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保育園デビューとカレーな夕食

初めて結衣ちゃんを保育園に連れて行く朝、僕は三浦先生からもらったプリントを見ながら、登園かばんに着替えなどを詰める。

「保育園ってこんなに荷物が多いんだ……三浦先生にも迷惑かけてたな」

ひとりぶつぶつつぶやきながら、昨日の夜に準備しておけばよかったと後悔する気持ちを、心の奥に押し込める。

プリントにもう一度目を通し、忘れ物がないことを確認した僕は、ため息を一つついて柱の時計を振り返る。初めての準備に手間取ったせいか、もう、出発の時間の五分前になっていた。「そろそろ出かけないと」とひとりごとをこぼし、結衣ちゃんが待つ寝室へ向かう。

寝室の扉を開けると、朝ご飯を食べ終わって「おきがえするね」と言ってたはずの結衣ちゃんが、まだパジャマのままで遊んでいる。

「ゆ、結衣ちゃん……お着替えは?」青ざめる僕に、結衣ちゃんは「まだだよ。いまいそがしいの」と言って、タオルをかけたうさぎのぬいぐるみを寝かしつけている。

「結衣ちゃん、僕も手伝うから急いでお着替えしよう」

「もー、しかたないなー」

しぶしぶ立ち上がってくれた結衣ちゃんを大急ぎで着替えさせる。パジャマを脱がせて、靴下を履かせて、シャツを着せて……スカートってどっちが前なんだ?手が止まった僕に、結衣ちゃんがスカートを指差して、「こっち」と教えてくれる。

何とか着替えを済ませて、「よし!行こうか、結衣ちゃん」と声をかけると、嬉しそうにうなずいてくれた。


連絡手帳だけが入った保育園かばんを肩にかけた結衣ちゃんと店へ向かう。この家からは店を通らないと表に出られない。着替えの入った登園かばんを肩にかけ、靴を履かせようと屈んだ僕を、結衣ちゃんが困った顔で見ていた。

「どうしたの、結衣ちゃん?」と尋ねると、「おじちゃん、ぼうしは?」と返ってきた……しまった、帽子を忘れてた。

「ちょっと待ってて、取ってくるから」僕は靴を脱ぎ捨て、急いで寝室へ向かい、帽子を手に戻る。結衣ちゃんに靴を履かせて、登園かばんをバッカル二号改Ⅱの前カゴに積む。店の鍵を閉めて、結衣ちゃんをチャイルドシートに乗せようと持ち上げた瞬間。

「おじちゃん、おしっこー」

顔から血の気が引くのがわかる。急いで店に戻り、靴を脱がせてトイレに行かせた。——待っている時間が長い……これ、絶対間に合わないよな。

トイレから戻った結衣ちゃんに靴を履かせたあと、そのまま抱き上げてチャイルドシートに乗せた。

このチャイルドシートを装備したことで、『バッカル二号改Ⅱ』へと進化を遂げた愛車にまたがり、ペダルに足をかけ、指で眼鏡を押し上げる。

「よし!ひとっ走り行きますか!」

「いきますかー!」

勢いよく飛び出したバッカル二号改Ⅱは、排ガスを一切出さない、環境に優しいエンジンを全開にして加速する。

「わー!だいちおじちゃん、はやーい!」

結衣ちゃんが乗るチャイルドシートは、側頭部まで守るヘッドレストに、足を安全に保持するステップ、さらに五点式シートベルトを備えた高安全性のもの。なんとヘルメットも標準で装備されている。そして、雨天時にはレインカバーも取り付け可能で、バッカル二号改を『Ⅱ』たらしめる一万円超えの代物だ。

——だが、ペダルが重い……エンジンに過度な負担がかかっているのか、いつも以上に息が上がり、汗が吹き出してくる。しかし、ここで諦めるわけにはいかない。保育園への初めての送迎で遅れを取るわけにはいかないんだ。

