迷子の子犬と天使たちの午後
早めに仕事を終わらせた僕とリナは、結衣ちゃんを迎えに行く前に片付けを済ませようと意気込んで店の扉を開ける。
「ただいまー」
「今帰ったぜー」
同時に声をかけて店に入ると、カウンターに陣取っているリサが、ものすごい剣幕で睨みつけてきた。
「マスター、最近リナとの距離が近すぎるのではありませんか?」
「そんなことないと思うけどな」
「そうだぜ、今日も親方には一回しかチューしてないからな」
「おい、リナ。一回もしてないだろ」
「にひひひ、どうだったかなー」
おい、リナ……リサをおちょくるのが楽しいのはわかるけど、僕を巻き込むなよ……と思っていたら、「えーんえーん」とリサの嘘泣きが始まった。
絶対にリナが適当なことを言ってるのを分かってやってるよな。僕が二人におちょくられてるんじゃないのか?
「マスターはひどすぎます。お嫁さんの私は一度もしたことないのに」
もう、どこからどう突っ込んでいいのかわからないことを言い出したリサを無視して、椅子に腰を下ろすと、リナは「飲み物を取ってくるぜ」と居間に向かった。
嘘泣きしているリサを構うことなく、僕の膝によじ登ろうとしてきたリゼに「リゼ、膝に座るなよ」と言って拒むと、彼女は「断る!」と言って、無理やり割って入ってくる。
「人の膝に座っておいて、どうせまた口が臭いとか言うんだろ」
「我はそんなこと言った覚えはない」
「いや、ミニコミ誌に書いてただろ」
「あれはネタだ」と言いながら膝に登ろうとするリゼに、僕が「だめだ、座らせない」と強い口調で拒否したら、彼女は顔をしかめて泣き出してしまった。ちなみにリサもまだ嘘泣きを続けている。
「親方、二人とも泣かせたのか?」リナがニヤニヤしながらジュースを手渡してくれた。
まあ、いつものことかと諦めて僕がジュースを飲もうとした隙に、リゼが膝によじ登ってきた。呆れる僕の顔を上目遣いで見た彼女はにっと笑った。
「なんだよ、リゼも嘘泣きだったのかよ」
僕がため息まじりに漏らすと、リゼは「くさっ!」と顔をそらした。僕は黙ってコップを机に置いて、リゼを持ち上げて膝から下ろした。
「臭いなら座るなよ」
「むむ、主様は我を不快にさせた……」
「リゼ、そんなことばかりしていたら、親方が抱っこしてくれなくなるぞ」
リナの言葉を聞いたリゼは顔を伏せて、口を尖らせた。
「それは困る……主様、我が悪かった……許してもらう代わりに財布をよこせ」
もう言っている意味がわからないから無視していたら、リゼは僕の手を取って胸に押し当てた。
「ちょっ、リゼやめろよ」と拒否するような言葉を放ちながらも、僕は無意識に動いてしまう指を必死に抑え込む。
「ふふふ……童貞は反応がいい……元気になったのをリサにバラされたくなかったら財布をよこせ」
なんだよ、この新手の恐喝は……仕方なくポケットから財布を取り出した瞬間、リゼは僕の手から財布をひったくり、店の扉へと駆け出した。
「リゼ、ちょっと待て」
「うるさい。リサ、主様の何かを元気にしておいてやった」
リゼはそう叫んで扉を閉めると、走り去ってしまった。
リサがドンと大きな音を立てて「マスター、リゼに何をしたのですか?」と言って立ち上がる。さっきまで嘘泣きしてたくせに、僕を冷めた表情で見つめながら近づいてくる。
「べ、別に……僕はなにもしてないけど……」
「なぜ口ごもるのですか?」
「リサ、親方は何もしてないぜ。あたいは見てたんだ」
割って入ってきた声を聞いて、助かったリナ……と胸をなでおろしつつ彼女を見ると、両手をワキワキと動かしながらニヤリと表情を歪めた。
「リゼのちっさいおっぱいをもみもみしただけだ!安心しろ」
リサが鋭い目つきでキッと僕を睨みつける。リナ……せめて最後の安心しろだけでも言わないでほしかった……
