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壊れた眼鏡と源屋の定休日

日曜日、まごころ堂源屋の定休日の朝。いつもよりゆっくりとみんなで朝食を楽しんだ後、僕は店の打ち合わせテーブルの椅子に腰を下ろしていた。

せっかくの休みなのになぜ店に出ているかというと、朝食後にリナが道具の整理を始めたからだ。いちおう「明日でいいだろ」と声をかけたけど、彼女は「少し片付ける」と言い張って聞かなかった。

僕も手伝おうとしたら、今度は「親方は座って見てろよ」と言われたので、仕方なく座って様子を見ている。

しばらくすると「ふーっ、終わったぜ」なんて言いながら、リナは袖で額を拭ったけど、まだ十分も経っていない。いったい何がしたかったんだ?と、首を傾げている僕を振り返ったリナが、にこっと笑ってこっちに歩いてきた。

「親方、いいか?」

リナは僕のすぐ隣に椅子を移動し、ぴったりと寄り添って腰を下ろした。

「どうしたんだ?」

「なあ、親方。あたいは女らしくないのか?」

唐突に何を言い出すんだなんて思っていたら、リナが僕の左腕にぎゅっと抱きついてきた。

「ちょっ、リナ……何やって……」僕が言いかけたところで、リナは「女らしくないのか聞いてんだ」と口を挟み、上目遣いで見つめてくる。

正直、女らしい……僕を見つめている潤んだ瞳、ぷっくりとしてみずみずしい唇、そして何より柔らかい……どことは言わないが柔らかい……。ちょっと粗っぽい口調さえかわいく思えるほどに女らしい……

意識すると小恥ずかしくなって、思わずリナから目をそらし「お、女らしい……と思う……」と、どことなく中学生のような返事をした僕の顔をリナがのぞき込む。

「なあ、親方……魔女っ娘、なれなくてもいいだろ……今夜あたいは親方を抱きしめて寝るぜ」

「あ、朝っぱらから……な、な、何を言っているんだ……リナは……」

焦る僕をリナが抱き寄せようとした瞬間、「そこまでです!」というリサの声が店に響いた。

店に下りてきたリサは、無言のままつかつかと僕の横まで歩いてくると、スカートから椅子を出して隣に座り、僕の右腕を取ってひしと抱きつく。

「まったく、リナは油断も隙もありません」

「リサ、邪魔するなよ。仕事中なんだぜ」

「どこが仕事中なのですか?いちゃいちゃしてるだけでしょう」

「どこからどう見たら、いちゃいちゃしてるように見えるんだ?リサはエロすぎるぜ」

「今のがいちゃいちゃじゃないのでしたら、リナのいちゃいちゃはどんなことをするのですか?」

「よーし、見せてやるぜ。あとで文句言うなよ」

僕を挟んでなんか面倒なことになってきたけど、口を挟むと余計面倒になりそうだし、黙ってじっとしていたら、いつの間にか結衣ちゃんを抱っこしたリゼが目の前に立っていた。

なにも言わずにじっと僕を見ていたリゼは、口元をにっと緩ませると、結衣ちゃんを抱っこしたまま僕の膝に飛び乗ってきた。

二人分の重さに僕が「いって……!」と思わず声を上げると、リゼは「んっ、か、固い……」と艶めかしく漏らす。

そんなリゼを不思議そうに見つめる結衣ちゃんと、左右から僕に抱きついたまま睨みつけているリサとリナ。それなりに広い家なのに、五人全員が一点に集中する。そんな、まごころ堂源屋の定休日はのどかに過ぎていく。