「おじちゃーん!はやいー、もっとだしてー!」と後ろから聞きようによっては、ちょっといけない声援が届く。

「よーし、いくぞー!」とペダルを踏む脚に力を込めると、結衣ちゃんも「いってー!」と喜んでくれた。

さらにいけない感じの歓声を振りまくバッカル二号改Ⅱは、スピードを上げて保育園を目指す。


猛スピードで走らせたバッカル二号改Ⅱが、ドリフト気味に保育園の門を抜け、キイィィッと悲鳴のようなブレーキ音と土煙を上げて駐輪場に停車した。

「えー、もうおわりー?」つまらなそうに顔をしかめる結衣ちゃんを、バッカル二号改Ⅱから下ろし、ヘルメットを脱がせる。上がった息を整えつつ、帽子をかぶせてあごひもを留めた。

「結衣ちゃん、保育園に着いたから、また明日ね」

「ダメです!」

突然背中に届いた冷静ながらも険しい声に、流れていた汗が一気に冷えて引いた。そんな僕の目の前で、結衣ちゃんの視線が声の主へと向けられ、顔には満面の笑みを浮かべた。

「あー、まことせんせー、おはよーございまーす」かわいらしくお辞儀をする結衣ちゃんに、さっきとは違う優しい声がかけられる。

「結衣ちゃん、おはようございます。一人で準備できるかな?先生はおじさんとお話があるの」

「はーい!じゃーね、だいちおじちゃん」と手を振って駆け出した結衣ちゃんを振り返ってバイバイをする僕の視界の端に、口元を引きつらせた冷たい笑顔の三浦先生が映った。

「あんなに危ない運転で保育園に来てもらっては困ります!」と声を張り上げ、両手を腰に当てて、僕を厳しい視線で睨む三浦先生に、とっさに僕は深く頭を下げた。

「は、はい……すみません。遅れそうで急いでいたもので……」そのまま固まった僕に、さらに厳しい言葉が続く。

「電話だけくれれば遅れても大丈夫です。あんなスピードで飛び込んできて。だいたい、他の園児もいるんですよ。今日はたまたまいませんでしたけど、いつもならこの辺りで遊んでいる子どももいるんです。もう少し考えてください。それに、事故でも起こしたらどうするんですか?」

「そ、そうですね。僕も結衣ちゃんも事故で両親を亡くしたんでした……」そう言って、頭を上げた僕を見て、三浦先生は気まずそうに視線を逸らし、「あ、あの……そういうつもりで言ったわけじゃ……」と言葉を詰まらせた。

僕の言い方が悪かったせいか、気まずい雰囲気になってしまった。三浦先生に申し訳なくなった僕は「大丈夫です、事実ですから。明日から気をつけます」と言い残して保育園を後にした。


朝から三浦先生に叱られた僕は、少し肩を落としてバッカル二号改Ⅱで帰路につく。行きに全力で走ったことも重なって、ペダルを漕ぐ足が重い。

まあ、終わったことは仕方がない。若い女性に怒られたのは、僕へのご褒美だと思っておこう。

結衣ちゃんが通う『聖はむはむ保育園』は子どもたちの自由な発想を大切にする、私立の保育園だ。亜希義姉さんから『園長先生は少し変わってるけど、いい保育園』と聞いたことがある。

真琴先生と園長先生の配慮で、当面の間、結衣ちゃんはここに通えることになったが、正式には園長先生が僕の面接をしてから決定するそうだ。その三浦先生の説明を、僕は私立の保育園は親の面接もするんだなと感心しながら聞いた。

「さて、帰って洗濯を済ませて、実家に行きますか」そうつぶやき、指で眼鏡を押し上げた僕は、少しスピードを上げて家路を急ぐ。

店に戻った僕は、大急ぎで洗濯に取りかかり、干し終えた洗濯物を眺め、「ふー、子どもの洗濯物って意外と多いんだな」とひと息ついて時計を見ると、もうすぐお昼になる。視線を戻すと、風になびく子どもの服が妙にかわいく見えた。