「そうですか、そうですか。もみもみしたいのでしたらまず私からではありませんか?」
「あたいは寝てる親方に何度かもみもみされてるぜ!」
リナが燃料を投下したせいで、リサの目つきがさらに鋭く恐ろしくなってしまった。
「リ、リサも一回あるよな、そ、そうだほら、一緒に買い物に行った時にさ」
「あれはもみもみではなく、掴まれただけです。さあ、マスター。今すぐここでもみもみしてください」
「いや、おかしいだろ……」そう言って、リナに視線を向けると、彼女はそっぽを向いてしまった。いったい、リナの目的は何だったんだ。
「さあ、マスター。今すぐここで私を床上手にしてください」
リサはさらに意味がわからないことを言い始めた。
まともに相手をしていたらリゼに逃げられると思い、リサを無視して追いかけようと僕が店の扉の前に立った時、チリチリチリーンと音を立てて扉が開いた。
「篠田くん、いる?」
「宮坂……違った、立花さん?どうしたんですか?」
僕の視線の先で立花さんは扉を開けた手をそのままに、肩で息をして深刻な表情で僕を見ている。その顔はどこか血の気が引いているようにも見えた。
「どうしたんですか?顔色が悪い……」と言いかけた僕の胸に、立花さんがすがるようにしがみついてきた。フローラルな香りが僕の鼻腔をくすぐり、なんだか嬉しくなった。
「篠田くん、助けて……お願い……お願い……」そう何度も言いながら、涙を浮かべて上目遣いで僕を見つめる立花さん……小学生の頃、運動会で立花さんを好きになったことを思い出して、心がときめいてしまった。
なぜこんなに僕を……はっ、もしかしてこれは……『篠田くん、私……夫から逃げてきたの……』『何があったんですか?立花さん』『美緒って呼んでくれなきゃイヤ……』『み、美緒。何があったか教えてくれるかい?』『今は聞かないで……夜になったら話すから』——ハッピーエンド。
立花さんをそっと抱き寄せようと腕を上げた時、突然、後頭部を殴られた。振り向くとリサが「エロ」と言って拳を握りしめている。リナは呆れた顔で僕を見ている。二人は何か勘違いしてないか?素敵なロマンスじゃないか。
「おい、美緒、親方がエロになるから、とりあえずこっちに座れよ」
リナの声を聞いて小さくうなずいた立花さんは、僕を突き放すと、つかつかと打ち合わせテーブルに向かった。それより、エロってなんだよ。
腰を下ろした立花さんに、リサが「お茶を用意してきますから、少し落ち着いてください」と声をかけると、リナは「親方、ここに座って話を聞けよ」と隣の椅子を引いた。
僕を置き去りにして、動き始めた店内の空気に、僕は一瞬で現実に引き戻される。ロマンスは興ざめしてしまい、黙ってリナの隣に腰を下ろし、暗い顔の立花さんに向き合った。
——まごころ堂源屋に美緒が駆け込んでいた、ちょうどその頃、リゼは軽い足取りで商店街に向かっていた。
「主様はいつまで口が臭いと書かれたのを根に持つつもりなのだ……」
そう言って、リゼはポケットにしまった財布を取り出すと、中身を見て顔を緩ませた。
「ふふっ、今日は主様からの小遣いがたくさんある。結衣姫の新しい服を買おう……あと、我の眼帯と包帯も買い換えよう」
ひとり言を呟きながら歩くリゼの耳に「へっへっへっ」と聞こえてきた。
リゼが立ち止まって振り返ると、黒い柴犬の子犬が彼女の足元に近づいてきた。
「うむ、犬がリードをつけて我に散歩を乞うなど百年早い……出直せ……」
子犬にそう言い聞かせて、再び歩き始めたリゼの後ろを子犬はついてくる。
リゼが立ち止まると、子犬も立ち止まり、歩くとついてくる。
「我についてきても何もやらん……」と振り向いたリゼの前に、子犬はちょこんと座ると、舌を出して「へっへっへっ」としっぽを振った。
「か……かわいい……」
