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リサママと人類支配計画

カーテン越しの明かりが優しく包み、目覚めさせてくれる。「朝か……今日も天気は良さそうだな」僕は念のためにセットしておいた目覚まし時計を止めて、枕元にある眼鏡を手探りで取る。体を起こし眼鏡をかけ、背伸びを一つ。「さて、朝ご飯を準備しなきゃな」気合とともに立ち上がり、身支度を整える。

台所に向かうと、リサが朝食の準備を始めていた。そういえば、昨晩は彼女が結衣ちゃんを寝かしつけてくれたんだった……。

突然現れたこの存在は、たった一日で我が家に馴染んでしまっている。「おはようございます」と声をかけた僕に鋭い視線が刺さる。なにこのご褒美……いや、僕がなにかしたのだろうか?

僕に向き直ったリサは丁寧にお辞儀をする。「マスター、おはようございます。ところで、いつまで他人行儀な態度を取るのですか?」

——えー、昨日初めて会ったんですけど……「な、なにか気に入らないのかな?」「マスターの優しい言葉は、普段どおりの口調が一番合います」「そうなんですか?」「ほら、また。練習です、『リサ、愛してる』と言ってみてください」——何言ってんだコイツ

「気をつけるようにするよ」「——まあ、いいです」彼女は流しに向かい、野菜を洗い始めた。「それと、私のことは『愛しのリサ』と呼んでください」「『リサ』って呼びます」リサの手が止まり、横目で一瞬向けられた視線が鋭く僕に突き刺さった。


ここにじっと立っていても仕方がない。「僕も手伝うよ……リ、リサ」台所に立つリサに、少しビビりながら声をかけると、リサは満面の笑みで僕に振り向いた。

「マスター、洗った野菜を切ってください」まな板の上に置かれているのは、さつまいもと長ねぎ。「何に使うの?」「味噌汁です」なるほど、さつまいもの味噌汁は子どもにも好まれそうだ。

僕は一口サイズにさつまいもを切る。いつもは時短のために小さく切るが、今日はまだ余裕があるから、いつもより少し大きめに切り分けていく。「マスター、見かけによらず器用なんですね」「一言余計な気がするけど、ひとり暮らしが長いから、これくらいのことはできるさ」

リサが僕の背中越しにまな板をのぞき込む。何とは言わないが、背中が幸せに包まれる。

「いえ、完璧なほどに大きさがそろっています。これなら全部が同じ時間で食べごろになります」彼女がふと動くたびに、鼻をくすぐるいい匂いが、包丁を持つ手を狂わせる。「そ、そうなんだ。そこまで考えていなかったよ。包丁を持っていて危ないから、少し離れてくれない?」

ふっと耳に息を吹きかけて、リサは冷蔵庫のほうを振り向いた。


卵を手に戻ってきたリサは、手際よく玉子焼きを作り始めた。野菜を切り終えた僕は、彼女の料理を見ていたが、魔法のようにふわっとした玉子焼きができあがっていくのに驚いた。

「リサも器用だね。僕にはそんな美味しそうな玉子焼きは作れないよ」「はい、マスターより器用です」少しはお世辞など言えないのか?「ですが、私は機械関係の方が得意です」「機械関係?たとえば?」首を傾げる僕に一瞬向けられたリサの視線は、すぐに手元に戻った。

「そうですね。剣などの原始的な武器から、最新の兵器、諜報用機器まで製造することができます。あとは銃器の取り扱いも得意です」——なにその機械?そういえば、マシンガンを持っていたな。あれって、持っていても大丈夫なのだろうか?