「実家に行って結衣ちゃんの服を取ってこないと、雨でも降ったら洗濯が追いつかないぞ」

僕は重い腰を上げ、まごころ源号で実家に向かった。


——当然だが実家は静まり返っていた。心なしか湿気がこもり、少しかび臭いような気がしたから、荷物をまとめる間、窓を開け放って換気することにした。

二階の兄夫婦の寝室であった部屋へ行き、タンスを開けて結衣ちゃんの服を探してみたが、思っていたより少ない。

「もっとあってもおかしくないはずだけど……」とぼやきながら、とりあえず段ボール箱に結衣ちゃんの衣類を詰めていたとき、この部屋もなんとなく古い湿気のような匂いがすることに気づいた。

「換気しないとかびが生えそうだな……」と言いながら、窓を開けて振り返ったとき、ベッドのサイドテーブルに立てかけてあった写真が目に入った。兄夫婦に囲まれて笑顔の結衣ちゃんは、きれいな着物を身につけている。

「七五三かな?」と手に取った写真。この中の平凡な幸せも、もう戻らないのかと思うとなんとなく胸が痛む。他にも思い出のものがないかと思い、サイドテーブルの引き出しを開けてみた。

そこには……明るい家族計画の必需品、と噂に聞いたことのあるゴム製品が大量に入っていた。そして、その脇にはピンク色の卵型で、マッサージ機のはずなのに、実際にマッサージに使われているのを見たことがない、と評判の機械が転がっているのが目に入り、僕は思わず眼鏡を押し上げて再確認してしまった。

「兄さんと義姉さんのこんなところ知りたくなかったな……まあ、三十歳まで童貞を守って、魔女っ娘になる僕には関係ないか。リサもなれるって言ってたし」

ある意味思い出ではあるが、僕がもらっても使い方すら知らないから、ごみ袋に入れておいた。

「まったく、子どももいる部屋にこんなもの置いとくなよ……僕には何に使ってたか想像もつかないけど……いや、待て……」

僕は大事なことを見落としていた。ベッドが一つしかないのに毎日ここで三人が寝ていたとは思えない。立ち上がって部屋を見回して、「もしかすると、結衣ちゃんの部屋は別にあるんじゃないか?」と気づいた。二階を兄夫婦が使っていたらしいから、他の部屋も探してみることにした。

寝室の隣の部屋は、全体がかわいらしく飾られている。「ここが結衣ちゃんの部屋だな」床に転がったおもちゃや絵本の先にあるタンスとその上に飾られた写真が目に入った。

僕がタンスを開けてみると、思ったとおり結衣ちゃんの服がたくさん入っていた。子どもでも手が届く高さのこのタンスを、結衣ちゃんの部屋に置きたいと考え、持ち帰ろうと思ったが一人で一階まで運ぶ自信がない。

「結衣ちゃんの着替えが優先だな」

とりあえず中身だけを持ち帰ることにして、段ボール箱に詰め始めた。

全部詰めても、持ってきた段ボール箱が一箱余ったから、床に転がっているおもちゃと絵本を入れた。「そうだ、写真……」僕はタンスの上に飾られた写真を手に取る。ひな壇の前で笑顔の結衣ちゃんを見て、思わず目が細まる。

「ひな祭りか……でもこれ、一階の和室だよな……もしかして、ひな人形もあるのか?」そう思ってひな人形を探そうかとも考えたが、今日持って帰ってもすぐには使わないだろうし、とりあえずその写真だけを段ボール箱に収めておいた。

僕は荷物をまごころ源号の荷台に積み込んで、実家の戸締まりを済ませると、「まだまだ、荷物は多そうだな……誰かに手伝ってもらわないといけない……」とひとりぼやいて、その日は実家を後にした。