思わずしゃがみこんだリゼをじっと見つめながら、「へっへっへっ」と息をする子犬に、そっと手を伸ばしてみた。
つぶらな瞳でじっとリゼを見つめる子犬……ゆるゆるの顔で子犬を撫でながら観察するリゼ……その子犬は全身真っ黒の毛並みだが、額の部分にだけ白い一筋の模様があるのを見つけた。その白い部分をなぞるように触ってみると、子犬が小首を傾げた。
「ふへっ」思わず情けない声を上げたリゼは、子犬がつけているリードを手に取り立ち上がった。
「仕方ない……お前がそう言うなら、我がちょっとだけ散歩の相手をしてやろう……」
ゆるゆるの顔で歩き始めたリゼの横を、ちょこちょことついて歩く子犬に彼女は視線を落とした。
「お前では呼びにくい……何かいい名をつけてやらねば……」
リゼは横をついて歩く子犬を見てみる。真っ黒な毛並みに、額にある一筋の白い模様。丸まったしっぽを左右に振りながら、つぶらな瞳でリゼを見て歩く。
「うむ……ケルベロス……いいと思う……お前の名前は冥府の番人『魔獣ケルベロス』だ」
小首を傾げて見つめながらついてくる魔獣ケルベロスを見て、リゼはにやりと表情をゆるませた。
「人類を影から支配する主様の下僕たる我の従魔にふさわしい名前だ。よし、魔獣ケルベロス、闇の使命を負いし我ら、共に商店街へ行くぞ!」
張り切るリゼに「あんっ」と答えた魔獣ケルベロスは、少し歩みを早める彼女の後ろをピョコピョコ駆けてついて行く。
——落ち着きを取り戻したまごころ堂源屋では、リサ、リナ、それに立花さんと僕が打ち合わせテーブルを囲んでいた。いたたまれない雰囲気の中、僕は夫婦の話に深入りするのはよくないだろうと思い戸惑っていた。
「それで、何があったんですか?」
リサが話を切り出すと、美緒は悲しそうな表情を浮かべ、かぼそい声で話し始めた。
「実は……最近飼い始めた柴犬の虎太郎がいなくなっちゃって……」
「なんだ、犬か。そんなもんすぐ帰ってくるだろ」
「リナ、そんな言い方しちゃだめじゃないか」
つまらなそうに言ったリナを僕が注意すると、リナはそっぽを向いた。
「篠田くん……いいの。リナさんの言うとおりかもしれないから……でも、虎太郎は今日がお散歩デビューなんです……」
「なるほど、それなら賢い犬でも帰る家がわからなくなっているかもしれません」
リサが難しい表情を浮かべたのを見て、立花さんはさらに表情を暗くした。
「事情はわかりました。でも、探すにしても何も手がかりがないんじゃ……」
そう言いかけた僕の声を遮るように、立花さんが嗚咽を漏らし始めた。
「どうしよう……虎太郎が跳ね飛ばされて、川に落ちて流されたりしたら……」
涙を流す立花さんが、妙に可愛くて思わず見とれていたら、隣りに座るリサが「エロ」とか言いながら、いきなり僕の頬をつねった。
「美緒、泣いてないで写真とかあったらくれよ」
「それが、スマホを家に置いてきちゃって……ちょっと近所を散歩するだけのつもりだったから……」
「では、こうしましょう。美緒さんの証言を元に私たち三人がイラストにしましょう」
リサはスカートからペンと紙を取り出し、すごくいい案を出したかのように胸を張っているが、それは無駄な時間になると思うぞ。
「よし、じゃあ描くか。美緒、犬の特徴を教えてくれよ」
リナの声を聞いた立花さんは、こくりとうなずいてから話し始めた。
「黒い柴犬で、赤い首輪とリードをつけてます」
「見た目は普通の柴犬ですか?」
リサがペンを走らせながら尋ねる。だが、僕は腑に落ちない……だって、立花さんに描いてもらえばいいだけじゃないか。
「はい、子犬なのでころころした体型ですけど……」
「他に特徴はないのか?」
リナが問いかけると、立花さんは何かを思い出したかのように顔を上げた。
「全身真っ黒なんですけど、額にだけ縦に白い模様があります」
「なるほどね……名前を呼んだら反応するんですか?」
