十話
「……増えてないね」
川を覗きこんで、ニヌムは「うーん」とうなった。
一日経っても異変がないので、サンシュと連れだって川のようすを見にきたのだった。
「早とちりかな」
と、恥ずかしそうに肩をすくめるニヌムの横で、サンシュが難しそうな顔をしている。
「じいちゃん?」
「ニヌム、川の水はまだ冷たいか?」
手をひたしてみる。
あいかわらず氷のように冷たくて、ずっと浸かっていると痛いほどだった。
「うん、すごく冷たい」
「それなら、雪がとけているのは間違いあるまい。きっと上流のどっかで引っかかってやがるな」
「あ、そうか。きっと流れの細いところに、雨で流されてきた枝や葉っぱがたまって、流れがせき止められてるんだ」
「そうだ。だが、堤を切ったら、一気に水が流れるだろう? それと同じように、つまってる枝や葉がたえられなくなったら、まずいことになる」
うん、とニヌムは真剣な顔でうなずいた。
「ひょっとして、さっきから水鳥の声がしないのも、そのせいかな?」
ふと、なにげなく言っただけのつもりだったが、サンシュは目を丸くした。
「おお。よく気がついたな」
「うん。いつもならカモとかサギとか、セキレイなんかもいるよね。でも、今はぜんぜん鳴き声が聞こえないし、変だなって」
「よく見ている。鷹使いはそうやって、視野が広くないといかん」
サンシュは満足げに笑った。
「そうだな。鳥たちも川が変になってることに勘づいて、逃げちまったのかもしれん」
「そんなことってあるの?」
「もちろんだとも。鳥だけじゃない、自然の生き物ってのはそういう力がある。おまえさんだって聞いたことがあるだろう。トンビが高く飛ぶと晴れ、ツバメが低く飛ぶと雨、スズメが朝早くさえずれば晴れ……」
「朝鳴きのトビは雨で、昼鳴きは日和とか?」
「そうだ。だから、川に鳥が近づかないってのも、バカにできん」
とにかく村のみんなに知らせよう、とニヌムが立ち上がったとき、ふと視界のはしでなにかが揺れた気がした。
ひらりと舞うそれに、なにか生き物かと顔を向けたが、もう木々の向こうに消えてしまっていた。
(……なんだろう?)
「おい、ニヌム。置いていくぞ」
「あっ、待って、じいちゃん」
追いかけるころにはもう、ニヌムは洪水の不安でいっぱいだった。
※
引退したとはいえ、長らく鷹使いをしていたサンシュの自然を見る目はたしかだ。
道すがら農作業中の人たちに声をかけていったら、噂が噂を呼び、気がつけば村中の人々が集まってきていた。
「あのあたりは土手が高くなってるから、ここまで水があふれることはそうそうないと思うが……」
「だが、万一のこともある。いつでも丘のほうへ移れるよう、荷をまとめておこう」
「女や子どもは先に行ってもらうか」
口々に話し合う中、遠くから「おおい」と村人のひとりが慌てたようすで走ってきた。
「たいへんだ! 昨日のお貴族の坊ちゃんが行方不明だと!」
「ええっ!?」
村人たちは驚きにざわめいた。
「なにかあったのか?」
「わからん。今朝方、屋敷からいなくなっていたらしい。いま、奥方と侍従らがひっしになって探しとる」
「まさか、川に落ちたんじゃないよな?」
いままさに話し合っていたせいか、村人たちの頭に水難の恐れがよぎる。
ニヌムははっとした。
(あのときに見たの……いま思えば衣だったかも)
森の奥に消えていった“なにか”が思い起こされる。
「わたし、その子を見たかも」
「なにっ!?」
「どこでだ?」
「じいちゃんと川を見にいったとき……。どうしよう、あの子は川が危ないことを知らないよ。ほんとうに水難にあうかも!」
ニヌムはあわてて身をひるがえし、元きたほうへ駆けだした。
「あっ、ニヌム! 待ちなさい!」
「みんなもきて! こっち!」
おさない正義感を胸に、ニヌムは走る。
急げいそげ、と胸の奥がはやしたてるから――みんながついてこれるかどうかは、頭からすっぽり抜けていた。
※
森を抜けると、土手の向こうに川が流れているのが見えた。
今朝ごろサンシュと降り立ったのは、このすぐ下にある川べりのあたりだった。
「ここ! このあたりだったよ! ね、じいちゃ――」
振り返ったニヌムは、そこでようやく誰もついてきていないことに気がついた。
「ちょっと、速く走りすぎちゃったかな」
ニヌムは小柄なぶん、かけっこは村の子どもの誰にも負けない。
とくに足場が悪い野山では、おとなでもついていけないほどだった。鷹使いとして鍛えた彼女の足は、悪路でもウサギが跳ぶように走ることができる。
おそらく、走っているうちに振りきってしまったのだろう。
「でもきっと、じいちゃんが場所を覚えてるだろうし、そのうち追いついてくるよね」
おとなたちと合流できるまで、その場で待ってようと思ったニヌムだったが、遠くのほうに人影を見つけて、あっと声をあげた。
一里(約四キロメートル)先まで見とおすという鷹の目にはとても敵わないが、ニヌムはかなり目がいい。
間違いなく昨日の少年が、川の中でなにか探しているようだった。
(川に入っちゃってる! そこは危ないのに!)
