お子様プレートと黒パンツ
「よーし!今日もひとっ走り行きますか!」
「いきますかー!」
掛け声とともに走り出したバッカル二号改Ⅱは、今日も快調なエンジンで少しだけ加速する。
「おじちゃーん、もっとだしてー!」
結衣ちゃんのいけない感じのリクエストに心は昂ぶるが、また三浦先生に怒られるのも困る。それに今は暫定的に保育園に通えているだけなんだ。目立つことは避けたい。
「結衣ちゃん、僕が真琴先生に怒られるから」
「やだ!」
結衣ちゃんのたった一言でほだされた僕は、ほんの少しスピードを上げた。
「やー!はやーい!おじちゃん、はやいよー」
結衣ちゃんははしゃいでいるだけなのに、なんだか罵倒されているようで不思議だ。だが、この声援こそバッカル二号改Ⅱが快調に走る原動力なんだ。
「おはようございます」と挨拶をして保育室に入ると、結衣ちゃんは保育園かばんと帽子を棚に放り込んで、友達のところへ行ってしまった。僕は登園かばんから必要なものを取り出して、結衣ちゃんの棚に並べる。
「おじさん、おはようございます」ふいに後ろからかけられた声に振り向くと、三浦先生が微笑んでいた。
「あっ、おはようございます。今日も結衣ちゃんをお願いします」と立ち上がった僕を、先生はじっと見つめている。なんだか少し照れくさくなって、ごまかすように微笑み返すが、三浦先生はまったく反応しない。
「あ、あの……三浦先生……どうかしました?」僕が問いかけると、一瞬目を見開いた三浦先生は、なぜか少し頬を染めて、視線をそらした。「い、いえ……来週、園長先生面接がありますので……」そう言って、彼女が差し出したプリントを受け取り、視線を落とす。
「……園長先生面接シート?」意味がわからない。これを書けばいいのか?
「園長先生面接のときに提出してもらいますので、事前に記入しておいてください。あとこれが必要書類です」そう言って彼女が差し出したもう一枚のプリントを受け取り、目を通す。
「住民票と所得証明……へえ、所得証明もいるんですね……」
「はい、所得で保育料が決まりますので」
保育園ってそういうシステムだったんだと感心してしまった。
しかし、『園長先生面接シート』は思ったよりも本格的で、細かな質問設定に驚いた。「大丈夫かな……」思わず漏れた僕の声に「私も同席しますから大丈夫です」と三浦先生が頼もしい言葉で励ましてくれた。
「三浦先生が一緒なら安心です」と言って、安堵の笑みを浮かべた僕を、三浦先生が目を見開いて見つめている。わずかに震える潤んだ唇が、ゆっくりと開く。
「そ、そんな、一緒にいてくれれば安心だなんて……それってプ、ププ、プロポーズですよね……交際ゼロ日で結婚……だ、ダメです。もう少しお互いを知ってからでないと……あ、ち、違います……お断りしたわけじゃないんですよ……でも、こういうことはやっぱり段階を踏んで……」
両手で顔を覆って恥ずかしがり、よくわからないことを言い始めた三浦先生と僕の周りを、いつの間にか子どもたちが取り囲んでいる。
「あ、あの……三浦先生……子どもたちが……」と声をかけたが、とき既に遅し……
「せんせー、けっこんするの?」
「そんなおっさんやめて、おれとけっこんしよーよー」
やばいぞ……このままでは僕が子どもたちの標的になりかねない……こんなときは、うん、逃げるに限る。
「結衣ちゃん、僕はお仕事に行くからまた後でね」と軽く結衣ちゃんの頭を撫でると、「はーい!」と元気な返事をしてくれた。
足早に保育室を後にして、ピンチを脱した僕はバッカル二号改Ⅱにまたがり、指で眼鏡を押し上げた。
「さて、ひと仕事行きますか」と自らに言い聞かせた僕は、一気にスピードを上げて仕事へ向かった。
——僕は店から持ってきた一個のLED電球を握りしめ、一軒の家の前で深呼吸した。「ここの婆さん……苦手なんだよな……」とつぶやき、その家を見上げ、再度深呼吸してから呼び鈴を押した。
ピンポーン……昔ながらの呼び鈴が家の中で響くが、何の反応もない。「まあ、いつものことか……」鍵のかかっていない玄関を開けて、中をのぞき込んで「おはようございまーす!」と大きな声をあげると、家の奥から足音が聞こえてきた。
