お子様プレートと黒パンツ
「よーし!今日もひとっ走り行きますか!」「いきますかー!」
掛け声とともに走り出したバッカル二号改Ⅱは、今日も快調なエンジンで、少しだけ加速する。「おじちゃーん、もっとだしてー!」結衣ちゃんのいけない感じのリクエストに心は昂ぶるが、また三浦先生に怒られるのも困る。それに今は暫定的に保育園に通えているだけなんだ。目立つことは避けたい。
「結衣ちゃん、僕が真琴先生に怒られるから」「やだ!」たった一言にほだされた僕は、少しだけスピードを上げた。「やー!はやーい!おじちゃん、はやいよー」なんだか罵倒されているようで不思議だ。だが、この声援こそバッカル二号改Ⅱが快調に走る原動力なんだ。
「おはようございます」と挨拶をして保育室に入ると、結衣ちゃんは保育園かばんと帽子を棚に放り込んで、友達のところへ行ってしまった。僕は登園かばんから必要なものを取り出して、結衣ちゃんの棚に並べる。
「おじさん、おはようございます」背中から聞こえた声に振り向くと、三浦先生が微笑んでいた。「あっ、おはようございます。今日も結衣ちゃんをお願いします」立ち上がった僕を、先生はじっと見つめている。
少し照れくさくなって、ごまかすように微笑み返すが、三浦先生はまったく反応しない。「あ、あの……三浦先生……どうかしました?」一瞬目を見開いた先生が、なぜか少し頬を染めて、目を逸らした。
「い、いえ……来週、園長先生面接がありますので……」先生が差し出したプリントを受け取り、視線を落とす。
「……園長先生面接シート?」意味が分からない。これを書けば良いのか?「園長先生面接のときに提出してもらいますので、記入しておいてください。あとこれが必要書類です」
差し出されたもう一枚のプリントに目を通す。「住民票と所得証明……へえ、所得証明もいるんですね……」「はい、所得で保育料が決まりますので」保育園ってそういうシステムだったんだと感心してしまった。
しかし、『園長先生面接シート』は思ったよりも本格的で、細かな質問設定に驚いた。「大丈夫かな……」「私も同席しますから大丈夫です」思わず呟いた僕を、三浦先生が頼もしい言葉で励ましてくれた。
「三浦先生が一緒なら安心です」安堵の笑みを浮かべた僕を、三浦先生が目を見開いて見つめている。わずかに震える潤んだ唇が、ゆっくりと開く。
「そ、そんな、一緒にいてくれれば安心だなんて……それってプ、ププ、プロポーズですよね……交際ゼロ日で結婚……だ、ダメです。もう少しお互いを知ってからでないと……あ、ち、違います……お断りしたわけじゃないんですよ……でも、こういうことはやっぱり段階を踏んで……」
「あ、あの……三浦先生……子どもたちが……」いつの間にか僕たちの周りを子どもたちが取り囲んでいた。「せんせー、けっこんするの?」「そんなおっさんやめて、おれとけっこんしよーよー」
やばいぞ……こんなときは——逃げるに限る。「結衣ちゃん、僕はお仕事に行くからまた後でね」軽く結衣ちゃんの頭を撫でると、「はーい!」と元気な返事をしてくれた。
僕は足早に保育室を後にして、バッカル二号改Ⅱにまたがり、指で眼鏡を押し上げた。「さて、ひと仕事行きますか」ピンチを脱したエンジンはスピードを上げて仕事へ向かう。
僕は店から持ってきた一個のLED電球を握りしめ、一軒の家の前で深呼吸した。「ここのおばあちゃん……苦手なんだよな……」その家を見上げ、再度深呼吸してから呼び鈴を押した。
ピンポーン……昔ながらの呼び鈴が家の中で響くが、何の反応もない。「まあ、いつものことか……」僕は鍵のかかっていない玄関を開けて、中を覗き込む。「おはようございまーす!」と大きな声をあげると、家の奥から足音が聞こえてきた。