店に持ち込んだ荷物から、とりあえず結衣ちゃんの服を取り出し、タンスにしまった。

「すぐに大きくなるだろうし、これだけあれば、買い換えるころまで何とかなるだろう」

ふと、柱の時計に目をやると、もうお迎えに行く時間が迫ってる。

「こんなの毎日続けられるかな……」湧き上がった不安を打ち払うように、僕は両頬を手で叩いて気を持ち直す。「いや、たった二人残ったんだ、やらなきゃな」

僕はバッカル二号改Ⅱにまたがり、保育園へ向かった。


——保育園の駐輪場にバッカル二号改Ⅱを停めて、僕は保育園に入る。朝は三浦先生に怒られて建物の中に入る前に帰ったから、なんとなく緊張する。

他の親御さんたちもちらほら迎えに来ているようだけど、園児の割に少ないように感じるのは、ちょっと来るのが遅かったからだろうか?

「こんにちはー」僕の声が聞こえたのか、入り口脇の職員室から三浦先生が顔をのぞかせた。「待ってましたよ、おじさん」と笑顔で呼びかけてくれたが、三浦先生におじさんと呼ばれると、なんか違うおじさんに聞こえてしまうから不思議だ。パパって呼ばれるよりマシなのか?いや、呼ばれてみたい……かもしれない。そうだな、もし魔女っ娘になれなかったら、パパになるのも悪くない。

保育室に案内される途中、「朝はすみませんでした……」と三浦先生がつぶやくように口にした。

「い、いえ、悪かったのは僕なんで、結衣ちゃんのためにと張り切りすぎてしまいました」

三浦先生が丸めた手を口元に当てておかしそうに肩を揺らした。

「本当の親子みたいですね。結衣ちゃんも、おじさんの話ばかりしてました」

そうだったのか……ずっと胸につかえていた不安の一つが、三浦先生の言葉で少し和らいだ気がして、ほっとした。

「結衣ちゃーん、お迎えが来ましたよ」三浦先生が呼びかけると、窓際で友達と遊んでいた結衣ちゃんが、僕を見つけてにこりと笑った。

「おじちゃん、はやーい」と駆け寄ってきた結衣ちゃんを、僕は膝を折って抱きとめた。「お迎え早かったかな?」と尋ねる僕の顔を見て、結衣ちゃんは笑っているだけだが、この輝くような笑顔は何にも代えがたい。

「お二人ともお仕事されていましたから、もう少し暗くなってからのお迎えが多かったですね」と僕の後ろから三浦先生の落ち着いた声で教えてくれた。そうか、兄さんと義姉さんは同じ職場だったし、帰りも同じくらいの時間だよな。

ここで落ち込んだらだめだよな……僕が立ち上がって三浦先生に微笑み、「えっと……これから、どうしたらいいんですか?」と問いかけると、なぜか一瞬目をそらした三浦先生が、帰りの支度を教えてくれる。

「ここが結衣ちゃんの棚です。汚れたものは、そのビニール袋に入っていますので、忘れずに持ち帰ってください」

僕はビニール袋の中をのぞいてみたが、大して汚れていない。洗わなくても、もう一回くらい使えるんじゃないか?と考えた瞬間、「ちゃんと洗濯してくださいね」と念を押してきた三浦先生の声に、思わず苦笑いする。どうやら三浦先生にはお見通しだったようだ……

「あと、タオルにお名前がありませんでした。保育園に持ってくるものには、ひらがなで名前を書いておいてください」そう三浦先生に指摘され、僕はビニール袋からタオルを手に取り広げてみた。

「あっ、本当だ。書いたつもりだったんだけどな……」

膝の上にタオルを広げて、胸ポケットからマジックを手に取り、忘れないうちに名前を書き込んだ。ふいに「おじさんの名前を書いてもダメです」と三浦先生に言われて、膝の上のタオルを見ると『しのだだいち』と書いてしまっていた。

「あーあ、やっちゃったな……」と肩を落とすと、「だめです!」とかわいい声で結衣ちゃんにまでダメ出しされてしまい、思わず笑ってしまう。

このタオルは家で使おうと考えながら、畳んでいたら、三浦先生が「あの、おじさん……」と遠慮がちに声をかけてきた。ま、まさか『お小遣いちょうだい』なんて言われないよな……