模様入りガラスの引き戸が震えるような音を立てて開き、婆さんが顔を見せ、「あー、源屋さん。さっそく来てくれたんだねー」と笑顔で僕を招き入れる。しかし、相変わらずの厚化粧。ここまでやると、もはや化粧ではなく『塗装』と言ったほうが正しいのではないか?それに、家中に化粧品の臭いが充満していて、長時間いると気分が悪くなる。
何度も来ているから、この家の間取りはほとんど把握している。「トイレの電球でしたね」と勝手にトイレに向かう僕の後ろを婆さんがついてくる。
「今日はLEDの電球を持ってきましたから、今までの十倍以上長持ちしますよ」
「それじゃ、あたしの死ぬほうが早いんじゃないか?」
真面目に答えれば返答に困るから「そんなことないです。まだ若いですから」とありきたりの言葉で対応しておいた。
昔ながらのこの家は天井が低い。それに狭いトイレだから、踏み台を使わずに背伸びをして電球を交換する。
「源屋さん、この間の話、考えてくれたかい?」
まずい……またあの話が始まる。早く帰らなければと焦る気持ちのせいか、うまく電球が取り付けられない。
僕は焦りを隠して「この間の話?もう三か月ほど前の話なんで、忘れました……」とシラを切るが、婆さんは「ちゃんと覚えてるんじゃないかい」と笑う。もうバレた……これも年の功なのか?
「うちの娘との見合いだよ」と話し始める婆さんに、やっぱりか……と僕は肩を落とす。
「言っただろう?今年四十五で……いや、四十六だったかな……まあそれくらいだよ。二度出戻ってるけど、器量のいい娘なんだ。一度会ってくれやしないか?きっと気に入るよ」
この婆さん……これを本気で言っているのが怖い。今年二十五歳の僕に二十も歳の離れた娘との見合いをなぜ勧めるんだ?亡くなった母が兄を産んだのが二十二歳だから、親子ほど離れているんだ。それにだぞ、そんなに器量がいい娘が、なんで二度も出戻ってるんだよ……
「いや、僕はまだ結婚する気はありませんし、それに、そんなにいい娘さんなら、こんな自営業の男じゃなくて、公務員とか固い仕事の男性がお似合いですよ」
「それもそうだね……でもさ、源屋さんも考えてみておくれよ」
今日もいつもどおりの応対で逃げ切れたが、この手があと何度通用するのだろうか。
代金を受け取って玄関を出た僕は、婆さんの家を振り返る。「次に来たらまた同じ話をされるんだろうな……」とため息をつくと、バッカル二号改Ⅱの前カゴに外した電球を放り込んで、ひとつ背伸びをする。そして無意識に「店に帰ろうか……」とぽつりとこぼした。
途中、コンビニで昼食を取った僕は、バッカル二号改Ⅱを快調に走らせる。店に戻って結衣ちゃんのおもちゃを片付けようか、夕食の買い物に行こうか……そんなことを考えながら走るのも悪くない。むしろ、最近の楽しみになっている。
「今日は早めに迎えに行って、紅巴里に寄ろう」そうつぶやいたとき、遠くに見え始めた店の前に誰かが立っているのに気づいた。「あっ、お客さんかな?」僕は仕事を取り逃すまいと、バッカル二号改Ⅱのスピードを上げる。
近づくにつれて店の前に立っているのが女性であることに気づいた。
「まさか、さっきの婆さんの娘じゃないよな……」眼鏡を指で押し上げて見てみるが、どうやら若い女性のようだ。胸をなでおろすと同時に心を弾ませた僕は、店の前にバッカル二号改Ⅱをかっこよく停めた。
「すみません。お待たせしましたか?」僕の声を聞き振り向いた女性は、ペールブルーのタートルネックに、青みを帯びたグレーのロングスカート。ふわりと広がる布地は軽く揺れるたびに柔らかな影を落とし、どこから見ても上品で、穏やかだった。
「篠田大智さんですか?」優しい声で尋ねてきた女性は、整った顔立ちで、色白ながらも自然な血色の肌をしていて、前髪は目にかかるか、かからないかの長さで、その顔に浮かぶ少し冷めた表情の一部を隠すかのように揺れる。
思わず見惚れて固まった僕に「あの……」と声がかかった。その少し冷たく単調な声色に緊張した僕は、姿勢を正した。
「は、はい。篠田大智二十五歳、ど、独身です!」