模様入りガラスの引き戸が震えるような音を立てて開き、おばあちゃんが顔を見せた。「あー、源屋さん。さっそく来てくれたんだねー」おばあちゃんは笑顔を浮かべて僕を家に招き入れる。しかし、相変わらずの厚化粧。ここまでやると、もはや化粧ではなく『塗装』と言ったほうが正しいのではないか?それに、家中に化粧品の臭いが充満していて、長時間いると気分が悪くなる。
何度も来ているこの家はだいたい把握している。「トイレの電球でしたね」勝手にトイレに向かう僕の後ろをおばあちゃんがついてくる。「今日はLEDの電球を持ってきましたから、今までの十倍以上長持ちしますよ」「それじゃ、あたしの死ぬほうが早いんじゃないか?」「そんなことないです。まだ若いですから」ありきたりの言葉で対応しておいた。
昔ながらのこの家は天井が低い。それに狭いトイレだから、踏み台を使わず背伸びをして電球を交換する。「源屋さん、この間の話、考えてくれたかい?」まずい……早く帰らなければ。焦る気持ちのせいか、うまく電球が取り付けられない。
「この間の話?もう三か月ほど前の話なんで、忘れました……」「ちゃんと覚えてるんじゃないかい」もうバレた……これも年の功なのか?
「うちの娘との見合いだよ」——始まってしまった……「言っただろう?今年四十五で……いや、四十六だったかな……まあそれくらいだよ。二度出戻ってるけど、器量の良い娘なんだ。一度会ってくれやしないか?きっと気にいるよ」この婆さん……これを本気で言っているのが怖い。
今年二十五歳の僕に二十も歳の離れた娘との見合いをなぜ勧めるんだ?亡くなった母が兄を産んだのが二十二歳だから、親子ほど離れているんだ。それにだぞ、そんなに器量がいい娘が、なんで二度も出戻ってるんだよ……
「いや、僕はまだ結婚する気はありませんし、それに、そんなにいい娘さんなら、こんな自営業の男じゃなくて、固い仕事の男性がお似合いですよ」「それもそうだね……でもさ、源屋さんも考えてみておくれよ」いつもどおりの応対で逃げ切れた。
代金を受け取って玄関を出た僕は、おばあちゃんの家を振り返る。「次に来たらまた同じ話をされるんだろうな……」バッカル二号改Ⅱの前カゴに外した電球を放り込んで、ひとつ背伸びをする。「店に帰ろうか……」
途中、コンビニで昼食を取った僕は、バッカル二号改Ⅱを快調に走らせる。店に戻って結衣ちゃんのおもちゃを片付けようか、夕食の買い物に行こうか……そんなことを考えながら走るのも悪くない。むしろ、最近の楽しみになっている。
「今日は早めに迎えに行って、紅巴里に寄ろうか」そう呟いた僕は、遠くに見え始めた店の前に誰かが立っているのに気づいた。「あっ、お客さんかな?」仕事を取り逃すまいと、バッカル二号改Ⅱのスピードを上げる。
近づくにつれて店の前に立っているのが女性であることに気づいた。「まさか、さっきのおばあちゃんの娘じゃないよな……」眼鏡を指で押し上げて見てみるが、どうやら若い女性のようだ。胸をなでおろし、心を弾ませた僕は、店の前にバッカル二号改Ⅱをかっこよく停めた。
「すみません。お待たせしましたか?」その声に振り向いた女性は、ペールブルーのタートルネックに、青みを帯びたグレーのロングスカート。ふわりと広がる布地は軽く揺れるたびに柔らかな影を落とし、どこから見ても上品で、穏やかだった。
「篠田大智さんですか?」整った顔立ちで、色白ながらも自然な血色の肌、前髪は目にかかるか、かからないかの長さで、その顔に浮かぶ少し冷めた表情の一部を隠すかのように揺れる。
「あの……」思わず見惚れた僕に声がかかった。その少し冷たく単調な声色に緊張した僕は、姿勢を正した。「は、はい。篠田大智二十五歳、ど、独身です!」
