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第六章 恋愛映画のヒロインは、熱を出さない

 十月の半ばを過ぎると、校舎のあちこちで文化祭の準備が始まった。

 廊下には段ボールが積まれ、放課後の教室からはガムテープを引き出す音が響く。旧視聴覚準備室も例外ではなかった。投函箱のカードは週に十枚を超えるようになり、莉子のチェックリストは三ページに増えた。

 そして、美桜の机の上には、仕事が山になっていた。

 放送用の台本の修正。中庭に貼るポスターの制作。当日のタイムテーブルの調整。司会の進行表。それに、自分が担当する相談カードの回答案。

 全部、美桜が「やるよ」と言ったものだった。

 誰かが困った顔をすると、口が先に動く。「私、やっとくよ」「大丈夫、任せて」。言ったあとで、また増えたと思う。でも、言ってしまったものは仕方がない。美桜は夜遅くまで起きて、ひとつずつ片づけていった。

 その日も、美桜は台本に赤ペンを入れていた。

 台本の余白には、細かい字でメモがびっしり書きこんである。いちばん上に、四角で囲んだ一行。

 ――相手を傷つけない表現

 その下に、言い換えの候補が並んでいる。「別れたほうがいい」ではなく「距離を置いて考える時間も大切です」。「それは無理です」ではなく「難しいかもしれませんが」。

 台本の隣には、相談カードが一枚置いてあった。

『弱いところを見せたら、嫌われますか?』

 美桜の回答案は、もう書いてあった。

 ――笑顔でいれば、大丈夫です。周りの人は、明るいあなたが好きなはずです。

「白瀬」

 顔を上げると、準備室の入り口に神谷蓮が立っていた。設営の手伝いで呼ばれたらしく、両手に段ボールを抱えている。

「遥との約束、今日だろ? 忘れてないよな?」

 美桜のペンが止まった。

 陸上部の展示の手伝い。部室で、パネルの文字を一緒に書く約束だった。今日の四時半から。

 時計を見た。四時十分だった。

 台本は、まだ半分しか終わっていない。ポスターの下書きも、まだ途中だ。

「大丈夫、何とかなる!」

 美桜は、笑顔で言った。

「全部終わらせるから! 台本終わったら、すぐ行く」

 蓮は、段ボールを抱えたまま、美桜の顔をじっと見た。いつもの軽口が、一瞬だけ引っこんだ。

「……お前、顔色悪くね?」

「え、そう? 照明のせいじゃない?」

 蓮は何か言いかけて、やめた。段ボールを準備室の隅に下ろして、出ていった。

 美桜は、台本に目を戻した。

 赤ペンを持つ指先が、少しだけ震えていた。気のせいだと思った。

 ◇

 湊が準備室に戻ってきたのは、五時を少し過ぎたころだった。

 中庭のステージの寸法を、莉子と一緒に測りに行っていたのだ。莉子はそのまま生徒会室に寄ると言って、湊だけが先に戻ってきた。

 ドアを開けると、美桜が一人で台本に向かっていた。

「白瀬さ……美桜、まだやってたの」

 名前で呼ぶのは、まだ慣れなかった。

「うん。もうちょっと」

 美桜は振り返らずに答えた。

 湊は自分の席に鞄を置いて、ふと美桜の手もとを見た。赤ペンの線が、さっきから同じ行の上を何度も往復している。

「美桜?」

「……ん。大丈夫」

 美桜が、立ち上がろうとした。

 その瞬間、美桜の体が、ぐらりと傾いた。

 湊は、考えるより先に動いていた。椅子を蹴るように立ち上がって、倒れかかった美桜の肩を両腕で受け止めた。

 腕の中の体が、熱かった。

 ブレザー越しにも分かるくらい、熱を持っていた。美桜の額が湊の胸に当たって、浅い呼吸が、シャツの上から伝わってきた。

「美桜」

「……ごめん、ちょっと、立ちくらみ」

 美桜は、湊の腕から離れようとした。でも足に力が入らないらしく、また湊の方へ傾いた。

 湊は、美桜を椅子に座らせた。それから、その前にしゃがんで、目の高さを合わせた。

 美桜の顔は、白かった。頬だけが不自然に赤い。