「家のことは大丈夫なんですか?」

彼女の意外な問いかけに、「家のこと?」と僕が首を傾げると、三浦先生は指を折りながら「ご飯とか、洗濯とか、お風呂とか、掃除とか」と聞いてきた。予想は外れたが安心した。少し残念な気もする。

「僕もひとり暮らしが長いので、ある程度のことはできます。結衣ちゃんだって自分のことは自分でしてくれるもんね」と笑顔を向けた僕をじっと見た後、結衣ちゃんが「……うん!」と一瞬の間を空けてうなずいた。

その微妙な間に三浦先生から向けられた疑いの視線から逃れるように、「結衣ちゃん、帰ろうか」と手を差し出すと、結衣ちゃんは「まことせんせー、さようなら」とかわいくお辞儀をして、三浦先生の「はい、さようなら」の声を聞いてから、僕と手をつなぐ。

保育室を後にすると、結衣ちゃんは三浦先生に手を振りながらついてくる。結衣ちゃんと歩く僕を追うように、「ときどき様子を見に行きます。心配になりました」と三浦先生から声をかけられ、僕は小さくうなずいた。


駐輪場で結衣ちゃんの帽子を前カゴに入れ、ヘルメットをかぶせてからバッカル二号改Ⅱに結衣ちゃんを乗せる。シートベルトを締めながら「結衣ちゃん、おやつ買って帰ろうか」と話しかけると、結衣ちゃんは「やったー。べにぱりいくー!」と両手を上げて喜んだ。

紅巴里か……あの婆さん、まだ生きてるのか?そんな心配をしながら、バッカル二号改Ⅱにまたがり、指で眼鏡を軽く押し上げた。

「よし!じゃあ紅巴里に行きますか!」

「いきますかー!」

朝とは違って、ゆっくりとバッカル二号改Ⅱを走らせる。僕は『先生』と呼ばれる人の言うことは守るんだ。

「おじちゃん、もっとだしてー」と聞こえる結衣ちゃんのかわいいおねだりに心を揺さぶられるが、ここはじっと耐える。

「スピードを出すと、僕が真琴先生に怒られるんだよ」

「えー、つまんない」

あー……なぜだろう、心が折れそうだ……


『紅巴里』——相変わらずきらびやかなライトで飾られた看板だが、夜には店を閉めるんだから、このライトの必要性が僕にはわからない。中はありふれた雑貨屋で、僕が幼い頃から婆さんが一人で店を切り盛りしている。

結衣ちゃんをバッカル二号改Ⅱから下ろすとヘルメットをかぶったまま駆け出した。「ちょっと、結衣ちゃん、ヘルメット……」僕の声を無視して結衣ちゃんが「こんにちはー」と勢いよく店の引き戸を開けると、「あら、結衣ちゃんじゃないかい。久しぶりだねー」と店の中から懐かしい声が聞こえてきた。

僕も店に入ると結衣ちゃんが「ぱりまま、げんきー?」と婆さんに笑顔を向けていた。

「ああ、元気だよ。結衣ちゃんも元気そうで安心したよー」と答えた婆さんの目が僕に向けられる。

「あんたは……篠田さんとこの次男坊じゃないか……あのクソガキが大人になって……まったく、世の中狂ってるよ」

「婆さん……」と言いかけたところで、恐ろしい形相で睨みつけられた。「巴里ママもまだ生きてたんだ」と言い直した僕を巴里ママは睨みつけたままだ。ここでは大人になっても『巴里ママ』って呼ばされるんだ……