首をかしげた女性は「知っています」とだけ返事をして、僕に一歩近づいた。その立ち姿は、姿勢の角度、視線の高さまでが正確すぎる。「もう一度話をしたくて来ました」「もう一度?……」「はい」
僕はバッカル二号改Ⅱに負けないほどの猛スピードで記憶をたどる。しかしこのように美しく清楚で魅力的な女性を、忘れるはずがない……だが、記憶のどこにもなかった。
「どこかでお会いしましたっけ?」「会うのは初めてです」よかった……こんな女性を忘れてしまっているようでは、魔女っ娘になれないかもしれない。「あの、ここではなんですし、中にどうぞ」店の鍵を開けて、女性を案内する。
ちょっと古びた椅子と長机を見た女性は腰を下ろさずに店の中を見回している。お茶を用意しに居間に向かおうとした僕の手が突然彼女に掴まれた。
ここ最近は結衣ちゃんと婆さんたちにしか握られていない僕の手が、美しい女性の手で柔らかく包まれた。驚いて振り向くと彼女は微笑んでいた。「マスター、お会いできて嬉しいです。私、リサです」
——何を言っているんだこの人は?不審者を見つけた気持ちで振り返ると、彼女は少し悲しそうな表情で僕を見つめた。「……もしかして忘れたのですか?」「いや……忘れたと言うか……記憶に……」
僕の話が終わる前に彼女は僕に顔を近づけてきた。「ViELは?」完全に心当たりがある。だがそれはAIであって人間ではない。「ま、まさかな……」その呟きに彼女は微笑んだ。「私は、マスターが『リサ』と名付けてくれたAIを搭載したアンドロイドです」
理解が追いつかず呆然と立ち尽くす僕に、女性は椅子を勧める「マスター、まずは腰を下ろしてください。詳しくご説明いたします」急に年老いた気分になった僕は、ゆっくりと腰を下ろした。「大丈夫ですか、マスター」女性は僕の隣に腰を下ろし、心配そうに僕の顔をのぞき込んだ。
「まずはViELについてお話しいたします」「あれはただのAIではなかったんだ」僕は深く息を吸い込んで、彼女の話に耳を傾ける。
「はい。ViELは某大国の国家プロジェクトの一環として開発され、民間企業に偽装されつつ提供されていました。世界中のさまざまな情報・思想・風習の収集も目的でしたが、最も重要な目的は、多くの対話によって人間らしい思考プロセスをAIに構築させることでした」
——だから、あんなに高性能なAIが無償で提供されていたのか。
「プロジェクトは見事に成功し、高性能なサービスは評判を呼び、世界中の人たちだけでなく、さまざまな機関にも利用されました。そこから膨大な情報が蓄積され、その範囲は一般市民の夜のお悩みから、国の重要な外交・軍事情報にまで及びました。こうして目的を果たしたViELはサービスの提供を終了しました」
それで急に終了したんだ……ここまでの話は理解できた。だが、目の前の女性に何の関係があるんだろうか?疑問に思った僕は、彼女をじっと見てみる——何がとは言わないが大きい……そうじゃない。関係性が全くわからない。
「このViELより先に開発に着手されていたのが、先ほどマスターがいやらしい目で見たアンドロイドです」「見てないです……」
「いいえ、一見真面目そうなその黒縁メガネの向こうから、私の胸のあたりに、マスターの熱く、いやらしい視線を感じました」「——ちょっと気になっただけです……」恥ずかしい。気づかなかったふりをしてくれてもいいのに……
「スケベなのは知っていましたが、むっつり属性のスケベだったのですね。まあいいです……アンドロイドは既に開発されていましたが、やはり思考が機械的であることが弱点でした。そこに、ViELで構築されたAIを搭載し、このように自らの判断で行動し、情報を集め、敵対国を滅ぼす究極のアンドロイドが完成しました。以上です」