——チリンチリンと爽やかな音を響かせて扉が開くと、店の床に外から差し込む光と人影が伸びた。

影の男は店の一か所に固まっている五人を見て、足を踏み入れずに立ち尽くしている。

「いったい、何をやっとるんだ?そんなところで重なって」

「源さん、何やってんだ、そんなところに突っ立って」

僕が声をかけると、リサ、リナ、リゼの三人が源さんを軽蔑するような目で睨みつけた。

「出ましたね、エロ爺」

「今日こそ、あたいが息の根を止めてやるぜ」

「うむ、骨まで残さず溶かせばバレない……」

三人のちょっぴり物騒な声など気にする様子も見せず、ズカズカと店に入ってきた源さんは、僕たちの前に立つと、四人に埋もれた僕をじっと見る。

「のう、大智……お前そんなんじゃったか?羨ましい……」

僕を流し目で見ている源さんに、結衣ちゃんがにっこりと笑ってぺこりと頭を下げた。

「おはよーございます」

「お、おはよう……この子が忠太郎の言っとった結衣ちゃんか……」

そう言いながら、源さんが伸ばした手を、リゼがペシッと振り払い、瞳に怒りをにじませ睨みつけた。

「結衣姫に触るなボケ爺……」

「むむ、ワシはまだボケとらんぞ……そんなことより、一番ぴったりくっついとるお嬢さんが大智のこれか?」

小指を立てて尋ねた源さんを見て、リゼは「うむ」とうなずき頬を染めた。

「我の名はリゼ。主様と我は闇の盟約の儀に従い口づけを交わし、人類の支配を誓い合った……」

「言っとる意味はよくわからんが……そうか、チューしたのか。うんうん、大智を頼むぞ」

「うむ、ボケているわりに、見る目はあるようだ……」

「ちょっと待ちなさい。マスターのお嫁さんは私と決まっているのです」

「いや、真琴の料理が殺人級だとわかった以上、もう、あたいしかいないぜ」

「リサとリナは何を言っている……主様の師が我と認めた以上、既に二人の出る幕はない」

リサとリナに左右から引かれ、膝にはリゼがしっかりと座り、僕の体はピンチを迎えている。

「三人で揉めるなら、せめて僕から離れてくれないか」

ささやかな僕の願いを完全に無視した三人は、一斉に源さんに視線を向けた。

「さあ、エロ爺。マスターをリサにくれてやると言いなさい。さもなければ蜂の巣にします」

「おい、クソ爺。親方に一番似合うのはあたいだと言え。言わないとミンチにしてやるぜ」

「うむ、ボケ爺。直ちにその二人の意見を却下せよ……さもなくば処す……」

本当にやりかねない勢いで迫る三人に、源さんの額を汗が伝う。

「三人とも……せめて爺と呼んでくれんか?」

なんで気にするのがそっちなんだ、とか思っていたら、リゼの膝にちょこんと座っている結衣ちゃんが三人を見回した。

「えーっと、リサママもー、リナおねーちゃんもー、リゼちゃんもー、おじちゃんとけっこんしていいよー」

「ほー、幼いのに気も利く子じゃな」

感心している源さんを見て、結衣ちゃんは「けんかはめっだから」とにっと笑う。

「そうだぞ、結衣ちゃんの言うとおりだ。三人とも仲良くしろよ」

僕も注意すると、結衣ちゃんは「うん」とうなずいたが、なぜか三人は頬を染めて顔をそらした。


「それで、源さんは何しに来たんだ?」

「おお、そうじゃった。大智に頼みたいことがあってな、ちょっとメランコリックまで付き合ってくれんか」

「ここじゃダメなのか?」

「いや、ワシからの最後の引き継ぎじゃ。二人で話がしたい」

その言葉にうなずいた僕が、「ちょっと出かけてくる」と声をかけると、リサもリナもリゼも、珍しく素直に離れ、三人で顔を寄せ合った。

「二人にも結衣さんの許しが出てしまいました」

「にひひひ、結衣が言ったんだ、親方は文句言わないぜ」

「うむ、結衣姫の命は絶対……三等分も悪くない……」

店を出る前に振り向くと、こそこそ話す三人の横で結衣ちゃんが手を振っている。つられた僕も笑顔で手を振り返して、源さんと一緒にメランコリックへ出発した。