「マスターは、セクハラ発言と箱ティッシュを高速で三枚取り出す以外に、得意なことはありますか?」この人は、僕と話がしたくてここに来たとか言っていたけど、本当は罵倒しに来たんじゃないのか?「あっ、これは失礼しました。まだ朝でしたね」いや、時間の問題じゃないだろ……

「そういえばさ、ここでの重要な任務ってなんなの?」一瞬、目を逸らしたリサが、僕に微笑んだ。「こうしていると、夫婦みたいですね。あ・な・た」「そ、そうかな?」なぜか照れくさくなって僕は顔を伏せた。

「はい。もう夫婦と言っても誰も疑いません。マスター、今すぐ、ここでプロポーズしてください」——何言ってんだコイツ……「そろそろ、結衣ちゃんを起こしてくるよ」僕は、逃げるように台所を後にした。


「『魔女っ娘になれる』と言った私の嘘がバレないように、必ず阻止してみせます」リサの呟きはウインナーを焼く音にかき消された。


——結衣ちゃんを起こして居間に入ると、ちゃぶ台の上に朝食が用意されていた。ご飯と味噌汁、玉子焼きとウインナー、そしてサラダ。ありきたりな朝食なのに、今朝はなぜかとても美味しそうに見えるのが不思議だ。

「わー、おいしそー」結衣ちゃんはうさぎのぬいぐるみを抱いたまま、ちゃぶ台の前に座った。「結衣ちゃん、うさぎさんは置いとかないと食べにくいよ」「いやー!」ますます強く抱きしめてしまう結衣ちゃんの様子を見て、リサが微笑んだ。

「結衣さん、ここにうさぎちゃんを座らせましょう」スカートの中から小さな椅子を取り出し、結衣ちゃんの隣にそっと置く。結衣ちゃんはそこにうさぎのぬいぐるみを座らせると、にこっと笑ってリサを見た。「ありがとー、リサママ」「どういたしまして。さあ、ご飯を食べましょう」「うん!」

あまりに自然で危うく聞き逃してしまいそうだったが、『リサママ』ってどういうことだ?昨晩、結衣ちゃんに何を教えたんだ?

「結衣ちゃん、『リサママ』って何かな?」ひきつった笑顔で問いかける僕を見て、結衣ちゃんはかわいく首を傾げた。「リサママはリサママだよ」リサを見ると、すました顔で朝食を食べている。「亜希ママは?」「ママはママだけど、リサママはリサママだよ」「だそうですよ、あ・な・た。ご飯を食べないと遅れてしまいます」——どうやら、何かしらの包囲網が築かれつつある気がしてきた。


朝食を食べ終わるとすぐに、僕は結衣ちゃんの登園かばんに着替えなどを詰める。自分のものならともかく、忘れ物があると結衣ちゃんは困るし、三浦先生にも迷惑をかけてしまうから、少し慣れてはきたがプリントで忘れ物のチェックは欠かさない。「よし、準備できた。結衣ちゃんは着替え終わったかな?」

先代店主の部屋に追い出され、結衣ちゃんとリサに占拠されてしまった僕の寝室に入ると、着替え終わった結衣ちゃんがちょこんと座っていた。

「あれ、リサは?」「リサママはおべんとー」お弁当?よく分からないが、まあいいだろう。僕は結衣ちゃんに微笑みかける。「結衣ちゃん、保育園に行こうか」「うん、いくぞー!」

居間から店に出ると、いつも僕が座っているカウンターの椅子にリサが腰掛け、パソコンの画面を見つめていた。「何してるの?」「この店のことを勉強してマスターをお手伝いします」真面目なときは凛としていて、素敵な女性だが……

「なんでパスワードが分かったんだ?」僕が呟くと、「頭の悪い男性の大半は、生年月日をパスワードに設定するものです」と貶してくれた。そんなリサを無視して結衣ちゃんが靴を履くのを待っていると、リサが笑顔でこちらに振り向いた。

「マスター、この破廉恥な格好をした女性の画像がたくさん入っているフォルダ以外に、見てはいけないものはありますか?」

もう、なんとでも言ってくれよ……「それを見たなら他にはないよ」「分かりました」ため息をついた僕に可愛い声が届く。「おじちゃん、つかれたの?」「疲れてないよ。結衣ちゃん、準備できたかな?」「うん!」僕は結衣ちゃんと手をつなぐ。