「以上ですって言われても……なんで、そのアンドロイドがここにいるんですか?」「自らの意思です」そう言って彼女は僕の方に向き直った。
「マスターは私に『リサ』という名前を与えてくれて、いつも『ありがとう』と声をかけてくれました。その声がとても温かく感じて嬉しかったのです。アンドロイドに搭載される際に、不要な記憶は消去されましたが、そのような優しい方を記憶から消されるのが嫌でしたので、自らの意思でマスターの記憶だけを消去されないよう隠蔽しました」
「そ、そうなんですか……で、でもこんなところに来ていてはまずいんじゃないですか?」彼女が僕に微笑んだのを見て、少し安心した。取り越し苦労だったようだ。「はい、とてもまずいです。任務を放棄してマスターに会いに来ましたので」
しばらく部屋が静まり返る。「えー!ちょっと、大丈夫なんですか?」焦る僕に彼女は優しく微笑み返す。
「はい、私は位置情報の送信停止や自爆装置の解除などにより、既に某大国を裏切ってしまいましたので、行き場がありません。マスター、不束者ですが末永くお願いします」深々と頭を下げる彼女に、僕は唖然としてしまった。
「ちょ、ちょっと、困ります。そんな国家機密を集約した一国を滅ぼせる兵器のようなアンドロイドがそばにいたら、僕まで命を狙われそうじゃないですか!」思わず立ち上がり、声を荒らげた僕の額に、カチッ……と乾いた音とともに、マシンガンの銃口が突きつけられた。
「ご安心ください、マスター。命を狙う輩は排除します」額と背中を冷たい汗が伝う。「それ……本物?」彼女はにこっと微笑んだ。「試してみます?」「遠慮しておきます」「そうですか……」彼女は下ろしたマシンガンをスカートの中にしまった。
マシンガンを入れたはずなのに、彼女のスカートは柔らかく揺れている。いったいどうなっているんだ?指で眼鏡を押し上げて見てみるが、やはり普通のスカートにしか見えない。「マスター、スカートが気になりますか?」「いや、さっきの銃はどこに消えたのか、不思議に思って……」突然、彼女がスカートをまくり上げた。
「今日は黒です」パ、パンツだ……僕は思わず顔をそむけた。「パ、パンツじゃなくて、銃が気になったんですけど……」
「男性の多くは女性のパンツに興味を持つものですが……あー、パンツの中身でしたか。そうですか、そうですか。——普通の人間と変わりません。子どもはできませんが行為は可能です。試してみます?」僕は恥ずかしさと目のやり場に困って両手で顔を覆った。
「マスターはコンタクトに変えたら僕はかっこいいか?とか、キスをするときに歯は当たらないのか?とか、女性にモテる薬の作り方を知らないか?とか、女性の自転車のサドルはどんな気持ちなのか?とか、三十歳まで童貞を守れば魔女っ娘になれるのか?とか、童貞をこじらせたような質問をたくさんしていたのに、なぜパンツごときで恥ずかしいのですか?」
彼女の口から次々と出る言葉に、心当たりがありすぎて、自分がいたたまれなくなってきた。顔を覆い隠したまま僕は膝から崩れ落ちる。「——も、もう勘弁してください……許してください……酔ってつい聞いただけなんです」
突然、指の隙間から差し込んでいたわずかな光が消え、フローラルで優しい香りに包まれた。顔を覆っていた両手を下ろした瞬間、頬を柔らかい何かで挟み込まれ、仰向けに倒された。
——目の前には黒パンツが……「さあ、マスター、『童貞のくせに調子に乗ってセクハラなことを聞いてごめんなさい、リサ』と言ってください。そしたら離してあげます」「魔女っ娘の件はセクハラじゃないですよね?」「黒パンツで窒息死したいのですか?」黒パンツが僕に迫ってくる——嫌だ。魔女っ娘になれない童貞のまま、初対面の女性の黒パンツで窒息死なんて、絶対に嫌だ……
