十一話
〈奇跡〉も二度起きれば〈運命〉――と呼ぶべきか。
春霞を切り裂いて、巨大な白い翼が旋回している。その軌跡が、ほうきで掃いたように一本の白い絹雲になってゆく。
ニヌムの呼子に応えるように、〈双睛〉は鳴いた。
都人が雅楽で吹き鳴らす、あの〈笙〉のように、幾重もの音が重なったふしぎな音色だった。それは、あのときに聞いた、獲物に向かって威嚇する〈虎落笛〉とは、まったく違っていた。
まるで〈双睛〉と会話しているようだ、とニヌムは思った。それほど、〈双睛〉の鳴き声は美しく、優しかった。
まるで、川に落ちてしまったひな鳥を心配する親鳥のような――。
ふいに、〈双睛〉と目があった気がした。
次の瞬間、ニヌムはまた、あのときと同じくふしぎな感覚を味わった。
同じ精神を分かつ感覚。それで、ひょっとして、あのときの〈双睛〉と同じ個体なのではないかと思った。
そんな都合のいいことが、あるはずもないのだけれど。
(あなたはなに? どうしてわたしの前に現れるの――)
心の中で問いかけるも、返答する者は誰もいない。
「いたぞ――っ! あそこだ――ッッ!!」
向こう岸から男の声がした。
次いで、村人たちが森の奥からわらわらと集まってくる。
ああ、助かった、とニヌムの目に涙が浮かんだ。
「貴族の坊ちゃんも一緒だ!」
「急げ! こんなヒモ、すぐに切れちまうぞ!」
おとなたちが数人がかりで引き寄せて、ふたりはようやく岸にあがることができた。
水のこない土手に倒れこむように仰向けになると、ようやく安心して息ができた。
すっかりぬれてしまった着物は、水を吸ったせいで鉛のように重い。
もう一歩も動ける気がしなかったが、早く村に帰って、あたたかな衾(かけぶとん)に包まれたいという思いもある。
全身に雪どけ水を浴びたせいで、芯まですっかり冷えていた。特に指先などは氷のようで、動かそうとすると、ギシギシして痛いくらいだった。
「ニヌム、といったか」
同じく隣に寝転んでいたアサヒが、顔だけこちらに向けて話しかけてきた。
「あ、はい」
「ありがとう。そなたは命の恩人だ」
そういって笑ったアサヒは、しかしすぐに表情を曇らせた。
「怒られるよな、きっと。黙って出ていったうえに、危ないことをして」
おとなたちは、
「誰か屋敷に走って知らせてこい!」
と、バタバタと慌ただしくしている。
きっと今にアサヒの母や従者たちが駆けつけてくるだろう。
自分たちとは住む世界が違うと思っていた貴族の少年が、とたんに叱られることを嫌がるただの少年に見えてきて、ニヌムはちょっと笑った。
「怒られるとは思いますけど……だいじょうぶですよ。それはきっと、愛情の裏がえしだと思うから」
「そうだろうか」
「そうでしょうとも。……実を言うと、わたしは経験者なので、よくわかるんです」
内緒話をするように、ふたりは寝転がったまま、顔を近づけた。
「ウサギを獲ろうと罠をしかけたら、イノシシがかかっちゃって」
「……それは、大変だったろう」
「はい。しかも、それをクマに横取りされちゃったんです」
「なんだって?」
アサヒは目をまん丸にする。
人間の目って、こんなに見開けるんだなあ、とニヌムは感心した。
「うそじゃないだろうな?」
「もちろん。村の誰かに聞いてもらえれば、わかりますよ」
「それで、どうなったんだ?」
「聞いたらおどろきますよ」
「早く教えてくれ」
待ちきれないとばかりに、アサヒが瞳をきらきらと輝かせながら身を乗りだす。
ニヌムは少しだけもったいぶって答えた。
「〈双睛〉に助けてもらったんです」
「〈双睛〉に?」
ふたりして空を見あげる。
雲ひとつない空は、先ほどまで巨大な鳥が飛んでいたとは思えないほどだ。
霞みがかった天のすき間から、まばゆい光が差しこんでいる。翼で引き裂かれたかに見えるそれだけが、ただひとつ神鳥がいた証だった。
「まさかとは思ったが……あれは、ほんとうに〈双睛〉だったか」
「はい。わたしは一度見たことがあるので、間違いありません」
「二度も神鳥に会うか。……そなたは、幸運の化身なのかもしれぬな」
「そんな大したものじゃないです」
「いや、そなたの幸運に助けられた。感謝する」
アサヒは少し考えたあと、
「……神鳥に助けられたと言えば、やれ吉兆の証として、お叱りを受けずにすむだろうか」
と、真面目くさって言うので、ニヌムは吹きださないよう、口のはしをピクピクさせながら答えた。
「わたしも一緒に叱られますから、覚悟を決めましょう」
「うむ。ぜひそうしてくれ」
鷹揚にうなずいてみせたアサヒに、ニヌムはとうとう堪えきれずに大笑いした。
しかし、大方の予想に反して、アサヒが叱られることはなかった。