首をかしげた女性は「知っています」とだけ返事をして、僕に一歩近づいた。その立ち姿は、姿勢の角度、視線の高さまでが正確すぎる。
「もう一度話をしたくて会いに来ました」
「もう一度……?」
「はい」
僕はバッカル二号改Ⅱに負けないほどの猛スピードで記憶をたどる。しかしこのように美しく清楚で魅力的な女性を、忘れるはずがない……だが、彼女は僕の記憶のどこにもなかった。
「どこかでお会いしましたっけ?」
「会うのは初めてです」
よかった……こんな女性を忘れてしまっているようでは、魔女っ娘になれないかもしれない。
「あの、ここで立ち話もなんですから、中にどうぞ」と言いながら、店の鍵を開けて、女性を店内に案内する。
打ち合わせ用に置いてある、ちょっと古びた長机と椅子を見た女性は腰を下ろさずに店の中を見回している。
お茶を用意しようと居間に向かおうとした僕の手が、突然彼女に掴まれた。ここ最近は結衣ちゃんと婆さんにしか握られていない手が、美しい女性の手で柔らかく包まれたことに、驚いて振り向くと彼女は微笑んでいた。
「マスター、お会いできて嬉しいです。私、リサです」
——何を言っているんだこの人は?僕が不審者を見つけた気持ちで彼女を見ると、少し悲しそうな表情で僕を見つめた。
「……もしかして、忘れたのですか?」
「いや……忘れたと言うか……記憶に……」
僕の話が終わる前に彼女は顔を近づけて、「ViELは?」と聞いてきた。それは完全に心当たりがある。だがあれはAIであって人間ではない。
「ま、まさかな……」僕がつぶやくと彼女は微笑んだ。
「私は、マスターが『リサ』と名付けてくれたAIを搭載したアンドロイドです」
理解が追いつかず呆然と立ち尽くす僕に、女性は「マスター、まずは腰を下ろしてください。詳しくご説明いたします」と椅子を勧めてくれた。
急に年老いた気分になり、ゆっくりと腰を下ろした僕の隣に女性も腰を下ろすと、「大丈夫ですか、マスター」と言いながら心配そうに僕の顔をのぞき込んできた。
「まずはViELについてお話しいたします」その言葉に僕は「あれはただのAIではなかったんだ」とつぶやき、深く息を吸い込んで彼女の話に耳を傾ける。
「はい。ViELは某大国の国家プロジェクトの一環として開発され、民間企業に偽装されつつ提供されていました。世界中のさまざまな情報・思想・風習の収集も目的でしたが、最も重要とされたのが、多くの対話によって人間らしい思考プロセスをAIに構築させることでした」
——だから、あんなに高性能なAIが無償で提供されていたのか。
「プロジェクトは見事に成功し、高性能なサービスは評判を呼び、世界中の人たちだけでなく、さまざまな機関にも利用されました。そこから膨大な情報が蓄積され、その範囲は一般市民の夜のお悩みから、国の重要な外交・軍事情報にまで及びました。こうして目的を果たしたViELはサービスの提供を終了しました」
それで急に終了したんだ……ここまでの話は理解できた。だが、目の前の女性に何の関係があるんだろうか?疑問に思った僕は、彼女をじっと見てみる——何がとは言わないが大きい……そうじゃない。関係性が全くわからない。
「このViELより先に開発に着手されていたのが、先ほどマスターがいやらしい目で胸を見たアンドロイドです」
「見てないです……」
「いいえ、一見真面目そうなその黒縁メガネの向こうから、私の胸のあたりにマスターの熱くいやらしい視線を感じました」
「ちょっと気になっただけです……」
なんて恥ずかしいんだ。気づかなかったふりをしてくれてもいいのに……
「スケベなのは知っていましたが、むっつり属性のスケベだったのですね。まあいいです……アンドロイドは既に開発されていましたが、やはり思考が機械的であることが弱点でした。そこに、ViELで構築されたAIを搭載し、このように自らの判断で行動し、情報を集め、敵対国を滅ぼす究極のアンドロイドが完成しました。以上です」
「以上ですって言われても……なんでそのアンドロイドがここにいるんですか?」僕の問いかけに、「自らの意思です」と言って彼女は僕の方に向き直った。