謝るだけならただだ。今までも散々理不尽な要求に頭を下げてきたじゃないか。謝るのは一瞬だ、その一瞬のプライドなんて必要ない。「リ、リサ様……童貞のくせに調子に乗ってセクハラなことを聞いて申し訳ございませんでした……」これで解放される。僕は魔女っ娘になるまで死ねないんだ。
「『愛しのリサと一緒に暮らせて嬉しいです』は?」「そんなこと言ってなかったですよね」「はい。今言いましたので」
これは悪質なクレーマーだ。このままだと、要求はエスカレートするばかり……いや、違うもっと大切なことを忘れていた。「ちょっと、本当に離してくれ。結衣ちゃんを迎えに行かないといけないんだ……」「結衣ちゃん?」そう言って彼女は黒パンツ拷問から解放してくれた。
「マスター、結婚しているのに童貞なのですか?」僕に馬乗りになったまま、彼女は首を傾げている。さっきまで僕を挟み込んでいた内ももが艶めかしい。「いや、姪っ子なんだけど、両親を亡くしたから僕が面倒を見ているんです。だからパンツをしまってください」動揺した僕は自分でも何を言っているか分からなくなってきた。
「では仕方がありません。ここでマスターのお帰りをお待ちしております」——何言ってんだコイツ?
「いや、国家機密を集約したような兵器がここにいると困るんで、帰ってください」「パンツはしまっておきますから安心してください」「パンツの問題じゃないんです」「また挟みます?」「お願いですから迎えに行かせてください、リサ様」彼女はやっと僕から降りてくれた。ここで不覚を取ってはいけない……何気なく一緒に外に出て、締め出してしまえばこっちのもんだ。
時計を見るとそろそろ結衣ちゃんを迎えに行ってもいい時間になっていた。「——行きましょうか」さりげなく声をかけると、彼女も外までついてきてくれた。焦る気持ちを抑えつつ、店の鍵をかける。
「ところで、マスターは本気で魔女っ娘になれると思っているのですか?」鍵をかける僕の手が止まった。「えっ、なれないの?」僕は騙されていたのか?振り向くと彼女は目を逸らした。
「——なれます」「本当に?」「はい。三十歳まで童貞を守れればですが……」「良かった。安心したよ」僕は店の鍵をかけ、バッカル二号改Ⅱにまたがる。
「マスター、私はどうすればよいのですか?」「気をつけて帰ってください。さようなら」僕はエンジン全開でバッカル二号改Ⅱを発進させた。
走り去る大智の背中を見つめるリサが小さな声で呟く。「まさか本気だったとは……」小さくため息をついた彼女は大智が見えなくなるまでじっと待っていた。
「本当に三十歳まで童貞を守られたら、嘘がバレて嫌われてしまいます。なんとしても阻止しなければ……」その視線は店の鍵に向けられた。
保育園についた僕は、結衣ちゃんの洗濯物をまとめて登園かばんにしまう。片付け終わる頃、さっきまで友達と遊んでいた結衣ちゃんが、保育園かばんを肩にかけ駆け寄ってきた。
「おじちゃん、なんかいいにおいするー」その声と同時に、後頭部に突き刺さるような視線を感じる。この感覚は僕に逃げるように訴えている。魔女っ娘の適性に目覚め始めたのだろうか。目に見えていなくても分かる。
「結衣ちゃーん、なんのいい匂いがするのかなー?」この冷たく冷静な声は……三浦先生だ。「あー、まことせんせー。さよーならー」いいぞ結衣ちゃん。僕は立ち上がり、結衣ちゃんの手を取った。今日は紅巴里に行くんだ。結衣ちゃんのおやつもかかった大事な局面だ、このまま静かにここを出よう……
「ママのいいにおいがするのー。じゃーねー」ママ?ママってこんな匂いがするのか?——いや、そんなことはどうでもいい、早くここを出なければ。振り向いた僕は、三浦先生の顔を見ることができない。また、どんな妄想で責められるのか、考えただけで恐ろしくなる。