結衣ちゃんがお菓子を選び始めると、巴里ママが僕の元へ近づいてきて、「あんた、大変だったみたいだね」と耳元で囁いた。

「ああ、ようやく少し落ち着いたんだ」

うんうんとうなずいた巴里ママの視線が結衣ちゃんに向けられた。

「あの子はあんたが面倒見るのかい?」

「他の親戚は知らん顔だった。まあ、自営業の僕が一番適任だろうな」

「源さんの店を継いだんだったね。そうかい……まあ、頑張んな」

まさか、結衣ちゃんのおやつを買いに来て、僕が巴里ママに同情されて励まされるとは思いもしなかったな。

「おじちゃん、これー!」とふいに聞こえた声に振り向くと、結衣ちゃんが両手でおまけの付いたキャラメルを大事そうに持っている。懐かしいな、まだ売ってるんだ。

「これでいいの?」と問いかけると「うん!」とうなずく結衣ちゃん。キャラメル一個でこの笑顔……癒やされるな。

「じゃあ、巴里ママに渡してくれる?」とお願いすると、結衣ちゃんは「これくださいっ!」と元気よく巴里ママにキャラメルを差し出した。

「はい、ありがとうね。二百円だよ」という巴里ママの声に、僕は思わず吹き出した……

「二百円もするのか?」

「そうだよ。あんたの小さい頃とは違うんだ。かわいい結衣ちゃんが欲しがってんだから、ちゃきちゃき払いな」

にこにこと笑顔で僕を見ているが、言ってることはえげつないな、この婆さん……


財布から小銭を出していると、結衣ちゃんが「おじちゃん、カレー食べたい」と僕のズボンを引っ張った。そうだ、夕食のことを忘れてた……

「カレーか……明日でもいいかな?材料がないんだ」と戸惑う僕に「ちょっと待ちなよ」と言った巴里ママが、棚から何かを取り出した。

「これ、レトルトだけど、子どもに人気なんだ。どうだい?」

受け取った箱を見ると、『華麗なお姫様(甘口カレー味)』と書いてある。なんだこれ……

「なあ、巴里ママ……これ食えるのか?その前に、これ、カレーなのか?」

「失礼な坊主だね。カレーって書いてあるだろ。美味しいって評判なんだよ」

もう一度箱をよく見て、「どう見ても、甘口カレーの味がする華麗なお姫様としか読めないんだけどな……」とぼやく僕に、巴里ママは小さくため息をついた。

「まったく、これだから童貞の小僧は困るよ……お姫様、お姫様って、そんなにお姫様を買いたきゃ余所の店に行きな。それとも私が……」

「あーもう、買うよ。僕も食べるから二つくれ」

「ありがとさん」と笑う巴里ママの策略に、まんまとはまった気分だ……


「意外とうまいな……」僕は『華麗なお姫様(甘口カレー味)』をひと口食べて、思わずつぶやいた。

「結衣ちゃん、カレー美味しい?」と聞くと、結衣ちゃんは「おいしー!」と口の周りにカレーを付けた笑顔で答えてくれた。

それからは、結衣ちゃんが保育園での出来事をたくさん話してくれた。たまに出てくる名前の子が仲のいい友達なのだろうか?ともあれ、楽しそうに話す結衣ちゃんを見ていると、僕の励みにもなる。

そのとき、ガラガラ……と店の扉が開く音がした。「あれ、もう閉めてるのに、お客さんかな?」便利屋稼業の僕の店には夜でも困りごとを持ち込む客がたまにいる。

店に出ようとしたところで、居間の引き戸が開き、三浦先生が顔を見せ「こんばんはー。ご飯中でしたか、すみません」と申し訳なさのかけらもない笑顔で話しかけてきた。たしかに、たまに様子を見に行くとは言っていたが、まさか今日来るとは思わなかった。