もし名前を覚えていてくれたら、呼びながら探せばいいだろうと思い、尋ねてみたら、立花さんは首を横に振った。
「いえ、まだ覚えていないので、あまり反応しません」
何気に探すハードルが高くないか?でも、黒い柴犬なんて野良犬ではいないし、首輪とリードを付けているならわかりやすいか……
リサが「できました!」と高らかに声を上げて見せた紙には、こけしが描いてある。立花さんが「こけしですか?」と首をひねると、リサは「こけしです」と胸を張った。
「あたいもできたぜ!」リナが見せたイラストは龍が火を吹いている。「ドラゴンですか?」立花さんが尋ねると、リナは「かっこいいだろ」と得意げな顔をした。
「マスターのも見せてください」リサが言い出すと、リナも「親方早く見せろ!」とまくし立てる。こんな大喜利会場みたいなところで、真面目に描いた絵を出すのは気が引ける……恐る恐る絵をテーブルに出すと、全員が首を傾げた。
「猫?」立花さんが呟くと、リナも「にひひひ、これじゃ子どもが描いた猫だな」とうなずいた。リサは少し頭をひねっていたが、急に手を打ち鳴らし「これは影千代です」と言ってスッキリした表情を浮かべた。
「でも、この中では篠田くんのが一番近いかな……」
立花さんはそう言ったけど、そりゃそうだろう。リナのは火を吹くドラゴンだし、リサに至っては生き物ですらない。
「では、マスターの絵をコピーして、それを手がかりに探しましょう。そして捕まえたら『影千代』と名付けます」
「あ、あの……リサさん……虎太郎です」
リサは立花さんを無視して、ひったくるように僕の絵を奪い、コピーを取り始めた。
「まあ、絵は手がかりになるかわからないけど、探しに行こうか」
僕がそう言って立ち上がると、リサは僕とリナと立花さんに影千代の絵を配った。
「私は店にいますので、何かあったら店に連絡してください。一時間後にここに戻ってきてください」
なぜか場を仕切り始めたリサの指示に従い、僕たち三人は手分けして虎太郎の捜索に向かった。
——しっぽとお尻を左右に振りながらぴょこぴょこ歩く魔獣ケルベロスと、その後ろを右目に眼帯、左手に包帯、ゴスロリ衣装のリゼがついて行く。
八百五郎の前を通りかかったとき、おかみさんと会話をしていた女性客が、突然目を見開いて「なに、あの子……」と震える声で呟くと、おかみさんが振り返った。
「ああ、リゼちゃんだね。毎日のようにここを歩いてるんだけど、子犬をつれてるのは初めて見たね」
「か、かわいい……前を歩くワンちゃんも、連れてる子も尊いわ……」
「そうだね、かわいらしいね。あれは……」
視線に気づいたリゼと魔獣ケルベロスは足を止めた。潤んだ瞳でこっちを見つめる二人を見て、リゼが首を傾げると魔獣ケルベロスも「クンッ」と鳴いて首を傾けた。
「て、天使がいる……」
「ああ、天使だね……」
リゼは右手で眼帯を押さえ、体を斜めに構えると二人を睨みつけた。
「天使ではない。これは魔獣ケルベロス……冥府の番犬……」
「魔獣でもなんでもいいわ……かわいすぎて眩しいくらい……」
「リゼちゃんも、かわかっこいいよ……」
そんな二人の声を聞いて気分をよくしたリゼは、にんまりと微笑んで八百五郎を後にした。
かわいさ全開で商店街の注目の的となっているリゼとケルベロスに、「おっ、リゼちゃんじゃないか!」と威勢のいい声がかかった。
リゼが足を止め振り向くと、笑顔で手を振るウオノメ鮮魚店の大将とおかみさんが目に入った。
「あれっ、リゼちゃん、ペットを飼い始めたのかい?」
おかみさんの声を聞いたリゼは、得意げな表情を浮かべながら店の前に歩み寄った。
「否、これはペットではない。我に仕えし従魔……」
「おう、そうか……なんか、おっかねえもん連れてんだな」