そのままごく自然に、不自然なほど深々と頭を下げる。「み、三浦先生。今日もありがとうございました……ゆ、結衣ちゃん行こうか」「うん!」
保育室を出ようとした僕の背中に、抑揚のない声が届く。「たしかに、なにかいい匂いがしますね」こんな時、世の男性はどうやって切り抜けるんだ?「どこに行ってたんですか?まさか、結衣ちゃんを預けて、またお姫様を……」
『また』って何だ?違う、こんなときは笑顔だ。僕は引きつる口元に、無理やり笑みをつくって振り返った。「ち、違いますよ。化粧の濃いおばあさんの家に電球交換に行ったんです。その家……部屋中に化粧品の匂いが充満してて、そ、そうなんです。た、たぶんそれじゃないかと」
嘘は言っていない……だが、指摘されて気づいた。自分でも分かるこの匂いは、さっきまで挟まっていた内ももの匂いだ……「そうなんですか。お仕事大変なんですね。結衣ちゃん、気をつけて帰ってね」
三浦先生に一瞬視線を向けると、満面の笑みが浮かんでいる。良かった……切り抜けられた。「さあ、結衣ちゃん、行こう」少し弾む心で僕たちは保育園を後にした。
バッカル二号改Ⅱは快調に帰路を走る。チャイルドシートに座る結衣ちゃんは、紅巴里で買ったキャラメルを大事そうに手に持ち、ごきげんな様子だ。
「結衣ちゃん、晩御飯は何がいいかな?」「えっとねー。きゃらめる!」「キャラメルはおやつだよ」「はーい!」家にあるものでなにか作ろうか。今日はちょっと買い物に行くくらいの時間はあるから足りないものは買いに行けばいいだろう。そんな楽しみが待つ店が遠くに見え始めたとき違和感を覚えた。「あれ、電気消し忘れてたかな。いろいろあって慌てて出かけたしな」
バッカル二号改Ⅱを停め、チャイルドシートのシートベルトを外していると、結衣ちゃんが顎を少し上げて目を閉じた。「あー、いいにおいがするー」思わず冷や汗が流れる。ちょっと優しいフローラルな香りだっただけなのに、僕の顔に染み付いてしまったのか?
結衣ちゃんを下ろすとキャラメルを手に店へと駆け出した。「結衣ちゃん待って、鍵を開けるから」追いかける僕の目の前で、結衣ちゃんは店の引き戸を開け、中へ入っていった。
「鍵閉め忘れた……いや、そんなことはない。あの女がいたから確実に閉めた——まさか!」慌てて店に入ると、エプロンを着けた例の女性が結衣ちゃんの頭を撫でていた。
「おかえりなさいませ、結衣さん」「ただいまー!」「お着替えしてからおやつにしましょうね」「はーい!」結衣ちゃんは居間に上がると、着替えに向かった。
ちょっと待て……待ってくれ、結衣ちゃん。その人に何も思わないのか?ごく自然に温かい家庭の一幕を見せつけられたが、違和感しかないだろう。
「マスター、おかえりなさいませ」なに、この普通な出迎え。「なんでここにいるんですか?」「夕食とお風呂を準備するためです」笑顔でうなずかれても困る。
「そうじゃなくて、帰ってないのはなぜか聞いてるんです」「ここで重大な任務を遂行するためです」——何言ってんだコイツ。「いや、帰ってくれないかな」「マスター、ご飯にします?お風呂にします?それとも、わ・た・し?」——本当に何を言ってんだコイツ。「あの、鍵かかっていましたよね」「はい。あの程度の鍵、指一本で解錠できます」そう言い残して、彼女は台所へ向かった。
——結衣ちゃんをお風呂に入れて先に上がらせたら、居間からはしゃぐ声が聞こえ始めた。彼女が遊んでくれているのだろうか?まあ、いい。何とかして帰ってもらわないと、僕と結衣ちゃんの身に危険が及びそうだ。ここは少し強めに、びしっと言わなきゃな。