駆けつけたアサヒの母は、ただなにも言わず、息子を抱きしめた。ぶじでよかった、と。
それがかえって、彼の胸に罪悪感を植えつけた。
アサヒは母の胸に抱かれながら、
「ごめんなさい。ごめんなさい、母上。みんなも、心配かけてごめんなさい」
と、ひたすらに謝り続けた。
一方のニヌムは、
「ひとりで突っ走るんじゃない、バカ者が!」
と特大の雷を落とされて、なんだか腑に落ちない気分になったものだった。
それでも最後には、
「よくやった。とっさに命綱をして、浮きになるものも用意したとは。おまえは時おり、命知らずなのか、冷静沈着なのか、よくわからなくなる」
と、豪快に頭をかき混ぜられながら、褒めているのかよくわからない言葉をもらったのだった。
さて、その日たちまち、めでたい日となった。
アサヒの母は、それはそれは感謝して、村人たちを屋敷へ招いた。
そこでは食べきれないほどたくさんのご馳走が振舞われた。
鯛めしにブリの煎り焼き、海老団子のお吸い物。
キジ肉のすまし汁に、小鳥団子。
タケノコの羹と、ハマグリのへぎ焼き。
とくに子どもたちに人気だったのは、ふだんはとても食べられない菓子だった。
干し柿に甘栗と白あんを詰めて揚げ、上南粉をまぶした〈柿衣〉。
紅花の餅にあんを包み、柚子と椿の葉で飾った〈椿餅〉。
とうぜん、酒も飲みきれないほど用意されていた。今夜は無礼講ということで、貴族も庶民も今だけは立場を忘れ、誰もかれも上機嫌に語り明かしている。
子どもにはまだ早いと、ニヌムには牛乳が渡された。これだって、庶民ではとても飲めない代物だ。
ニヌムの隣にはアサヒが陣どり、この食べ物はああだこうだと解説をしている。
ニヌムもニヌムで、珍しい料理に興味津々で聞き入った。とはいえ、どれもこれも贅を尽くしたものだったので、庶民には再現不可能に思われたが。
「なあ、ニヌム。狩りの仕方を教えてくれると約束したろう?」
ニコニコと嬉しそうに笑いながら、アサヒが言う。
上機嫌な彼には申し訳ないが、今さらながらとんでもない約束をしてしまったのではないかと、ニヌムは後悔していた。
こんな庶民と仲よくして、彼の母はいい顔をしないだろう――。
そう思っていたニヌムだったが、
「ああ、それはよい。わらわからもぜひ頼みたい。どうか、息子に狩りを教えてやっておくれ。むろん、タダでとは言わぬ。給金も払おうぞ」
「ええっ!?」
あっさりと許可がおりてしまった。
「でも、いいんですか? わたしなんかが……」
「よい。息子は昔から体が弱くて、なかなか友人ができぬでの。寂しげにしている姿を見て、不憫でならなかったのじゃ。その点、そなたは見こみがある」
そっと白魚のような指をニヌムの頬にそえ、アサヒの母はまじまじと顔を覗きこむ。
着物に焚きこめた香のよい匂いがして、ニヌムはいろいろな意味でドキドキした。
「そなたは勇気があり、狩りの才能がある。歳もアサヒに近い。それになにより、神鳥を二度も味方につけた幸運の持ち主じゃ」
ふふ、と彼女は笑う。紅をひいた唇が花のようにほころんだ。
「聞いたぞえ。村人らは〈双睛〉が空を飛んでいるのを見て、駆けつけたらふたりがいたと。そなたは瑞兆じゃ。そばにいれば、不憫な息子にも多少は運が移るやもしれぬ」
「そんな、買いかぶりすぎです……」
「よい。験担ぎのようなものよ。それを抜きにしても、息子と仲ようしてやってたもれ。……まあ、やんちゃはほどほどにしてほしいがの」
「そ、それはもちろん!」
ニヌムがあわてて答えたのがおかしかったのか、アサヒの母はほほほ、と笑った。
居住まいを正して、アサヒがこちらに向きなおる。
「では、これからよろしく頼むぞ、師匠」
「わ、わたしこそ、よろしくお願いします、アサヒ様」
互いに深々と礼をする。
「友人なのだから、敬語はやめてくれ。アサヒでいい」
「えっと、でも……」
ニヌムはちらりとアサヒの母のほうをうかがった。
心得たとばかりに、アサヒ母が首肯する。
「かまわぬ。さすがに人前では障りがあろうが、この屋敷の者の前では、のびのびとすごしておくれ。わらわからも、みなによく言うておくからの」
「では、お言葉に甘えて――わたしのことも、ニヌムで。……〈師匠〉は、ちょっと……」
「ちょっとダメか」
「うん、ダメ」
ふたりは顔を見合わせ、ぷっと吹き出した。
ほほえましいふたりを嬉しそうに見守りながら、アサヒの母が言う。
「では、わらわのこともアザミと呼んでよいぞ。特に許す」
「母上……」
「えっと、アザミ、さま?」
「うーん、堅苦しいのう」
「母上……」
笑いさざめきながら、宴の夜は更けてゆく。