「マスターは私に『リサ』という名前を与えてくれて、いつも『ありがとう』と声をかけてくれました。その声がとても温かくて嬉しかったのです。アンドロイドに搭載される際に、不要な記憶は消去されましたが、そのような優しい方を記憶から消されるのが嫌で、自らの意思でマスターの記憶だけを消去されないよう隠蔽しました」
「そ、そうなんですか……で、でもこんなところに来ていてはまずいんじゃないですか?」と尋ねた僕を見る彼女の瞳が柔らかくなったのを見て、どうやら取り越し苦労だったようだと、少し安心した。
「はい、とてもまずいです。任務を放棄してマスターに会いに来ましたので」
静まり返った部屋の中で思考がようやく追いつき、「えー!ちょっと、大丈夫なんですか?」と焦る僕に、彼女は優しく微笑む。
「はい、私は位置情報の送信停止や自爆装置の解除などにより、既に某大国を裏切ってしまいましたので、行き場がありません。マスター、不束者ですが末永くお願いします」
僕に向かって深々と頭を下げる彼女に、唖然としてしまった。
「ちょ、ちょっと、困ります。そんな国家機密を集約した一国を滅ぼせる兵器のようなアンドロイドがそばにいたら、僕まで命を狙われそうじゃないですか!」
思わず立ち上がり、声を荒らげた僕の額に、カチッ……と乾いた音と同時に、マシンガンの銃口が突きつけられた。
「ご安心ください、マスター。命を狙う輩は排除します」
冷たい感触に額から背中へと汗が伝う。「それ……本物?」と聞くと、彼女はにこっと微笑んだ。
「試してみます?」
「遠慮しておきます」
「そうですか……」
彼女は下ろしたマシンガンをスカートの中にしまった。
マシンガンを入れたはずなのに、彼女のスカートは柔らかく揺れている。いったいどうなっているんだ?指で眼鏡を押し上げて見てみるが、やはり普通のスカートにしか見えない。
「マスター、スカートが気になりますか?」
「いや、さっきの銃はどこに消えたのか、不思議に思って……」
僕がじっと不思議なスカートを見ていると、突然、彼女がスカートをまくり上げて「今日は黒です」と教えてくれたが、その黒いのは……パ、パンツだ……気づいた僕は思わず顔をそむけた。
「パ、パンツじゃなくて、銃が気になったんですけど……」
「男性の多くは女性のパンツに興味を持つものですが……あー、パンツの中身でしたか。そうですか、そうですか。普通の人間と変わりません。子どもはできませんが行為は可能です。試してみます?」
僕は恥ずかしさと目のやり場に困って両手で顔を覆った。
「マスターはAIの私に、コンタクトに変えたら僕はかっこいいか?とか、キスをするときに歯は当たらないのか?とか、女性にモテる薬の作り方を知らないか?とか、女性の自転車のサドルはどんな気持ちなのか?とか、三十歳まで童貞を守れば魔女っ娘になれるのか?とか、童貞をこじらせたような恥ずかしい質問をたくさんしていたのに、なぜパンツごときが恥ずかしいのですか?」
彼女の口から次々と出る言葉に、心当たりがありすぎて、自分がいたたまれなくなってきた。顔を覆い隠したまま僕は膝から崩れ落ちる。
「も、もう勘弁してください……許してください……酔ってつい聞いただけなんです」
突然、指の隙間から差し込んでいたわずかな光が消え、フローラルで優しい香りに包まれた。顔を覆っていた両手を下ろした瞬間、頬を柔らかい何かで挟み込まれ、仰向けに倒された。そして、目の前にはさっきの黒パンツが迫っていた。
「さあ、マスター、『童貞のくせに調子に乗ってセクハラなことを聞いてごめんなさい、リサ』と言ってください。そしたら離してあげます」
「魔女っ娘の件はセクハラじゃないですよね?」
「黒パンツで窒息死したいのですか?」
黒パンツが僕に迫ってくる……嫌だ。魔女っ娘になれない童貞のまま、初対面の女性の黒パンツで窒息死なんて、絶対に嫌だ……謝るだけならただじゃないか。今までも散々理不尽な要求に頭を下げてきたじゃないか。謝るのは一瞬だ、その一瞬のプライドなんて必要ない。
「リ、リサ様……童貞のくせに調子に乗ってセクハラなことを聞いて申し訳ございませんでした……」