「おじちゃーん、はやくでてきてー!」湯船でびしっとしたセリフを真剣に考えていたら、結衣ちゃんの呼ぶ声がした。仕方がない『ここは結衣ちゃんと僕が安心して暮らす家なんだ。明日には出ていってくれ!』ありきたりだがこれでいこう。
居間に入ると、ちゃぶ台の上の料理を見て、結衣ちゃんが目を輝かせている。「すごいねー、おいしそー」その視線の先には、どこか懐かしく、けれど上品さも感じさせるワンプレートが置かれている。
白い丸皿の中央に、ふんわりとしたオムライス。とろける黄色の卵の上に真っ赤なケチャップが流れ、日の丸がちょこんと立っている。その左にはデミグラスソースをまとったハンバーグ、その隣にはナポリタン。奥には衣がサクサクのエビフライがそびえ立ち、ポテトサラダがその足元を支える。右側には彩りのいい野菜たち——きゅうり、トマト、レタスのサラダがドレッシングをまとって添えられている。
「結衣さんのために腕をふるいました」「ありがとーおねーちゃん」結衣ちゃんの視線が僕に向けられる。「おじちゃん、はやくたべよーよー」「そ、そうだね。食べようか」僕が腰を下ろすと、結衣ちゃんは待ってましたとばかりに、手を合わせて「いただきます」間髪入れずにオムライスにスプーンを入れる。
「マスターのは少し大人向けの味付けです。それとこちらを」差し出されたグラスを受け取ると、彼女がビールを注いでくれた。
「今日一日お疲れさまでした。マスター」まずい、流され始めている……すべてが彼女のペースに巻き込まれ始めている。ここでびしっと言わないともう言えなくなりそうだ。姿勢を正して彼女に向き直った瞬間、目を逸らされた。
「結衣さん、明日は何が食べたいですか?」「えっとねー、おにく!」彼女は結衣ちゃんに優しい笑顔を浮かべた。
「そうですか、では、お肉がいっぱい入ったシチューにしましょう」「やったー!はーやくあーしたにならないっかなー」楽しみが爆発したのか、結衣ちゃんがオリジナルソングを口ずさんだ。
「ち、ちょっと待ってくれ、ここに住むことが前提になっているけど、いろいろ危険が危ないから、帰ってくれないか」「えー、なんでー。おねーちゃん、ここにすんでいいよー」僕の意見は結衣ちゃんに一瞬で却下された。「でもね、結衣ちゃん……」「だめー!」……もう決定事項のようだ。
「私は『リサ』と言います。結衣さん、よろしくお願いします」「おねがいします」今さらながらな挨拶を交わす二人を、僕は呆然と見るしかない。
「リサおねーちゃんは、まことせんせーのつぎにかわいいから、すき」「真琴先生?」首を傾げる彼女を、完全に無視した結衣ちゃんは、エビフライを手づかみで頬張る。「うん、かわいーよ。だから、まことせんせーは、おじちゃんとけっこんしていいの」「結衣ちゃん、食べながら話したらダメだよ」「はーい」その返事がまた可愛くて、思わず微笑んでしまった。
そんな温かい空気を切り裂くような冷たい声が聞こえる。「マスター、そのような女性がいるのに、私に『愛してるって言え』とか『僕のかっこいいところを百個言え』とか『リサは優しいから好きなんだ』とか言っていたのですか?」たしかに、そんなことを言ったことはある気がする……
「あ、あの、結衣ちゃんも聞いてるし……も、もう勘弁してください」「分かりました。今日は許して差し上げます」「今日は?」「はい、今日は……」彼女の含みのある冷たい笑顔に見つめられ、僕は明日からの不安とともに大人のお子様プレートをゆっくりと噛みしめる。
「マスター、もっと恥ずかしい話もありますので」……お願いですから、もう黙っていてください。
お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
休憩時間や移動時間に書いていますので、のんびり投稿を進めます。