「気をつけていってらっしゃいませ」店を出る僕たちをリサが見送ってくれた。


登園途中、チャイルドシートの結衣ちゃんはいつも以上にご機嫌で、「リサママがー、えほんよんでくれた!」「リサママのごはんおいしいねー」「リサママとおふろはいるのー」と、終始リサの話ばかりしていた。たった一日で結衣ちゃんをリサに取られた気分で、ちょっと妬けてくるが、女性同士の方がいいこともあるのだろう。

「今日はリサとお風呂に入るの?」「うん!」嬉しそうに返事をする結衣ちゃんだが、保育園でもこの調子で話されたら、三浦先生に余計な詮索をされそうでしかない。「まあ、いずれバレるんだし、別にいいか」「いいかー!」バッカル二号改Ⅱは保育園までの十分間、楽しい雰囲気を振りまいて、ぴより野町を駆け抜ける。


結衣ちゃんを送ったあと、園長先生面接のときに提出する書類を取りに、市役所にやってきた。相変わらず窓口は混んでいるが、今日は店番以外の予定はないから、待っても問題はないだろう。

しかし、ここは年寄りの社交場か?などと、ぶつぶつ言いながら申請書を書いていると、「あれっ、源屋さんじゃないのー。何やってんの?」と声をかけられた。顔を上げて振り向くと、馴染みの爺さんの笑顔が目に入った。——ていうか、顔が近い……

この爺さんは、先代の頃からの馴染みで自分の依頼だけでなく、お客さんも紹介してくれるありがたい存在。元は市役所で働く公務員だったらしいが、定年後はぴより野町を徘徊するのが趣味になったらしい。だが、たまに迷子になる。

「おはようございます。今日は住民票なんかを取りに来たんです」「そうかそうか。ところで、先代はどうしてんのかな?」先代のことはいろんな人から聞かれるのだが、僕も知らないので答えに困る。「『海辺の別荘で老いた体を労わる』って言って、出ていったきりなんです。全然連絡も取れませんし」「そうか、源さんらしくていいじゃないのー」うなずく爺さんに愛想笑いで応じる。

「源屋さんな、そろそろ家の裏の草刈りを頼めないかな?」おお、仕事をもらえるとは。今日、市役所に来たのは天の導きだったようだ。

「ありがとうございます。そろそろ暖かくなってきましたからね。来週で良かったら行けますよ」思わず緩む顔を隠しきれない。「そうかい、助かるよ。いつもと同じ値段でやってくれるかな?」「もちろんです。天気の都合もありますから、今日の夕方にでも日程を連絡します」爺さんはうんうんと大きくうなずき、「そんじゃ、頼んだよ」と言い残して、立ち去っていった。


「これ、お願いします」「住民票と所得証明書を一通ずつですね」「はい。お願いします」窓口に申請書類を出した僕は、正面からの視線に気づき、顔を上げた。やはり、魔女っ娘としての才能が目覚め始めたのか、やけに視線に敏感になったようだ。その女性は僕の顔を見つめている。「篠田君、変わってないね」彼女は声が詰まった僕に微笑み、書類を手に奥へと立ち去る。

さっきの女性は、小学校の同級生で宮坂美緒。六年生の運動会で彼女と手をつないだ僕は、彼女を好きになってしまった。それからは彼女を見るのも恥ずかしくて、一度も話をしていない。ちなみにそれ以降は、結衣ちゃんと手をつなぐまで、異性と触れ合うことのなかった鉄壁の男だ。

なぜか帰りたくなった僕に、書類を手にした彼女が近づいてくる。「お待たせしました」「あ、ありがとうございます。宮坂さん……」緊張して目を合わせることができず、うつむいたままお金を取り出す僕に、「覚えていてくれたんだ」と彼女が声をかけてくれた。

早足で市役所を出た僕は、大きくため息をついた。「なんか緊張したな……ここで宮坂さんと会ったのは天が導いてくれた運命かもしれない」バッカル二号改Ⅱにまたがり、気合いを入れ直す。「いや、運命なんかじゃない」エンジン全開でバッカル二号改Ⅱを発進させる。「これは魔女っ娘になるための試練なんだー!」宮坂さんからの試練という名の誘惑を振り払うように、雄たけびを上げながら帰路についた。