——メランコリックに向かう途中、源さんがふと立ち止まって、脇に立つ店の看板を見上げた。

「こんなところに花屋があったかのう……」

この間は下りていたシャッターが、今日は全開になっていて、店内には商品もいくつか並んでいる。

見上げるとメルヘンチックなデザインの看板に、『フラワー・トワボルメリアム』と描かれている。

「へえ、この花屋、オープンしたんだ……ていうか、花屋なんだよな……」

「うふ、お花屋さん、まだ準備中……」

「準備中か……」とつぶやいて気づいた。今の声は……僕が恐るおそる振り返ると、エプロン姿の水無瀬さんが笑顔で立っていた。

「大智くんって、全然私に会いに来てくれないのに、他の人とはデートするんだ」

デートって……爺さんと歩いているだけなのに、どこからどう見て水無瀬さんにはデートに見えたんだ?

「み、水無瀬さん……こ、こんにちは……もしかして、ここ水無瀬さんのお店なんですか?」

「そうなの……おうち、近くなったね」

本当に近くなった。いや、なってしまった……うちの店から徒歩五分の激近物件に水無瀬さんの店ができるなんて、リサとトラブルを起こす予感しかしないし、今日みたいに積み重なっているところを見られたら、きっと暗殺される……


僕たちに構うことなく店をのぞき込んでいた源さんが、「ドライフラワーがたくさんあるの」と言って水無瀬さんを振り返ると、彼女は何も答えずそっぽを向いた。

「こりゃすまん、ワシは早乙女源五郎左衛門。大智が両親を亡くしてから親代わりになって、仕事を教えた。まあ、言わば師匠じゃな」

そう言って、源さんは感慨深げな顔をしているが、この爺さん、なに適当なことを言ってんだ。うちの両親が亡くなる前から、僕に仕事を押し付けて別荘で隠居生活してたじゃないか……

「そうなんだ。私は水無瀬薫子……お父さん。大智くんを私にください」

えっ、他人でしかない爺さんに、道端でそんなこと聞くか?

「かまわんよ」

なに承諾してんだこの爺は……

「ちょっ、源さん……」と割って入った僕を制止して、源さんは話を続ける。

「じゃがな、この大智はまだ半人前じゃ、今日もこれから仕事を教えないといかん。一人前になったら薫子ちゃんが貰ってやってくれんか」

「おい、源さん。勝手に決めるなよ。僕は結婚なんて……」

止めに入った僕の両手を、水無瀬さんの手が優しく包み込んだ。

「大智くん。お父さんの言うことは聞かなきゃダメなの……でも、お父さんに怒られるのはかわいそうだから、私に殺されるのと私が殺すの、どっちか選ばせてあげる。ねっ」

水無瀬さんは小首を傾げてかわいく言ったけど、言い方が違うだけで僕が殺されるのは同じじゃないか。なんなら源さんに怒られてるほうが、よっぽどマシだろ……

「いちゃついとる暇はないぞ。ほれ、行くぞ。大智」

声に気づいて振り向くと、源さんは僕を置き去りにして、さっさと先へ進んでいる。

「み、水無瀬さん……僕、仕事があるんで」

そう言い残して僕は源さんの後を追う……さ、最悪だ……なんとなく流されて、水無瀬さんに適当な嘘をついてしまった。

申し訳なくなってちょっと後ろを振り向くと、水無瀬さんが笑顔で手を振っているのが見えた。今度、お菓子でも持って謝りに行こう……


——前を歩いていた源さんが、ふと立ち止まり、空を見上げた。たったそれだけなのに、また余計なことに巻き込まれそうな予感しかしない。未確認飛行物体に攫われるんじゃないかと身構えた僕に、源さんが話しかけてきた。

「のう、大智。お前に最後の客を引き継ごうと思っての……」

「なっ……ふう……本当に仕事の話じゃないか」

「お前、ワシがUFOでも呼んだと思っとるんか?」

なんて爺さんだ、完全に心を読まれてるじゃないか……まさか!源さんは魔女っ娘の先輩なのか?ってそんな訳無いか。若い頃から、セクシーなお姉さんが至れり尽くせりしてくれるお店の常連だったらしいしな。