「す、すみません。どうぞ、上がってください」

居間に三浦先生を招き入れ、僕はお茶を用意しに台所へ向かう。冷たいお茶をかわいい柄のコップに注いで戻ると、三浦先生の顔が険しくなっていた。

「ど、どうぞ。こんなコップしかなくて、すみません」僕が恐る恐るお茶を差し出して腰を下ろすと、三浦先生が冷たい目で僕を見た。

「おじさん、毎日レトルト食品なんですか?」と言った三浦先生の視線が『華麗なお姫様(甘口カレー味)』の空き箱に突き刺さった。

「いえ、今日は帰りにこれを勧められたので……たまたま……ねえ、結衣ちゃん」

三浦先生の気迫に押されて、思わず結衣ちゃんに助けを求めてしまった。結衣ちゃんは顔を上げ、にこっと三浦先生に笑った。

「うん。おじちゃんどーてー」結衣ちゃんのかわいい声が部屋の空気を一気に冷やすと同時に、三浦先生が恐ろしい目で僕を睨んできた。

「おじさん……なんてことを教えているんですか……」

「いや、ち、違う……紅巴里でお姫様を買わされた時に……」僕は焦って、大事な部分をいろいろ省略してしまった。

「紅巴里……お姫様を買った?おじさんそういう人だったんですか……」

「いや、華麗なお姫様の話で……誤解なんです」

「華麗なお姫様を買った童貞の話は、信用できません!」

恐ろしい剣幕で僕を睨みつける三浦先生にたじろいでしまう。な、なんでそうなるんだ……

「まことせんせー、これ」と結衣ちゃんが空き箱を三浦先生に手渡した。

「華麗なお姫様……甘口カレー味……結衣ちゃん、これ、何かな?」三浦先生の問いかけに、結衣ちゃんはスプーンにカレーをすくって、「これ、おいしいよ」と笑みを浮かべた。

「華麗なお姫様……結衣ちゃん、紅巴里って知ってる?」

「うん。ぱりままのおみせ」と答えた結衣ちゃんの言葉で、三浦先生が再び僕を睨んだ。

「紅巴里って、僕が小さい頃からやっている雑貨屋で、そ、そこの婆さんが子どもたちに自分のことを『巴里ママ』って呼ばせているんです」

「紅巴里……雑貨屋……」とぽつりとこぼした三浦先生の顔がみるみる紅潮していく。

「す、すみません。おじさん、私、勘違いしてしまって……」

「いえ、大丈夫です。謝らないでください」

「おまけに童貞なんて言ってしまって……」

「事実なので気にしないでください。巴里ママが僕に童貞って言ったのを、結衣ちゃんが聞いていたんだと思います」

三浦先生が顔を上げて、不思議そうに僕を見た。

「おじさん、童貞なんですか?」

し、しまった……僕はなんてことを言ってしまったんだ……そんな純粋無垢な顔で聞かないでほしい……

「は、はい。お恥ずかしながら……」

向かい合ったまま顔を真っ赤に染めた僕と三浦先生の間に沈黙が落ちた。

「おじちゃんとまことせんせー、けっこんしていいよ」と突然沈黙を破った結衣ちゃんの明るい声を聞いた三浦先生は、両手で顔を隠してしまった。

「け、結婚……でも、そういうのは、もう少しお互いを知って、それから手をつないで、お付き合いして……ダメです。そんな急に結婚なんて……それに私を養ってくれるほど収入がないと……ううん。収入はいいの……私だけを愛してくれて、おじさんが私を一番に思ってくれるなら……白馬の王子様にだって負けないと思うの……」

白馬の王子様に負けないおじさんは気になるが、とりあえず、何か暴走し始めた三浦先生に、「あ、あの……三浦先生……だ、大丈夫ですか?」と恐る恐る声をかけると、顔を上げた彼女は、僕と結衣ちゃんの顔を交互に見比べて、耳まで真っ赤に染め、「あの……今日は失礼します」と言い残して、逃げ出すように店を後にした。

「いったい何だったんだ……」三浦先生の勢いに押されて傾いた眼鏡を指で軽く押し上げた僕に、「だいちおじちゃん、カレーおいしいね」と笑顔の結衣ちゃんがスプーン片手に微笑んでくれた。

たった二人残った家族なんだ。精一杯支え合っていこう。そう誓った僕に、結衣ちゃんはカレーを食べながらいろんな話をたくさん聞かせてくれた。けれど、その話の中に兄さんと義姉さんの姿がまったく出てこないことが、僕の心を締め付ける。

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。

休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。

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