思わず気後れした大将の横で、おかみさんはしゃがみこんで魔獣ケルベロスの頭を撫でた。
「それで、このワンちゃんの名前はなんだい?」
「ワンちゃんではない……魔獣ケルベロス……」
「ケルベロスって、そうか……なんか、おっかねえ名前なんだな」
「ま、まあ、リゼちゃんらしくて、ケルベロスちゃんか、私はいいと思うけどね」
「魔獣ケルベロスは我の深淵たる闇の力に惹きつけられて、この世に召喚された……闇同士は引き合う宿命……」
リゼの話を聞いた大将とおかみさんの額を汗が伝う。それを見たリゼは再び得意げな顔を浮かべ歩き始めた。
「おう、なに言ってるかわからねえけど、気をつけていきなよ」
そう言って見送る大将に、リゼは片手を上げて応じると、魔獣ケルベロスをともなって立ち去った。
——遠慮がちに「すみません」と声をかけながら、紅巴里に入った美緒を見て、巴里ママが微笑んだ。
「あんたは、宮坂さんとこのお嬢ちゃんじゃないか、どうしたんだい?」
「あ、あの、巴里ママ、この子犬見ませんでしたか?」
美緒が差し出した紙を見た巴里ママは「これは猫じゃないのかい?」と怪訝な表情を浮かべた。
「あ、えっと……こんな感じの犬です」
「猫みたいな犬かい?見てないよ、そんなもん見かけたら絶対忘れないからねえ」
「もし見かけたら、まごころ堂源屋に連絡してもらえませんか?」
「ああ、あのクソガキのところだね。任せておきな」
そう言ってうなずいた巴里ママに頭を下げた美緒は店の扉に手をかけると、「お願いします」と言い残して、紅巴里から駆け出していった。
——そのころ、僕は「おーい、虎太郎!」と町中で大声を轟かせて駆け回っていた。店を出てからずっと探しているが、全く見つかる気配がない。
「もしかすると、商店街の方に行ったんじゃないか……」そう呟いて、僕は商店街に向うことにした。
「おーい、虎太郎!」何度も声をかけながら歩いていたら、小さな声が聞こえたような気がした。
立ち止まって、周りを見渡すが犬どころか猫一匹見当たらない。
「虎太郎、いるのかー!出てこーい!」声を張り上げたら、後ろから「ダーリン」という声が届いた。嫌な予感がして振り向くと、どすどすと土煙を上げて近づいてくる物体が目に映った。
「ダーリン!見つけたザマスー!」
間違いない、あれは怪人ザマスだ。思わず「う、うわー!」心から悲鳴を上げて逃げ出すが、怪人ザマスはどんどん近づいてくる。
全力で走って逃げるが、後ろから「待つザマスー、ダーリン」と声が近づいてくる。後ろを振り返ると明らかに距離が縮まっている。
「うわっ」何かにつまづいてバランスを崩した僕に、「あぶないぞー」と流暢な声が聞こえた。直後、旗をなびかせて走ってきた電動シニアカーに僕は跳ね飛ばされた。
宙に浮いた体が肩から地面に叩きつけられ、ごろごろと何回転かして止まった僕が見たのは、旗をなびかせて走り去る電動シニアカー……ひ、ひき逃げじゃないか。
「ダーリン、手当してあげるザマスー」と舌舐めずりをする怪人ザマスが迫ってくるのを見て、僕は現実に引き戻された。
「に、逃げなきゃ。食われる」
僕は立ち上がって再び駆け出した。
——必死に逃げる大智を知らないリナは、退屈そうに川沿いを散歩していた。
「犬なんて、黙ってても帰ってくるからほっときゃいいのに」
立ち止まったリナは、自動販売機でジュースを買って飲み始めた。
「どうせ、親方が美緒にいい格好したかっただけだぜ。めんどくせーし、帰ろうかな」
ジュースを飲み終えたリナが、ゴミかごに空き缶を放り込むと、カランと軽やかな音を立てた。その音に続けて叫び声が聞こえ、リナは振り返った。
「うわー、く、来るなー!」悲鳴を上げながら走る大智の後ろを、「童貞をよこすザマスー!」と叫びながら怪人ザマスが追いかけている。
「にひひひ、親方、面白いことになってんな」