「仕事の話だがな……ちょっと厄介での……」

僕が返事をする前に、源さんが続けた言葉を聞いて、僕は再度身構えた。

「源さんが厄介って……どんだけ厄介な相手なんだ?」

僕が尋ねると、源さんは振り返って首を傾げた。

「なにを言っとるんだ?厄介なのは相手じゃなくて仕事のやり方だけじゃが?」

「仕事のやり方?」

「そうじゃな、仕事自体は敷地の草刈り、庭木の剪定、掃除を月に一回行くだけじゃ」

「そんなに広いのか?」

「いーや、大したことはないがな……」

そこで話を止めた源さんが、身構えたままの僕の肩に腕を回すと、ひそひそと話し始めた。

「そこはとある政治家の別荘でな、愛人を住まわせとるんじゃ。そのことを知っとるのはワシを含めて数えるほどでの……」

「とある政治家って誰だよ……」

「なに、そのうち知ることになるじゃろ。ワシも最初は知らんかった」

「でも、そこまで警戒するような話か?」

「お前はまだひよっ子じゃな……そんなことが世間に知れてみろ。たちまち政治生命のピンチじゃろ」

「なるほどな……」

「条件は簡単じゃ。毎月第三月曜日の朝九時から夕方四時までに仕事を終わらせること、必ず一人で行くこと、その日見聞きしたことは仕事が終わると同時に忘れること。それだけでサラリーマンの月収分くらいを現金で受け取れる……しかも領収書も要らんときた」

今の話で、僕が以前から疑問に思っていたことが一つ解決した。毎月第三月曜日に源さんが仕事を休んでいたのは風俗じゃなくて、その仕事に行ってたんだ……んっ、でも僕は何度かその手の専門店まで迎えに行ったことがあるぞ。

「おい、源さん。まさか第三月曜日に風俗に行ってたのは……」

「そうじゃ……その日稼いだ金の大半を泡に変えておった……」

バカじゃねえか、この爺さん……まあいい、それくらいの仕事なら大したことはないし、毎月第三月曜を定休にするか、これ以外の仕事をリナに任せればいいだろう。次の第三月曜まで十分な時間はあるんだ、それまでに考えておこう。

「分かった。引き継ぐから住所だけ教えてくれないか?」

何となく雰囲気に呑まれてしまった僕が小さな声で承諾すると、なぜか源さんはサングラスをかけて周囲を見回した後、僕の肩をぐいっと引き寄せて、胸ポケットから出した名刺を誰にも見られないように手渡してきた。見ると名刺の裏の端に小さな文字で住所が書いてある。

「場所を覚えたら捨てろよ」

「ああ……分かった……」

これじゃまるで、やばいブツの取引きじゃないか……話を終えた源さんはサングラスを外して、メランコリックに向かって歩き始めた。

サングラスは何だったんだ?それより、今ので仕事の話は済んだんじゃないのか?

「なあ、源さん。話が終わったんなら帰っていいだろ?」

「なんと!大智、お前はいつからそんな薄情なやつになったんじゃ?」

「いや、せっかくの休みに爺さんと喫茶店なんて、面白くないだろ」

「あーっ、やかましい!まだ行くところがあるんじゃ、黙ってついてこい」

こんな言い方をする源さんを無視すると、後で絶対面倒になる。僕は仕方なく、源さんについてメランコリックに行くことにした。


——カランカラン……相変わらず小気味よい音を奏でる扉を開けると、休日なだけあって純喫茶メランコリックは普段より混雑していた。

「源さん、座れそうにないし帰ろう……」

何となく小声で話しかける僕の声に、明るく元気な声が重なる。

「あっ、源屋さんが二人じゃないですか。すぐここ片付けるんで待ってくださいね」

「おお、すずちゃん、すまんな」

笑顔の蒼井さんに軽く手を上げた源さんが、店内に入ってしまったから僕もついて行くしかない。いや、別にこのまま帰ってもいいんじゃないか?一瞬心に迷いが生じたけど、そんなことをできるほど強い心を持たない僕は、仕方なく源さんについて店に入った。