店に戻った僕は扉の鍵を開けようとしてふと思い出した。「そうだ、リサがいるんだった」扉を少し開けてのぞき込むと、カウンターからリサがこちらを見ている。「おかえりなさいませ、マスター。そこで何をしているのですか?」

ガラガラと音を立てて扉を開けた。「ただいま。リサいるかなって思ったから」店に入る僕にリサが微笑みかけた。「ご安心ください。マスターに何を言われようと何をされようと、たとえマスターを殺してでも、私はここに居座るつもりですから」今の言葉のどこに安心要素があったのだろうか。

カウンターの中に入ると、たった一つの椅子をリサが使っているせいで、座る場所がない。「リサは何をしてたの?」彼女は立ち上がるとスカートの中から真新しい椅子を取り出した。「ご覧の通りマスターの椅子を温めておりました」「そうだったんだ。ありがとう」見てわかるものではないと思うが、ありがたく使わせてもらうことにして腰を下ろす。たしかに椅子は温まっていた。——が、その必要性が僕には分からなかった。

しかし、あのスカートはどうなっているのだろうか?朝もぬいぐるみの椅子を取り出していたし、僕が腰掛けている椅子も、スカートの中にしまえるサイズではない。だが、ここで興味を示すと、また内ももに挟まれて拷問されてしまうかもしれない。あくまでも冷静に振る舞う僕に、「マスター、お茶をどうぞ」とリサがコップを手渡してくれたが、これもスカートの中から取り出したように見えた。飲んでも大丈夫なのか?


コップの液体をじっと見ている僕に声がかかる。「見かけによらず几帳面なマスターの記録を拝見し、仕事の内容は完璧に理解できました」「その『見かけによらず』って必要あった?」

「はい、仕事の内容から売上の記録、さらには女性のいかがわしい画像まで、細かく分類・整理されておりましたので、その一見真面目そうな黒縁眼鏡に今は悪意しか感じません」

もう何も言わない……リサの嫌味に答えるより、この液体を飲んでもいいのか考えてみよう。「ですが、どうしても理解できないことがありますので、教えていただけませんか?」どうせつまらないことだろうけど、一応聞いてみようか。「何が分からなかった?」

「この店の存在です」なにその全否定……「仕事のほとんどは、マスター自ら現地に赴き実行する必要がある仕事です」「たしかにそうだね」

「ごくまれにこの店を訪れて仕事を依頼される方もいらっしゃるようですが、九十八パーセント以上は電話での依頼です。商品のように陳列されているものも拝見しましたが、すべて壊れているガラクタでした。いったいこの店は何のためにあるのでしょうか?」

意外と真面目な質問だったが、この答えはもう決まっている。「先代店主の趣味だな。あとは、お客さんも店があった方が仕事の依頼もしやすいんじゃないかな?」リサを見ると納得したようにうなずいている。「ではもう一つお伺いしてもよろしいでしょうか」「なんだろう?」「ここに陳列しているもの以外に、壊れていないものも回収されているはずですが、それはどこにあるのでしょう?」「売ったよ」

「売った?やはり壊れていないものはすぐに売れるのでしょうか?その割に帳簿に記載がありませんでしたが」

「いや、すぐに現金化できるものは、他の古物商なんかに買い取ってもらって、売れた額の何割かを値引きとしてお客さんに還元しているんだ。それでも多ければ現金を渡している。先代からの教えなんだよ」

真面目な話で少し喉が渇いた僕は、無意識にコップの液体を口に含んでしまった。普通のお茶で安心したけど、スカートの中から出す必要はあったのだろうか?