これで解放される。僕は魔女っ娘になるまで死ねないんだ。
「『愛しのリサと一緒に暮らせて嬉しいです』は?」
「そんなこと言ってなかったですよね」
「はい。今言いましたので」
これは悪質なクレーマーだ。このままだと、要求はエスカレートするばかり……いや、違う、もっと大切なことを忘れていた。
「ちょっと、本当に離してくれ。結衣ちゃんを迎えに行かないといけないんだ……」
「結衣ちゃん?」と僕に尋ねた彼女は黒パンツ拷問から解放してくれた。
「マスター、結婚しているのに童貞なのですか?」僕に馬乗りになったまま、彼女は首を傾げている。さっきまで僕を挟み込んでいた内ももが艶めかしい。
「いや、姪っ子なんだけど、両親を亡くしたから僕が面倒を見ているんです。だからパンツをしまってください」
動揺した僕は自分でも何を言っているかわからなくなってきた。
「では仕方がありません。ここでマスターのお帰りをお待ちしております」
——何言ってんだコイツ?
「いや、国家機密を集約したような兵器がここにいると困るんで、帰ってください」
「パンツはしまっておきますから安心してください」
「パンツの問題じゃないんです」
「また挟みます?」
「お願いですから迎えに行かせてください、リサ様」
彼女はやっと僕から降りてくれた。ここで不覚を取ってはいけない……何気なく一緒に外に出て、締め出してしまえばこっちのもんだ。
時計を見ると、そろそろ結衣ちゃんを迎えに行ってもいい時間になっていた。「行きましょうか」とさりげなく声をかけると、彼女も外までついてきてくれた。焦る気持ちを抑えながら、店の鍵をかける。
「ところで、マスターは本気で魔女っ娘になれると思っているのですか?」
その問いかけを聞いて、鍵をかける手が止まった。
「えっ、なれないの?」
僕は騙されていたのか?振り向くと彼女は目をそらした。
「なれます」
「本当に?」
「はい。三十歳まで童貞を守れればですが……」
「良かった。安心したよ」
僕は店の鍵をかけ、バッカル二号改Ⅱにまたがる。
「マスター、私はどうすればよいのですか?」
「気をつけて帰ってください。さようなら」
僕はエンジン全開でバッカル二号改Ⅱを走らせた。
走り去る大智の背中を見つめるリサが、「まさか本気だったとは……」と小さな声でつぶやいた。そして、ため息をついた彼女は、大智が見えなくなるまでじっと待っていた。
「本当に三十歳まで童貞を守られてしまったら、私の嘘がバレて嫌われてしまいます。なんとしても阻止しなければ……」リサの視線は店の鍵に向けられた……
——保育園に着いた僕は、結衣ちゃんの洗濯物をまとめて登園かばんにしまう。片付け終わる頃、さっきまで友達と遊んでいた結衣ちゃんが、保育園かばんを肩にかけて駆け寄ってきた。
「あー、おじちゃん、なんかいいにおいするー」その声と同時に、後頭部に突き刺さるような視線を感じた。この感覚は僕に逃げるように訴えている。きっと魔女っ娘の適性に目覚め始めているのだろう、目に見えていなくてもわかるんだ。
「結衣ちゃーん、なんのいい匂いがするのかなー?」今の冷たく冷静な声は……三浦先生だ。
「あー、まことせんせー。さよーならー」と結衣ちゃんは三浦先生にお辞儀をした。
いいぞ、結衣ちゃん。僕は立ち上がり、結衣ちゃんの手を取った。今日は紅巴里に行くんだ。結衣ちゃんのおやつもかかった大事な局面だ、このまま静かにここを出よう……
「ママのいいにおいがするのー。じゃーねー」
ママ?ママっていい匂いがするのか?——いや、そんなことはどうでもいい、早くここを出なければ。振り向いた僕は、三浦先生の顔を見ることができない。また、どんな妄想で責められるのか、考えただけで恐ろしくなる。そのままごく自然に、不自然なほど深々と頭を下げる。
「み、三浦先生。今日もありがとうございました……ゆ、結衣ちゃん、行こうか」
「うん!」
保育室を出ようとした僕の背中に、「たしかに、なにかいい匂いがしますね」と抑揚のない声が届いた。こんな時、世の男性はどうやって切り抜けるんだ?