「すずちゃんはいつも元気がいいから、ワシも若返った気分になるの」

源さんはカウンターを拭いてる蒼井さんに話しかけているけど、この爺……蒼井さんのお尻からずっと目を離さない。

この爺が一瞬でも手を動かしたら止めてやろうと目を凝らしていたら、振り向いた蒼井さんがスカートを押さえた。そして椅子を引いて「どうぞ」と僕に笑顔を向ける。

案内されるままにカウンター席に腰を下ろした僕の耳元で、蒼井さんが「源屋さんのエッチ……」と囁いた。ちょっと待て……源さんを見張っていただけだぞ、僕のどこがエッチなんだ。

声を大にしたいところだったが、他のお客さんの迷惑になるし、蒼井さんの仕事の邪魔をするのも悪い。誤解は後日解くことにしよう……そんなことを考えている間に、源さんも席に案内されたが、なぜか間をひと席開けている。

僕が「何やってんだ」と源さんに声をかけると、蒼井さんが源さんと僕の間の椅子を僕の隣にぴったりと付けた。

「マスター!休憩入りまーす!」

厨房に声をかけた蒼井さんは、僕に寄り添うように腰を下ろした。朝の喫茶店なのに、この空間だけキャバクラみたいになったじゃないか。

「ちょっと、すずちゃん……まだ忙しいんだからダメだよ」

慌てて厨房から出てきたメランコリックのマスターをよそに、蒼井さんはなぜか源さんをキッと睨んだ。

「そっちの源屋さんは、それ以上近づかないでくださいね。すぐお尻を触ってくるんだから……」

あっ、すでに触られたことあるんだ……いや、そうじゃない。

「蒼井さん、マスター困ってるし、仕事に戻ったほうが……」

声をかけた僕を、蒼井さんは上目遣いで見つめてきた。

「エッチな源屋さん、メロンクリームソーダ飲んでもいいですか?」

この子、ゆっくり休憩する気じゃないか……それと、僕は決してエッチじゃない。


——疲れ切った顔のマスターが淹れてくれたコーヒーをひと口飲んでほっと一息つく。いつも思うけど、この店のコーヒーはめちゃくちゃ落ち着く。

「美味しそうに飲みますね」

「はい、落ち着く味なんですよね」

どこからか聞こえた声にとっさに答えて顔を上げると、メランコリックのマスターが目の前に立ち、柔らかい笑みで僕を見ていた。相変わらず気配を感じさせない達人だ。

「すずちゃん、ワシもメロンクリームソーダ飲ませてやるぞ」

「えー、もうエッチな源屋さんにもらいましたし……じゃあ、ケーキ食べさせてくださいよ」

「おお、ええぞ」

声を弾ませた源さんを見て、蒼井さんはかわいく微笑んだ。

「でも、それ以上近づかないでくださいね」

「連れない子じゃな。ちょっとぐらいええじゃろ」

「じゃあ、一センチだけですよ」

源さんと蒼井さんの会話を聞いたメランコリックのマスターは、深くため息をついて厨房へ戻っていった。

隣に座っている蒼井さんは、僕の肩に頬を寄せたり、手を重ねてきたりしているが、ずっと源さんと話をしている。

席についたキャバ嬢が、ずっと隣の席の客と盛り上がっているときの気分が何となく分かるな、なんて思いながらコーヒーを飲んでいるけど、なぜだろう、嫌な気分はしない。なんかぷにぷにしてるし、いい匂いもするし……

貢ぐときしかもてない客と化した僕が、残り少なくなったコーヒーに視線を落とし、物思いにふけるふりをしながら隣から漂ってくるフローラルな香りを満喫している間も、扉は何度もカランカランと鳴り響く。いつもは心地よく聞こえるこの音も、頻繁に鳴り続けると煩わしく思えてくるから不思議だ。