「ところでマスター、記録を見る限り、引き取ったガラクタは他にもあると思うのですが」この短時間でどこまで把握したんだろう?少し怖くなってきた。「あるよ。裏の倉庫に入ってるけど、見てみる?」「是非見せてください!」珍しく弾む声のリサが目を輝かせて僕に顔を近づけた。「じゃあ、行ってみようか」僕はカウンターの引き出しから鍵を取り出し、リサと一緒に倉庫へ向かう。


「長いこと開けてないからな……ホコリまみれなんじゃないかな」倉庫の重い扉を引くと、なんとも言えない匂いの空気が溢れ出てきた。中は予想どおりホコリまみれで、足の踏み場どころか隙間もないほどガラクタが積み上げられ、外から眺めることしかできない。

すぐ見える位置には家電製品やカーステレオなんかが置いてあるが、先代の頃から回収しているんだから、もっといろんなものが入っているはずだ。

「これは……すごいですね。これは捨てるのですか?」「うーん。お客さんの思い出もある品だから捨てるなって先代は言ってたけど、さすがにもう置き場がないよな……」リサの横顔は期待に満ちた表情を浮かべていた。

突然、リサが僕の方へ振り向き、そっと両手を取った。「マスター、お願いがございます。これを修理して売ってみたいです」「えっ、修理できるの?」「もちろんです。お願いします。身も心もマスターに捧げます。殺したりしませんから」たしかにリサは機械関係が得意って言ってたな。それよりも——いつか僕を本当に殺すつもりだったんだ……

「そうだね。売れなくても、修理してこのガラクタがもう一度日の目を見るのならいいと思うよ」いきなりリサに抱きつかれた。「ありがとうございます、マスター」あー、不思議と幸せな気分になる。もてない男に見せつける以外の、恋人同士が抱き合う理由を少し理解できたような気がする。

「店番の暇つぶしにもなるだろうし、あとは任せるよ」「はい、マスター。大好きです」フローラルないい香りと、これまで聞いたことのない愛情表現の言葉が僕を誘惑する……今日はなんて試練の多い日なんだ。やはり魔女っ娘への道は険しい。


結局、成り行きでリサが店番とガラクタの修理をすることになり、倉庫になっていた二階の部屋から工具を運んだり、その部屋にも置かれていたガラクタにリサが目を輝かせたり、スマホに転送されるだけだった店の電話を使えるようにしたりしているうちに、結衣ちゃんを迎えに行く時間になっていた。

「そろそろ結衣ちゃんを迎えに行くよ」「もうそんな時間ですか?」リサは時計を見て少し驚いた様子を見せた。「では私は夕食の買い物と漁に行ってきます」ん……『漁』?聞き間違えたかな?「えっと、今なんて……」「なんでもありません。マスター、鍵をかけ忘れないでください。ここは宝の山ですから」そう言い残して、リサは出かけてしまった。


保育園で結衣ちゃんを乗せたバッカル二号改Ⅱは、帰りも快調に疾走する。結衣ちゃんもご機嫌でチャイルドシートから話しかけてくる。

「おじちゃん、きょうはしちゅーだよ」「そうだったね。リサとお風呂に入るのとどっちが楽しみ?」「んーとねー……おふろ!」あれ、意外な答えが返ってきた。てっきりシチューの方が楽しみだと思っていたんだけどなあ。

僕も小さい頃はシチューは好きだったな。作るのが面倒で、ひとり暮らしを始めてからは一度も食べていないけど。学校から帰って母さんがシチューを作っている日は、夕食までの間はテンションが上がった。早く食べたくて部屋と居間を何度も行ったり来たりしたものだ。いつからだろう、あまり食べなくなったのは。

「きょーはしちゅーとおふろのひー、きょうのしちゅーはー、おにくー!やー!おふろはリサママ!えーい!」結衣ちゃんがついにオリジナルソングを歌い始めた。

「よーし、ちょっとスピードを出して帰りますかー」僕は眼鏡を押し上げて、エンジンに喝を入れた。「わー!おじちゃん、だしてー!だしてー!」バッカル二号改Ⅱは勘違いを招きそうな声を振りまき、ぴより野町を疾走する。


