鉄印のような形をしていた。おそらくは何らかの紋様が描かれているのであろう。その紋様の形はフィリアの位置からは確認することはできないが、なぜか鉄印のような先端は、紅く熱されていた。それも尋常な温度ではない。鉄が赤く染まるなど、よほど強く熱されなければ起らない現象である。
フィリアは、その形状の物体の名を知っていた。焼き印である。フィリアが知る限り、ある程度の規模を持つ牧場等でその牧場主が家畜の所有権を主張する為などに用いられる。そして、あるいは。
ダフトフはフィリアが思い描いたその先を丁寧にも説明してくれた。
「奴隷印というものを知っているかな。平たく言うと焼印の一種だ。奴隷落ちした事を明確に証明する為に押させている。しかもこの焼印は少々特殊でな。印術に加え白魔術の理論も用いられているらしい。この印を刻まれたものはアニマに強制的な制約を加えられ、その者の所有者が放つ如何なる命令も逆らうことが出来なくなるらしい。それがたとえ、己の死を強制するような過酷な命令でも、だ」
そこで、ダフトフは悲しそうに慈悲深い表情を浮かべる。
「本当はこんなことをしたくはないのだ。だが、中には折角我々が用意した最後の恩情的な措置を邪険にし、なぜか自ら同意したのにも関わらず、逃げ出す輩がいるのでな。勿論、君がそのような愚かな輩ではない事は重々承知しているのだが、念には念を入れて、という事だ。忠告しておくが、努々、早計な真似はしない事だな。無理に離れようとすれば焼印の記した呪縛が心臓を捻じり切ることになっている。奴隷になるのが死ぬより嫌だとぬかすのならば止めはしないが」
その言葉に、フィリアの表情が蒼白に染まる。ただ凄惨な痛みだけではなく、逃れられないほどの呪縛を負うのだから。
魔術における高等教育を受けたフィリアは、無知な民よりも白魔術の恐ろしさを知っていた。彼の魔道大国によって洗練された魔術の秘法。国民全員が生まれながらに魔術師であるあの国は、ガリア大陸とは比べるまでもないほどに洗練されている。
学院の教師が一様に口をそろえて言っていた。エルランドとカームファニアとは争うな、と。これは単純に戦うなという意味ではない。魔術師としての精度、練度を競うなという事である。つまり、明確に勝つことができないと認めているのである。
あの名門の教師たちに口揃ってそこまで言わせる魔術体系が、如何様であるはずがない。もし下手を打てば文字通り、凄惨な末路をたどる事であろう。
フィリアは自分が何をされるのか明確に理解し、狂騒した。しかし、暴れたところで屈強な男達に力強く押し付けられ、身動きが取れなかった。ドランの人選は的確だったという訳である。
ダフトフは、表情を冷徹に凍らせた。
「やれ」
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