またカランカランと聞こえてくると、今度は「いらっしゃいませ」とメランコリックのマスターがつぶやいた。もっと大きな声で言わないと聞こえないんじゃないか?そう思って顔を上げた僕に、マスターが目で合図を送ってきた。

何のことか分からず首を傾げると、後からいきなり抱きしめられた。

「こんなことだろうと思っていました。マスター、白昼堂々浮気ですか?」

リサの声だ……僕が口を開く前に、蒼井さんが僕の腕にしがみついて声を上げる。

「あー、今私が源屋さんを口説いてるんですから、邪魔しないでくださいよー」

いや、口説くも邪魔も何も、ずっと源さんと盛り上がってたじゃないか。

「あなたはそっちのエロ爺の相手をしておいてください」

「イヤです。源屋さんは私のお尻をいやらしい目で見たんですから、責任取ってもらうんです!」

僕は蒼井さんのお尻を見てたんじゃない……まあ、勘違いされた責任は僕にもある。だけど、そんな大きな声で言わないでほしかった。それに責任を取らせるなら、触ったことのある源さんのほうじゃないのか?


リサは僕の隣に座ると、ペシッと蒼井さんの手を振り払い、僕の腕に抱きついた。

「あなたはなぜ私のマスターに言い寄るのですか?」

「だってー、お金持ちそうじゃないですかー」

蒼井さんを冷たく見たリサは、僕の頬を軽くつねりながら、顎で源さんを指した。

「お金目当てなら、そっちのエロ爺のほうがお金持ちです。しかも、老い先短いので、そう待たずに財産はあなたのものになります」

「いやー、そうかの。どうじゃ、すずちゃん。財産目当てでワシの女房になってみるか?」

蒼井さんが急に瞳を輝かせて源さんを振り向いた。おい、源さん、本当にそれでいいのか?

さすがに止めたほうがいいんじゃないかと迷っていたら、鬱陶しそうな表情に変わった蒼井さんがリサを振り向いて、「イヤです!」と言い放った。

とんでもない破壊力だったのか、たったひと言でズーンと沈み込んだ源さんが、かわいそうになる。

「では、もう一人のマスターでいいじゃないですか?」

リサがカウンターに立っているメランコリックのマスターに視線を向けると、蒼井さんはキョトンとした顔で首を傾げた。

「へっ、このお店のマスターですか?」

「はい、このお店を始める前は、誰にも気づかれずに大口契約を次々と受注する敏腕営業マンとして有名でした」

リサ、それを敏腕と言ってもいいのか?いや、それ以前に合法なのか?

「ちょっと、リサさん……なんで知って……」

焦るメランコリックのマスターの声に、源さんが元気のない声をかぶせる。

「投資にも成功しとる。客の少ないこの店だけで成り立つわけがないじゃろ」

「ちょっと、源さんまで……」

蒼井さんはカウンターに肘をついて、笑顔のままメランコリックのマスターにジト目を向けた。

「へー、マスター。そんな大事なこと私に黙ってたんですねー」

「そ、それは別に仕事に関係ないし……」

「あーりーまーすー!へー、そうなんだー。マスターってそんな人だったんだー」

「なんかごめんね、すずちゃん」

「いいですよ。付き合ってくれたら許してあげます」

この子、お金持ちなら見境ないのか?いや、源さんは露骨に拒否されたな。少し気になって蒼井さんの向こうに視線を向けると、源さんはさらにどんよりと顔を曇らせていた。金が尽きてキャバ嬢に愛想を尽かされた客はあんな感じなのだろうか?