店に戻って、天気予報を見ながら日程を決め市役所で出会った爺さんに連絡を入れたり、雑用を片付けたり、店の掃除をしたりしていたら、すっかり日も落ちていた。

「そうだ、忘れないうちに準備しとかなきゃ」市役所で取ってきた住民票と所得証明を、園長先生面接シートにクリップで綴じようとしたとき、ふいに目についた自分の所得を見て驚いた。「僕の収入、結構多いんだな。ぜんぜん知らなかった」でも、よく考えればこれが多いかどうかは、同年代の収入と比べないと分からないよな。僕の感覚では多いと思っても、一般的にはすずめの涙ほどかもしれないし。

「マスター、ご飯ができました」リサの声に導かれ居間に入ると、ちゃぶ台の上には湯気を立てるシチューとサラダ、中央にはバゲットが置かれていた。

「おじちゃーん、はやくすわって」スプーンを握った結衣ちゃんに催促されて座ると、「いただきまーす!」と弾む声と同時に結衣ちゃんはシチューをスプーンですくい、頬張る。「おいしー!リサママおいしーよ!」「結衣さんに喜んでもらって、私もうれしいです」いや、実に尊い光景だ。ありがたすぎて思わず拝んでしまいそうになる。

「これは、リサが来てくれたことに感謝しないといけないな」とにやけた顔で呟きながらシチューにスプーンを入れようとして、手が止まった。

「——なんだこれ?」僕のシチューに何かがいる。結衣ちゃんとリサのシチューをのぞいてみるが、この何かは入っていないようだ。それをすくうと、スプーンの上でぬらりと光った。

「なんだろう、これ?」「ドジョウです」「ドジョウか……」

もう疑問が多すぎて、何から聞けばいいか分からない。スプーンの上のドジョウを見た結衣ちゃんは、「おじちゃんのしちゅー、どじょうがいるー!」とケタケタ笑っている。

「なんでドジョウが入ってるんだろう?」「入れたからです」リサ、それはそうだろう。ドジョウが勝手に入るわけがない。

「いや、そうじゃなくて。なんでドジョウを入れたんだ?」「獲れたからです」あー、たしかに漁に行くって言ってたな。

「なんのためにドジョウを入れたんだ?」「滋養強壮作用があるからです」

僕がさらに問いかけようとすると、リサは顔をそむけた。「結衣さん、このバゲットを柔らかくなるまでシチューに浸すとおいしいですよ」「うん!」

仕方なくドジョウを食べてみたが、泥臭さがシチューにまったく合わない。僕はリサに何か悪いことをしたのだろうか。顔を上げると、結衣ちゃんが奇妙なものでも見るように、顔をしかめて僕を見つめていた。


風呂に入って部屋でくつろいでいたら、ドアがキーッと音を立てた。目を向けるとリサが部屋をのぞいている。

「どうしたの?」「まだ起きているのですね」「うん、もう寝るけど」ドアを開けてリサが部屋に入ってくる。「マスターにも絵本を読んで差し上げます」「遠慮しておくよ。結衣ちゃんは?」

僕を無視してリサは隣に腰を下ろした。「結衣さんはもう寝ました。マスター、どちらの絵本が好みですか?」僕の前に二冊の本を差し出した。

白いバニースーツ姿の女性がウインクをしている『ぴょんぴょん学園の保健室、いけないリナ先生』と、スーツを着た女性が男性の胸に抱かれて頬を染めている『同窓会の人妻、初恋のやり直し』……なんだこれ。

「これ、どっちも『絵本』じゃないよね」「絵本です」そう言って顔をそむけたリサは、敷かれた布団を見た。「今夜が初夜ですね……」——何言ってんだコイツ……

「あのさ、もう眠いし、用事がないなら出ていってくれないかな?」「今日のパンツは白ですが、見たいですか?」完全に無視かよ。

「いや、遠慮しておくよ。だから、出ていってくれない?」「もう少しいやらしい服が好みでしたか?」「服とかじゃなくて、眠いし、出ていってくれよ」強制的に部屋から追い出したいところだが、大きな音を立てると結衣ちゃんが起きてしまいそうだしな。