 何を言えばいいのか、湊は迷った。保健室に行け、と言うべきか。でも、美桜は台本を終わらせたいのだ。それを止める権利が、自分にあるのだろうか。

 迷って、迷って、湊は口を開いた。

「台本を続けるか、保健室に行くか」

 美桜が、ぼんやりと湊を見た。

「俺は、保健室に行ってほしい」

 自分で言って、少し驚いた。希望を、そのまま口にしたのは久しぶりだった。

「でも、決めるのは美桜だ」

 美桜は、しばらく湊の顔を見ていた。

 それから、台本に目をやった。赤ペンの線だらけの台本。まだ半分しか終わっていない台本。

 美桜の唇が、小さく動いた。

「……保健室、行きたい」

 湊は、頷いた。

「行こう」

 ◇

 保健室の先生は、体温計を見て眉をひそめた。

 三十八度二分。過労と、たぶん軽い風邪。先生は「親御さんに連絡するから、少し寝ていなさい」と言い残して、職員室へ電話をかけに行った。

 カーテンで仕切られたベッドの上で、美桜は天井を見ていた。

 薄暗い保健室だった。窓のブラインドが半分下りていて、夕方の光が細い縞になって床に落ちている。シーツは冷たくて、少しだけ消毒液の匂いがした。

 ベッドの脇の丸椅子に、湊が座っていた。

 帰っていいよ、と言うべきだと思った。でも、言えなかった。

「……具合悪くなって、ごめんね」

 美桜は、天井を見たまま言った。

「私、いつも楽しい人でいたかったの」

 声が、少しかすれていた。

 湊は、すぐには答えなかった。丸椅子の上で、少し姿勢を直す気配がした。

「具合が悪いんだから、具合が悪いって言っていいんじゃない?」

 美桜は、天井の染みを数えた。三つ。四つ。

「恋愛映画のヒロインは、熱なんて出さないでしょ……」

「……出さないかな」

「出さないよ。出しても、次の場面ではもう治ってる。それで、もっと可愛くなってる」

 美桜は、少しだけ笑った。笑ったら、喉が痛かった。

「恋愛映画って、好きな人同士がちゃんと『好き』って言うでしょ」

「うん」

「現実は、そうじゃないこともあるから」

 湊は、何も言わなかった。

 美桜は、言ってしまったことを少し後悔した。熱のせいだ、と思った。熱のせいで、言わなくていいことまで口から出てくる。

 ◇

 湊は、ベッド脇の台に置かれた体温計を手に取った。

 さっき先生が見ていた数字を、もう一度確かめる。三十八度二分。けっこう高い。

 ベッドの上の美桜は、不安そうな目で湊を見ていた。

 熱が上がっているのか、下がっているのか。体温計の数字だけでは分からない気がした。

 湊は、深く考えなかった。

 小さいころ、湊が熱を出すと、母親はいつもそうしていた。仕事から帰ってきて、玄関で靴を脱ぐのももどかしそうに、湊の部屋に来て。

 湊は、丸椅子から身を乗り出した。

 美桜の前髪を、指で軽く払った。

 それから、自分のおでこを、美桜のおでこに、こつんと当てた。

 ◇

 美桜は、息を呑んだ。

 目の前に、湊の顔があった。近すぎて、焦点が合わない。湊のまつ毛が、思ったより長いことだけが分かった。

 おでこが、触れていた。

 湊の肌は、自分より少しだけ冷たかった。その冷たさが、熱を吸い取っていくようだった。湊の吐く息が、かすかに美桜の唇にかかった。

 心臓が、止まったかと思った。

 いや、止まっていない。むしろ、今までの人生でいちばん速く打っている。熱がさらに上がる。絶対に上がっている。

「……うん」

 湊が、おでこを重ねたまま、低い声で言った。

「まだ結構熱いな。冷えピタ、もらってくる」

 湊の声が、おでこを通して直接響いてくるような気がした。

「……あ、あさくら、くん……!?」

 美桜の声は、ほとんど悲鳴だった。

「ん? どうした?」

 湊が、おでこを離した。心配そうに美桜の顔を覗きこむ。その顔には、何の下心もなかった。ただ、熱を測っただけの顔だった。

 美桜は、布団を鼻の上まで引き上げた。

 それ、上級って書いたやつ……!