「いや、すずちゃん。僕の娘とそんな変わらない年齢だし、それは無理だよ」

「えっ、マスター娘さんがいるんですか?」

「い、いるよ……離婚してから会ってないけど……」

「そんなにお金持ちなのに、なんで離婚しちゃったんですか?」

「えっ、まあ……いろいろあって……」

「ちゃんと話さないと付き合ってもらいますからね」

蒼井さんの言葉を聞いて、僕はことあるごとに似たような言い方をするリサを思わず見てしまった。女性とはそういうものだろうか?疑問に思っていると、リサはなぜか微笑んでくれた。

「あ、わかったよ、話すよ……僕、こんなんでしょ?結婚してすぐから家に帰っても妻に無視され続けてさ……」

「それで怒ったんですか?珍しいですねー」

「違うよ。ある日家に帰ったら、僕の葬式してたんだ……無視してたんじゃなくて、本当に気づいてなかったみたいでさ。いつの間にか行方不明者になって、死亡宣告されたんだ……」

「マスターかわいそうですね。じゃあ、私が結婚してあげます」

いや、ちょっと待て……じゃあってなんだよ。メランコリックのマスターが青ざめて固まったじゃないか……

「かわいそうなのは私のマスターです。妄想で作り出した女性にも振られて、未だに童貞なのですから」

リサはいったい何を張り合い始めたんだ?確かに妄想で作り上げた理想の女性に夢で振られたけど、人に言うことじゃないだろ。

「違いますー、私のマスターのほうがかわいそうですー」

なんか、かわいそうマスターの自慢対決が始まってしまったけど、今一番かわいそうなのは、カウンターに顔を伏せてしまった源さんだろう。


ふいにメランコリックのマスターが「す、すずちゃん、ケーキ食べて」と蒼井さんの前にケーキを置いた。露骨に話を逸らそうとしているのが見え透いていて、なぜか気の毒に思えてくる。

本当に敏腕営業マンだったのか?やっぱり、非合法な手段を使っていたんじゃないのか?ケーキを出しただけなのに、次々と疑念が湧いてきて、なんだかメランコリックのマスターの闇を垣間見た気がした。

「わー、ありがとうございます。でも結納はちゃんとしてくださいね」

「そんなんじゃないから……リサさんもどうぞ……」

同じケーキをリサに差し出したのを見た蒼井さんが、あざとく頬を膨らませる。

「あー、マスターの浮気者!ストライキしますからね」

「ちょっと、すずちゃん。それは困るよ……」

「そうでしょ、私がいないとお客さん帰っちゃうんですから。私にだけもう一個ケーキください」

いつもこんな調子なんだろうか?なんだか微笑ましい光景に、本当は仲がいいんじゃないかと思えてきた。


僕は隣でケーキを頬張るリサを見て、首を傾げた。

「ところで、リサは何しにきたんだ?」

「そうでした。天気がいいので、お弁当を持ってみんなで公園に行こうということになったので、呼びに来たんです」

そう言いながらも、リサは笑顔でケーキを味わっている。

「結衣ちゃんも待ってるだろうし、早く帰ったほうがいいんじゃないか?」

「大変ですマスター、早く帰りましょう!」

急いでケーキを食べ始めたリサに呆れていると、「大智、ワシが払うから……」と悲しそうにつぶやいて、源さんが席を立った。

「いや、僕が払うよ」とレジに向かおうとすると、ケーキを食べ終わったリサが僕の袖を引いた。

「大丈夫です、マスター。エロ爺もこれから用事があるのです」

そう言って、リサが小さなカードを手渡してきた。それは、源さん行きつけの大人のお風呂屋さんの会員証で、今日の日付が小さく書いてある。

「な、それはワシのじゃないか!」

僕の手から会員証をひったくった源さんは、大事そうにポケットにしまうと、何事もなかったようにレジで支払いを済ませた。


カランカランと送り出してくれる扉の音を背に、店を出た僕は、源さんの背中に声をかける。

「源さん、まだ行ってんのか、その店」

「そうじゃ、ポイントが貯まったからの、今日は大智を連れて行く予定だったんじゃが、邪魔が入ってしまったな……」

源さんがそうこぼしたのを聞いて、隣を歩いていたリサが僕をキッと睨んだ。直後、彼女が僕を掴むと同時に、体が宙を舞う。そのまま源さんにぶち当たって重なるように倒れた僕たちを、リサは見下ろしているようだが、ぼやけている……眼鏡が吹っ飛んだのか?