リナが遠目で見ていると、つまづいた大智がコケた。そのまま大智の姿は見えなくなったが、怪人ザマスがUターンして走り去るのを見て、リナは腹を抱えて笑い出した。
「にひひひ、な、何やってんだ親方は。こ、これは……お、面白すぎるぜ!」
ひとしきり笑い転げたリナは、息も絶え絶えに立ち上がる。
「あー、面白いものを見れたぜ。そろそろ帰るか」
リナは缶ジュースをもう一本買って、まごころ堂源屋に向かって歩き始めた。
——買い物を済ませたリゼが店から出てくると、魔獣ケルベロスは店の前でじっと座って待っていた。
「うむ、それでこそ我が従魔……ご飯は後だが……」
そこまで話したリゼは、「今はこれを飲め……」と買い物袋からペットボトルの水を取り出した。
少しずつ水を手のひらにすくい、魔獣ケルベロスに飲ませる。水を飲むたびに、ぴちゃぴちゃとかわいく響く音に合わせて手のひらが舐められる。
「くくくっ」と思わず笑い声を漏らしたリゼの目に映る、水を飲む魔獣ケルベロス……『か、かわいい……』その叫び声は、かろうじて心の中に留められたが、紅潮したデレデレの顔は隠さずに魔獣ケルベロスを見つめる。そんな崇高な姿は行き交う人の視線を自然に集めていた。
魔獣ケルベロスを連れてまごころ堂源屋に戻る途中、「リゼちゃん!」と声をかけられて立ち止まった。
「こっちだよ」と聞こえてきた声の方を振り向くと、肉の三段腹の看板の下で笑顔の大将が手招きしているのが見えた。
「出たな、変態ロリコン肉屋……」
悪態をつきながらリゼが近寄ると、大将の視線は魔獣ケルベロスに向けられた。その顔は変質者のようにでれている。
「へえ、かわいいリゼちゃんにお似合いのかわいい犬じゃねえか。これで結衣様も一緒に歩いてたら、俺は萌え死するところだったぜ」
「きもい……我をエロい目で見ていいのは、我が主様だけ……」
リゼが買い物袋で胸を隠したのを見て、「源屋さんは、エロい目で見てるのかよ……」と大将の笑顔は凍りつき、リゼの頬はほんのり染まる。
「いや、そうじゃねえよ……あっ、そうだ、ちょっと待ってな」
そう言い残して店の奥に入った大将は、何かを手に持って戻ってきた。
「これ、馬肉ジャーキーだけど、無添加のいいやつなんだぜ。ケルベロスに食べさせてやるぜ」
そう言ってジャーキーを差し出した大将を見て、リゼは嘲笑し、顔をそむけた。
「魔獣ケルベロスはそんなものを食べない……冥府の番人たるもの人間の魂しか喰らわないのが当然……」
「おっかねえもん食ってんだな……でもよ、馬肉ジャーキーもおいしそうに食べてるぜ」
夢中になって馬肉ジャーキーを食べている魔獣ケルベロスを見たリゼは、「むー」っと漏らして顔を真っ赤にした。
「そ、それを……それを我にも寄越せ……」
「おう、リゼちゃんも食べさせてみなよ。かわいいぜ」
大将から受け取った馬肉ジャーキーを、リゼが恐る恐る差し出すと、魔獣ケルベロスがはむっとかぶりついた。
「よかったな、ケルベロス。これはすげー高級肉なんだぜ」
「か、かわいい……」でれでれの表情で魔獣ケルベロスに食べさせるリゼ。その様子を見て身を悶えさせる大将。そんな二人と一匹を見て、にこやかな表情を浮かべて商店街を歩く人々。
微笑ましい雰囲気が漂い始めたぴより野商店街で、魔獣ケルベロスはリゼと肉の三段腹の大将に、お腹いっぱい馬肉ジャーキーを食べさせてもらった。
——チリンチリン……なんとなく元気がない音を立てて扉が開き、まごころ堂源屋に美緒が入ってきた。肩を落とした彼女は、カウンターに陣取り電話の受話器に手を載せたままじっと座っているリサを見た……
「テレクラ?」思わず漏らした美緒をリサは冷めた目で見た。
「なにを言っているのですか?そんな言葉、いまどき誰も知りませんよ。これはマスターからの電話を一秒以内に取るために構えているのです」