 スキンシップのランキング。おでこで熱を測る、上級。実習生にはまだ早い、と自分で言ったのだ。

 湊は、それを、何も知らずにやった。

「顔、赤いな。やっぱり熱上がってる」

「……上がってない」

「上がってるよ」

「上がってない!」

 湊は首をかしげて、立ち上がった。

「冷えピタ、もらってくる」

 カーテンの向こうに消えていく湊の背中を、美桜は布団の中から見送った。

 布団の中で、自分のおでこに手を当てた。

 さっき湊が触れたところだけ、まだ少し冷たかった。

 ◇

 湊が戻ってきて、美桜のおでこに冷却シートを貼った。

 ひやりとした感触に、美桜は目を閉じた。

 しばらく、静かだった。廊下の遠くで、どこかのクラスが準備をしている声がする。ブラインドの縞が、少しずつ床の上を移動していた。

「……朝倉くん」

「何?」

「私って、面倒くさい?」

 目を閉じたまま、美桜は聞いた。

 目を開けていたら、聞けなかったと思う。

 湊が、少し黙った。

「どうして?」

「だって、全部引き受けて、全部できなくて、倒れて。朝倉くんに迷惑かけて」

 美桜は、布団の端を握った。

「もっと弱いところを見せても、嫌いにならない?」

 言ってから、怖くなった。

 台本の隣に置いてあった相談カードを思い出した。弱いところを見せたら、嫌われますか。自分が書いた回答。笑顔でいれば、大丈夫です。

 笑顔でいなかったら、どうなるのか。

 美桜は、それが知りたかった。

 湊の答えは、すぐには来なかった。

 美桜は、目を開けた。湊は丸椅子の上で、自分の膝のあたりを見ていた。考えている顔だった。適当な言葉を探しているのではなく、本当のことを探している顔だった。

「絶対とは、言えない」

 美桜の胸が、きゅっと縮んだ。

「先のことは、分からないから。絶対に嫌いにならないって言ったら、嘘になる気がする」

 湊は、顔を上げた。

「でも、今は、嫌いじゃない」

 まっすぐな目だった。

「美桜が弱いところを見せても、困らない」

 美桜は、湊の顔を見つめた。

 絶対大丈夫だよ、と言ってくれる人はたくさんいた。友達も、家族も、美桜が不安そうな顔をすると、すぐにそう言ってくれた。でも、その言葉を聞くたびに、美桜は少しだけ寂しかった。その「絶対」は、美桜を安心させるためだけの言葉だと分かっていたから。

 湊は、絶対とは言わなかった。

 今は、と言った。

 その「今は」が、美桜には、どんな「絶対」よりも本当に聞こえた。

「……そっか」

 美桜は、それだけ言った。

 それ以上言うと、泣いてしまいそうだった。

 ◇

 十五分ほどして、保健室の先生が戻ってきた。母親が迎えに来るまで、あと三十分くらいかかるらしい。

 湊は、丸椅子から立ち上がった。

「じゃあ、俺、準備室に戻るよ。台本、俺が見ておく」

 帰っちゃうんだ、と美桜は思った。

 当たり前だ。湊には湊の仕事がある。美桜が倒れたせいで、湊の仕事も増えた。引き止める理由なんてない。

 なのに、手が勝手に動いた。

 ベッドから伸ばした美桜の指が、湊のブレザーの袖を、きゅっとつかんだ。

 湊が、振り返った。

 美桜は、自分の手を見た。何をしているのだろう、と思った。でも、離せなかった。

「……もう少し、いてくれる?」

 声が、ひどく小さかった。

 湊は、少しのあいだ美桜の手を見ていた。

 それから、何も言わずに丸椅子に座り直した。

 美桜は、袖をつかんだまま、目を閉じた。

「……お願いするのって、難しいね」

「うん」

「なんで、こんなに難しいんだろう」

「じゃあ、練習しようよ」

 美桜は、目を開けた。

 湊が、少しだけ笑っていた。

「お願いする練習。実習生なんだから」

「……恋愛実習って、何でも実習にするんだね」

「初心者同士だもん」

 美桜は、くすっと笑った。

 笑いながら、胸の奥で、小さな声がした。

 実習じゃなかったら、いてくれた?

 聞けなかった。聞いたら、答えが怖かった。だから美桜は、袖をつかむ指に、ほんの少しだけ力をこめた。

 ベッド脇の台の上で、美桜のスマホが音もなく光った。

 画面に、着信の表示が二件並んでいた。

 桐島遥。

 美桜は、目を閉じていて気づかなかった。

 ◇

 美桜は、やがて浅い寝息を立てはじめた。

 袖をつかんでいた指が、ゆっくりとほどけた。湊は、その手を布団の中にそっと戻した。

 準備室から持ってきた美桜の鞄が、ベッドの足もとに置いてあった。口が少し開いていて、台本ノートの角が覗いている。

 湊は、それを鞄の中に押し戻そうとして、手を止めた。

 ノートの開いたページに、四角で囲んだ一行が見えた。

 ――相手を傷つけない表現

 丸い字だった。少し丸すぎる、美桜の字。

 その字を見た瞬間、湊の頭の奥で、何かがかすかに揺れた。

 中学の文化祭の前の日。誰もいない教室。床に散らばった、紙の花。教室の隅で、膝を抱えていた女の子。

 あのとき、湊は何と言ったのだったか。

 ――これ、どこまでやればいい?

 声だけが、遠くから聞こえてきた。自分の声だった。相手の顔は、思い出せない。泣いていたことだけ覚えている。その子が、作りかけの飾りを握りしめていたことだけ。

 あの時の声。どこかで。

 湊は、ノートを鞄に戻した。

 ベッドの上で、美桜が小さく寝返りを打った。冷却シートの端が、少しめくれていた。

 湊は丸椅子に座ったまま、美桜の寝顔を見ていた。

 実習だから、ここにいる。

 そう思った。実習生なんだから。お願いされたから。頼まれたことをやるのは、湊にとっていちばん楽なことだ。

 ……本当に、それだけか?

 湊は、自分の右の袖を見た。美桜の指がつかんでいたところが、少しだけしわになっていた。

 保健室の外で、下校を促す放送が流れはじめた。

 湊は、その袖のしわを、伸ばさなかった。


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