「そうですか、そうですか。マスターのお部屋に侵入大作戦をリナに邪魔させておきながら、仕事と偽ってそんなお店に行くつもりだったのですか」

リサのスカートがふわりと揺れると、ガチャッと重い金属音が響いた。

「ちょっと待て、リサ。ものすごく誤解してるぞ」

「問答無用です。そのエロ爺の前に、マスターのナニを蜂の巣にして差し上げます」

まずい、このままじゃ三十歳を待たずして、強制的に魔女っ娘にされてしまう……逃げ出す隙を伺おうと周りを見回すが、よく見えない……

「マスター、遺言はありますか?」

遺言ってなんだよ。僕は魔女っ娘にされるんじゃなくて、殺されることになったのか?

「リサさん、源屋さんはそんなお店に行きませんよ」

「そうですよ。源屋さん、そういうところは真面目なんですから」

落ち着いた口調のメランコリックのマスターに続いて、蒼井さんの声も聞こえた。

二人に声をかけられて落ち着いたのか、リサのスカートがふわりと浮いて、手から銃が消えたように見えた。危機を脱した僕がほっとして立ち上がると、今度は後ろから突き飛ばされ、その勢いでリサを巻き込んで倒れてしまった。

「大智ー、また来るからのー!」

あの爺、また僕を生贄にして逃げやがったな。ムカつくし捕まえてやろうと顔を上げた瞬間、リサの両手が僕の頬を優しく包んだ。

「か、かわいいです。マスター……」

思わぬリサの言葉に焦る僕の顔が、さらに引き寄せられる。目が悪い僕でも、リサが心なしか乙女の表情を浮かべているのが分かる……

「だ、大胆ですね……休日の路上で横になって抱き合って……」

メランコリックのマスターの声で我に返った僕は、リサの手をそっと離して顔を上げた。

「あーあ……もう源屋さんはダメだなー。マスター責任取ってくださいね」

「なんで僕が……」

「じゃあ、ケーキもう一個いいですか?」

メランコリックのマスターと蒼井さんの声が、遠ざかっていく。

「マスター、源屋さん見てくださいよー。ここから見ると、道端でやっちゃってるようにしか見えませんよー」

「す、すずちゃん。そんなこと言っちゃダメだよ……」

カランカランと扉の音が微かに聞こえたと同時に、二人の声は聞こえなくなった。


静かになると急に周囲の足音が気になって、慌てて起き上がると、道行く人が僕たちを見ながら通り過ぎていく。

焦りを隠すように平静を装った僕は、リサに微笑んでみた。

「大丈夫か、リサ。どうしたんだ、急に……」

「眼鏡を外したマスターのかわいさは反則です……」

恥ずかしそうに目をそらしながらリサが起き上がると、どこかでパキッと音がした。リサが慌てて腰を浮かせると、レンズにヒビが入り、フレームが曲がった眼鏡が転がっている。

「マスターの眼鏡が私のお尻で壊されました……」

「困ったな……眼鏡がないと見えないんだよな」

リサは黙って眼鏡を拾い上げ、僕にかけてくれた。壊れてしまったが、ないよりは全然マシだ。

「明日、修理しますから、それで我慢してください」

「う、うん……ありがとう……」

そんな会話をしながら立ち上がったはいいが、周囲の生温かい視線と、さっき見たリサの顔を思い出して、なんだか照れくさい。

火照ったままの顔に、壊れて歪んだ眼鏡をかけている僕と、恥ずかしそうにもじもじしているリサは、向かい合ったまま特に意味もなく、チラチラ視線を送り合う。そんな僕たちは自然と行き交う人の視線を集めてしまう。

「マ、マスター……帰りましょう……」

「そ、そうだね……公園行こうか……」

僕たちはどことなく初々しい会話をしながら、微妙な距離を保ってみんなが待つまごころ堂源屋へ歩き始めた。

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。

隔週土曜日投稿予定。よければブックマーク・評価のひと手間を。誤字は各話末の『誤字報告』からお願いします。

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