「リサさん、それじゃ、まんまテレクラですよ」
リサは美緒に視線を向けて、「影千代は見つからなかったのですか?」と首を傾げた。
「リサさん……虎太郎です……見つかりませんでした……」
「そんなに気を落とさないでください。戻ってきているのは美緒さんだけです」
「そ、そうですよね……」と美緒がため息をついた時、再び店の扉が開き、「おっす!」と元気のいい声が聞こえた。
その声色を聞いて期待を込めて振り向いた美緒の目に、笑顔のリナが映る。
「リナさん、虎太郎は?」
「いなかったぜ、でも親方は見つけたぜ。なんか怪人ザマスに追いかけられてた」
そう言って胸を張るリナと、それを聞いてさらに肩を落とす美緒を見て、リサは席を立った。
「あとはマスターだけですが、そんなことをして遊んでいるようでは、影千代は探せていないでしょう。今は少し落ち着いてください」
リサはスカートからお茶とコップを取り出してテーブルに並べた。
「リサさん……虎太郎です……」
三人が同時にため息をつき、テーブルを囲んだ。
チリンチリン……疲れ切ったような音を立てて扉が開くと、そこにはずぶ濡れになった大智が立っていた。
「し、篠田くん。大丈夫?」
心配する美緒の声に、リサとリナがクスクスと笑う声が交じる。
「マスター、影千代を探しに行ってなぜそんなに濡れているのですか?」
リサが笑いをこらえながら尋ねると、大智は「はあー」とため息をついた。
「いや、必死に走ってたらつまづいて……転んだ拍子に土手を転がり落ちて……」
「えー、篠田くん大丈夫?」
「そのまま川に落ちて……結構下流まで流された……」
我慢の限界を迎えたリナが大声で笑い始めた。
「お、親方、すげースピードで怪人ザマスに追いかけられてたもんな。にひひひ」
「おい、リナ、見てたんだったら助けろよ。後ろを振り返った時には、どっかのじいちゃんが運転する暴走電動シニアカーにひき逃げされたんだぞ」
声を荒げる大智を見て、リナは彼を指差して腹を抱えて笑い始めた。
「なるほど、影千代を探しに行って、ザマスに見つかってはねられたのですね。さらに川に流されるとは……さすが私のマスターです」
「リサ、感心するなよ……あいつ、あの体型でめちゃくちゃ足早いし、捕まったら食われるんじゃないかと思って怖かったんだぞ」
「にひひひ、それでコケて川に落ちたのか。にひひひ、どんだけ必死だったんだよ」
「篠田くん、ごめんね。風邪ひいちゃうから、着替えてきて」
美緒の優しい声が震えているのを聞いた大智は少しうつむいた。
「立花さん、ごめん。見つけられなかった」
「仕方がありません。あんな下手な絵で探せというのが無茶だったのです」
そう言ってため息をついたリサを大智が睨むと、彼女は顔をそらした。
——チリンチリン、心地よい音を奏でて開いた扉に、その場の全員が振り向くとリゼが立っていた。
「主様……なぜ濡れている……まさか、我を辱めることを想像して……そんな姿に……」
頬を染めながら不思議そうに大智を見つめるリゼの足元に、黒い柴犬がぺたんと座った。
「影千代!」
「虎太郎!」
リサと美緒の声が同時に響くと、リゼは怪訝な表情を浮かべ二人を見た。
「なにを言っている……これは我の従魔、魔獣ケルベロス……」
「魔獣ってそんなにかわいいのか?」
リナが笑顔で尋ねると、リゼはムッとした表情を浮かべた。
「今は世を忍ぶ仮の姿……人の魂を喰らうと本性を表す……」
「か、影千代はそんな恐ろしい魔物だったのですか……」
足を震わせるリサを見てリゼは鼻を高くした。わざとらしく怯えるリサの隣で美緒が深く頭を下げる。
「ありがとう、リゼさん。虎太郎を見つけてくれて……」
顔を上げ、右手を差し出した美緒を見て、リゼは「断る……それとこれは魔獣ケルベロス……」と言ってリードを引いた。