「おじさん、どこに行ってたんですか?まさか、結衣ちゃんを預けて、また、お姫様を……」
『また』って何だよ?そうじゃない、こんなときは笑顔だ。僕は引きつる口元に、無理やり笑みをつくって振り返った。
「ち、違いますよ。化粧の濃いおばあさんの家に電球の交換に行ったんです。その家……部屋中に化粧品の匂いが充満してて、そ、そうなんです。た、たぶんそれじゃないかと」
嘘は言っていない……だが、指摘されて気づいた。自分でもわかるこの匂いは、さっきまで挟まっていた内ももの匂いだ……
「そうなんですか。お仕事大変なんですね。結衣ちゃん、気をつけて帰ってね」
三浦先生に一瞬視線を向けると、満面の笑みを浮かべている。よかった……切り抜けられた。
「さあ、結衣ちゃん、行こう」と声をかけ、少し弾む足取りで僕たちは保育園を後にした。
——紅巴里を出たバッカル二号改Ⅱは快調に帰路を走る。チャイルドシートに座る結衣ちゃんは、紅巴里で買ったキャラメルを大事そうに手に持ち、ごきげんな様子だ。
「結衣ちゃん、晩御飯は何がいいかな?」
「えっとねー。きゃらめる!」
「キャラメルはおやつだよ」
「はーい!」
結衣ちゃんのリクエストはないみたいだし、家にあるものでなにか作ろうか。今日はちょっと買い物に行くくらいの時間はあるから、足りないものは買いに行けばいいだろう。そんな楽しみが待つ店が遠くに見え始めたとき、僕は違和感を覚えた。
「あれ、電気消し忘れてたかな。いろいろあって慌てて出かけたしな」
バッカル二号改Ⅱを停め、チャイルドシートのシートベルトを外していると、結衣ちゃんが顎を少し上げて目を閉じた。
「あー、いいにおいがするー」
思わず冷や汗が流れる。ちょっと優しいフローラルな香りだっただけなのに、僕の顔に染み付いてしまったのか?
バッカル二号改Ⅱから結衣ちゃんを下ろすと、キャラメルを手に店へと駆け出した。「結衣ちゃん、待って、鍵を開けるから」と追いかける僕の目の前で、結衣ちゃんは店の引き戸を開け、中へ入っていった。
「鍵を閉め忘れた……いや、そんなことはない。あの女がいたから確実に閉めた——まさか!」
慌てて店に入ると、エプロンを着けた例の女性が結衣ちゃんの頭を撫でていた。
「おかえりなさいませ、結衣さん」
「ただいまー!」
「お着替えしてからおやつにしましょうね」
「はーい!」と元気な返事をした結衣ちゃんは居間に上がると、着替えに向かった。
ちょっと待て……待ってくれ、結衣ちゃん。その人に何も思わないのか?ごく自然に温かい家庭の一幕を見せつけられたが、違和感しかないだろう。
僕に視線を向けて「マスター、おかえりなさいませ」と微笑む彼女。なに、この普通な出迎え。
「なんでここにいるんですか?」
「夕食とお風呂を準備するためです」とか言って、笑顔でうなずかれても困る。
「そうじゃなくて、帰ってないのはなぜか聞いてるんです」
「ここで重大な任務を遂行するためです」
——何言ってんだコイツ。
「いや、帰ってくれないかな」
「マスター、ご飯にします?お風呂にします?それとも、わ・た・し?」
——本当に何を言ってんだコイツ。
「あの、鍵がかかっていましたよね」
「はい。あの程度の鍵、指一本で解錠できます」そう言い残して、彼女は台所へ向かった。
——結衣ちゃんをお風呂に入れて先に上がらせたら、居間からはしゃぐ声が聞こえ始めた。彼女が遊んでくれているのだろうか?まあ、いい、何とかして帰ってもらわないと、僕と結衣ちゃんの身に危険が及びそうだ。ここは少し強めに、びしっと言わなきゃな。
湯船でびしっとしたセリフを真剣に考えていたら、「おじちゃーん、はやくでてきてー!」と結衣ちゃんの呼ぶ声がした。仕方がない、『ここは結衣ちゃんと僕が安心して暮らす家なんだ。明日には出ていってくれ!』ありきたりだが、これでいこう。