ニヌムは慌ててそちらへ走った。
土手を駆けおりようとして、
(まてよ。このままわたしまで水難にあったら、本末転倒だよね)
と思い、とっさに筒から忍縄を何本か取り出して、それを重ねて太い束にしてから、土手の上にある樹木と、自分の腰紐に巻きつけた。
忍縄は鷹を調教するときに、足につないで逃げないようにするヒモで、三十五尋(約五十三から六十三メートル)ほどの長さがある。
ただし、細いヒモなので、強度は期待できない。気やすめていどだが、ないよりマシである。
ついでに水筒の中身を捨ててから、ゆっくりと少年に近づいてゆく。
「こんにちは!」
なるべく驚かさないよう、まずは声をかけてみる。
少年――たしか〈アサヒ〉といったか――は、弾かれたように振り返った。
「なにかお困りですか? 探しもの?」
「あ、あのときの……」
「はい、ニヌムといいます」
「わたしはアサヒ。……ところで、この川には魚がいないのだろうか」
「さかな?」
「ああ。ほんとうは、獣の一匹でも獲れたらよかったのだが……」
アサヒはちらりと川のほとりに目をやる。りっぱな仕立てだが、子ども用だろうか――やや小ぶりな弓と矢筒が置いてある。
「そううまくはいかぬか」
がっくりと肩を落としている。
「狩りがしたかったんですか?」
「ああ。わたしがひとりでも狩りができるとわかれば、母上の心労も少しは浮かばれよう」
詳しい事情はわからないが、さてはこっそりと成果をあげて、みんなを驚かせたかったのだな、とニヌムにもなんとなくわかった。
「じゃあ、わたしが教えますから、一緒にやりませんか?」
「そなたが?」
「はい。だから、まずはそこから出ましょう。そこは危険なんです」
「どういうことだ?」
「洪水するかもしれなくて、村のみんなで避難するところなんです」
「……こんな浅瀬なのに?」
アサヒは膝下にある水面を指差し、疑わしげな顔をする。
「上流のほうで水がたまってるみたいなんです。だから――」
そのとき、遠くから誰かの叫び声がした。
「水がくるぞ――っ!!」
はっと上流のほうを見ると、遠くのほうに大地を削りとって溶かしこんだような、真っ黒な高波が見えた。波はあちこちにぶつかっては砕けて、次々と白い飛沫をあげている。
「こっちきて! 早く!」
慌てて手招きする。
アサヒもようやく事態を飲みこめたらしく、水をかき分けて川岸に向かった。――が、とちゅうで藻でも踏んだのか、ばしゃん、と滑って転んでしまう。
転んだひょうしに脱げた草履が、見るみるうちに流されてゆく。
ニヌムは迷わず川へ飛びこんだ。手をのばしてアサヒの衣をつかんだ次の瞬間、巨大な水の腕がふたりを飲みこんだ。
水の中で、ふたりは上も下もわからぬほど、めちゃくちゃに転がった。小石や枝が体中に当たっては、おさない柔肌を傷つけたが、つかんだ衣だけはぜったいに離してなるものかと、指に力を入れる。
幸いなことに、腰に巻きつけていた忍縄の束が、ふたりをそれ以上流されないよう繋ぎとめてくれた。ギチギチと嫌な音がしたが、かろうじて切れていない。
ヒモを支えに、どうにか地面を探り、これでもかと足に力を入れる。上体を起こすと、やっとの思いで水面から顔を出すことができた。続けてアサヒも浮上する。
「これ持って!」
空の水筒をアサヒに押しつける。竹でできた筒は、小さいながら水に浮く。頼りないが、ないよりマシだ。
ふたりはどうにか岸辺まで泳ごうとしたが、水の流れが早すぎて、うまく進むことができないでいる。
(このままじゃ、ヒモが切れちゃう!)
焦ったニヌムは、ふところを探った。手になじむ固い感触がする。
(これだ!)
取り出した呼子(鷹を呼ぶための竹製の笛)を、思いきり吹き鳴らす。
ピィ――――――ッッ!!
誰かの耳に届けばいいと思った。
後を追ってきているであろうサンシュや村人たち、アサヒを探しているはずの女主人や従者たち。
だが、届いたのは、そのどれでもなかった。
否、そもそも人ですらなかった。
うすく霞む春の空にただひとつ、不自然なほどくっきりとした雲が浮かんでいる。
それはニヌムの吹く笛の音色に呼応するように、美しい音曲を奏でた。
(〈双睛〉……)
神鳥が、ふたたび頭上で舞っている。