「リゼ、影千代は美緒さんの従魔なんです。返しなさい」
「リサさん……影千代でもありませんし、従魔でもありません……」
「いやだ……」
「リゼ、その犬をみんなで探していたんだぜ、美緒に返してやってくれよ」
リゼはうつむいて「いやだ……」とつぶやき、涙をこぼした。
「リゼ、かわいいのは分かるけど、その子は立花さんの飼い犬なんだ。返してやってくれないか」
体を震わせ涙を流すリゼの足元で、魔獣ケルベロスがくるくると回り始めた。
魔獣ケルベロスの様子を見たリサが、「見てください、マスター」と大智に抱きついた。
「あっ、濡れました……マスター責任を取って、今晩私を床上手にしてください……」
頬を染めたリサを見て、大智は深くため息をついた。
「しないよ。それより何を言いたかったんだ?」
「そうでした。影千代は今、地磁気を探っているのです」
「地磁気を、探る?」目を見開いた大智を見てリサは彼の手をそっと握った。
「そうなんです。とても恐ろしい能力なのです……」
「い、いったい何が起こるんだ……」
固唾を呑んで見守る大智とリサの前で、ピタリと止まった魔獣ケルベロスは、後ろ足をきゅっと曲げて腰を落とした。くるりと巻いたしっぽがわずかに揺れると同時に、魔獣ケルベロスは真剣な顔を浮かべた。
「ま、まさか……う、うそだろ……」大智がつぶやくと、リサは大智を優しく胸に抱き寄せ、深くうなずいた。
「そうですマスター、うんこをします」
直後、店の床に転がり落ちた暗黒物体を見たリゼが、「返す……」とリードを突き返すと、美緒は「あ、ありがとう」とリードを受け取った。
リゼは大智に視線を向けると、恥ずかしそうに目を細めた。
「主様、我は魔獣ケルベロスをこの女に返した……我を褒めよ……」
「リゼ、先にそのうんこを片付けろよ」
「断る……魔獣ケルベロスはこの女の従魔となった……我が片付ける必要はない」
「リゼが片付けないとだめだ」
「嫌だ……」と口を尖らせてそっぽを向いたリゼを見て、リサが声をかける。
「リゼ、早くうんこを片付けてください。マスターは私とお風呂に入らなければいけません」
「そうだぞリゼ、うんこをしただけで犬を手放すとかダメだぞ」
「我には関係ない……そう言うならリナが片付ければいいだけ……」
「あ、あの……私が片付けますから……リゼさんは虎太郎を無事に連れ帰ってくれましたから」
そう言って腰を落とした美緒を見て、「ちょっと待って」と慌てて止めに入ろうとする大智のシャツを、リサが「いけません、マスターは私のものです」と言って後ろから引いた。
その拍子に足を滑らせた濡れ濡れの大智が倒れ込んできた。「きゃっ!」とかわいい悲鳴を上げて間一髪で避けた美緒を、リナが抱きとめる。
バタンと大きな音を立てて倒れた大智を、リサ、リナ、リゼ、そして美緒が青ざめた顔で見た。
リサが震える声で「み、みなさん……」とつぶやくと、大智を見つめるみんながうなずいた。
「逃げてください!」リサの掛け声と同時に全員が店の外に駆け出す。
「主様、汚い……」リゼは口を手で抑えて走り去る。
「篠田くん、ごめんなさい。また今度お礼するね」美緒は虎太郎を抱き上げて、必死に走る。
「マスター、結衣さんの迎えに行ってきます」リサは一番星号に乗り込む。
リナは体を起こした大智を見て「にひひひ、親方、シャツにうんこがついてるぞ」と指を差して笑ったあと、大智に背を向けて駆け出す。
自分のシャツにベッタリとついたうんこと、床にこびりついたうんこを見て大智は青ざめた。
「帰るまでにそのうんこをなんとかしておいてください」
そう言い残して、リサは一番星号のスピードを上げて走り去った。
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