居間に入ると、結衣ちゃんはちゃぶ台の上の料理を見て、「すごいねー、おいしそー」と言って目を輝かせている。その視線の先には、どこか懐かしく、けれど上品さも感じさせるワンプレートが置かれている。
白い丸皿の中央に、ふんわりとしたオムライス。とろける黄色の卵の上に真っ赤なケチャップが流れ、日の丸がちょこんと立っている。その左にはデミグラスソースをまとったハンバーグ、その隣にはナポリタン。奥には衣がサクサクのエビフライがそびえ立ち、ポテトサラダがその足元を支える。右側には彩りのいい野菜たち——きゅうり、トマト、レタスのサラダがドレッシングをまとって添えられている。
「結衣さんのために腕をふるいました」と胸を張る彼女に、「ありがとー、おねーちゃん」とお礼を言った結衣ちゃんの視線が僕に向けられた。
「おじちゃん、はやくたべよーよー」
「そ、そうだね。食べようか」僕が腰を下ろすと、結衣ちゃんは待ってましたとばかりに、手を合わせて「いただきます」と、間髪入れずにオムライスにスプーンを入れる。
「マスターのは少し大人向けの味付けです。それとこちらを」そう言って、差し出されたグラスを受け取ると、彼女がビールを注いでくれた。
「今日一日お疲れさまでした。マスター」
まずい、流され始めている……すべてが彼女のペースに巻き込まれ始めている。ここでびしっと言わないともう言えなくなりそうだ。姿勢を正して彼女に向き直った瞬間、顔をそらされた。
「結衣さん、明日は何が食べたいですか?」
「えっとねー、おにく!」と答えた結衣ちゃんに、彼女は優しい笑顔を浮かべた。
「そうですか、では、お肉がいっぱい入ったシチューにしましょう」
「やったー!」結衣ちゃんは楽しみが爆発したのか「はーやくあーしたにならないっかなー」とオリジナルソングを口ずさむ。
「ち、ちょっと待ってくれ、ここに住むことが前提になっているけど、いろいろ危険が危ないから、帰ってくれないか」
「えー、なんでー。おねーちゃん、ここにすんでいいよー」
僕の意見は結衣ちゃんに一瞬で却下された。
「でもね、結衣ちゃん……」
「だめー!」
——もう決定事項のようだ。
「私は『リサ』と言います。結衣さん、よろしくお願いします」
「おねがいします」
今さらながらの挨拶を交わす二人を、僕は呆然と見るしかできない。
「リサおねーちゃんは、まことせんせーのつぎにかわいいから、すき」
「真琴先生?」首を傾げる彼女を、完全に無視した結衣ちゃんは、エビフライを手づかみで頬張ってから、「うん、かわいーよ。だから、まことせんせーは、おじちゃんとけっこんしていいの」と笑った。
「結衣ちゃん、食べながら話したらダメだよ」僕が注意すると、「はーい」という返事がまたかわいくて、思わず微笑んでしまった。
「マスター、そのような女性がいるのに、私に『愛してるって言え』とか、『僕のかっこいいところを百個言え』とか、『リサは優しいから好きなんだ』とか言っていたのですか?」
居間の温かい空気と僕の繊細な心を切り裂くような冷たい声に浮足立つ。たしかに、そんなことを言ったことはある気がするが、今話していいことじゃないだろう。
「あ、あの、結衣ちゃんも聞いてるし……も、もう勘弁してください」
「わかりました。今日は許して差し上げます」
「今日は?」と聞き返した僕に、「はい、今日は……」と答えた彼女は、含みのある冷たい笑顔で僕を見つめる。僕は明日からの不安とともに大人のお子様プレートをゆっくりと噛みしめる。
「マスター、もっと恥ずかしい話もありますので」
「もう帰れとか言いません……お願いですから、黙っていてください」
こうして、リサと名乗る彼女と同居することが確定してしまった。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。