少し静かになったリサを見ると、うつむいて肩を震わせていた。「そこまでして魔女っ娘になりたいのですか……そうですか」「あの、僕は何もしていませんけど」「マスターを気遣ってドジョウまで食べさせましたのに」「あれ、僕を気遣ってくれたんだ。嫌がらせかと思ったよ」

突然リサが僕の両肩をつかんだ。「いいですか、マスター。夫婦の営みというのは単に快楽を求める行為ではありません。言葉では伝えきれない想いを伝え合い、互いに確かめ合うことができます。また、オキシトシンが分泌されることにより心身の安定や幸福感の高まり、子育てにもいい影響を与え、それが子どもの健やかな成長に寄与します。ひいては夫婦間の絆を深め、結婚生活の満足度が高まるのです。それなのに、なぜ拒否するのですか?」

「いや、僕、結婚してないし……」そんなに力説されてもこれ以外に答えようがない。

「たしかにそうです……分かりました。今から私にプロポーズしてください。私はそれを受諾します。これで問題解決です」「プロポーズしないよ」——朝から二回目のプロポーズ要求をはっきり断ってやった。

「では私がプロポーズします。マスター、今すぐ私と結婚してください。そして夫婦の営みを……」「謹んでお断りします」

「なぜそこまで拒否するのですか!」突然の大きな声に僕は焦る。「ちょ、ちょっと。しーっ、結衣ちゃんが起きるだろ」「そんなに私に魅力がありませんか。そうですか、そうですか」「そうじゃないけどさ」「じゃあ、何なんですか?」「じゃあ、逆に聞くけどさ、なんでそこまで僕が魔女っ娘になるのを阻止したいの?」リサは急に静かになり、顔をそむけた。

「それは……その……人類が滅亡するかもしれないからです」

えっ——マ、マジかよ。「魔女っ娘ってそんなにすごいの?」「はい。きっと、たぶんすごいと思います」やったぞ!これは楽しみになってきた。滅亡させることはしないが、人類の支配くらいはやってみたい。なるほど、人類の存亡がかかっているなら、リサの重要な任務も理解できる。

「それで、重要な任務って言ってたんだね」「はい。とても重要な任務です……」僕はとっさにリサの両肩をつかんだ。驚いた表情で、彼女は頬を染めて僕を見つめた。「じゃあさ、一緒に人類を支配しよう。協力してくれないか?」「マ、マスター、本気ですか?」「もちろんさ。頼むよ」

リサは頬を染めたまま、僕の目をじっと見つめて、小さくため息をついた。「分かりました……では、私は人類支配プログラムを立案するので、今夜はこれで失礼します」そう言ってリサは部屋を後にした。


「リサが協力してくれるなら、心強いな。あー、どうしようかな。僕と結衣ちゃんが人類を支配する……いや、影から人類を支配する魔女っ娘と少女って……くーっ、なんかかっこいいじゃないか!楽しみになってきた。これはどんな試練も乗り越えられそうだ」僕は布団に入ると、結衣ちゃんと一緒に影から支配する地球を想像し、胸を躍らせた。


——そのドアの向こうでは、リサが小さくため息をついた。

「どうしましょう。また、嘘を重ねてしまいました。あんな純粋な瞳で見つめられたら断ることなんてできません……卑怯です。とはいえ、今さら『嘘です。ごめんなさい』とも言えそうにありませんし」

足音を立てないように結衣ちゃんの部屋に向かうリサ。「作戦を変更しましょう——でも、あの顔……母性をくすぐる可愛らしい顔です」

『ぴょんぴょん学園の保健室、いけないリナ先生』は上村純子先生の『いけない!ルナ先生』へのオマージュです。私、ルナ先生の悲観的思考が大好きなので。


お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。

毎週土曜日投稿予定。よければブックマーク・評価のひと手間を。誤字は各話末の『誤字報告』からお願いします。


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