第七章 優しい人は、誰の味方にもなれない
美桜の熱は、二日で下がった。
三日目の放課後には、もう準備室に顔を出していた。湊が「休んでていいのに」と言うと、美桜は「もう治ったもん」と笑った。冷却シートの跡が、まだおでこにうっすら残っていた。
その日の午後、文化祭実行委員会が開かれた。
会議室の長机に、各企画の代表が並んでいる。恋愛相談ラジオの枠からは、莉子と美桜と湊、それに設営担当として蓮が出席していた。中庭ステージ全体の進行を担当する実行委員として、桐島遥の姿もあった。遥は美桜と目が合うと、軽く手を上げた。美桜は、少しぎこちなく手を振り返した。
議題は、恋愛相談ラジオの実施形式だった。
「私は、校内放送のみを提案します」
莉子が、手帳を開いたまま言った。
「相談者の匿名性を守るためです。中庭で公開収録をすれば、観客の反応が直接見えます。相談内容から本人が特定されるリスクが高まる。放送だけなら、そのリスクを最小限にできます」
「でも、それじゃ盛り上がらなくね?」
蓮が、椅子の背にもたれながら言った。
「せっかく中庭にステージがあるんだし。公開でやった方が、人も集まるし、イベントとしての価値があるだろ。文化祭なんだからさ」
「イベントの価値と相談者の安全を、同じ天秤に乗せないで」
「乗せてねえよ。両方取れる方法を考えようって言ってんの」
莉子と蓮のあいだで、空気がぴりっとした。
美桜は、二人の顔を交互に見た。
「莉子の言うことも分かるし、神谷くんの言うことも分かる……」
実行委員長が、困ったように眉を寄せた。それから、まだ何も言っていない一人に目を向けた。
「朝倉くんは、どう思う?」
会議室の視線が、湊に集まった。
湊は、机の上で指を組んだ。
莉子の言うことは正しい。相談者を守るのは、相談室のいちばん大事な仕事だ。蓮の言うことも正しい。せっかくの文化祭で、誰にも聞かれない放送をしても意味がない。
どちらを選んでも、どちらかが嫌な思いをする。
「どっちも、間違ってないと思うよ」
湊は言った。
「だから……どっちでもいいんじゃないかな」
会議室が、静かになった。
実行委員長が、何か言いたげな顔のまま口を閉じた。蓮が、小さく舌打ちした。莉子は手帳から目を上げなかった。
美桜は、湊の横顔を見ていた。
結論は、次回に持ち越された。
◇
会議のあと、準備室に戻ると、美桜が湊の机の前に立った。
手には、一枚の回答用紙を持っていた。
「これ、答えになってないよ」
湊は、差し出された回答用紙を見た。自分の字だった。昨日書いた、相談カードの回答案だ。
相談カードには、こう書いてあった。
『友達同士が喧嘩していて、どっちの味方をすればいいか分かりません』
その下に、湊の回答。
――どちらの言い分にも、理由があると思います。
「……何が、だめなの」
「だめじゃないよ。でも、この人が聞いてるのは、どっちの言い分に理由があるかじゃないでしょ」
美桜は回答用紙を机に置いた。
「さっきの会議も、そうだった」
湊は、黙った。
「朝倉くんは、どうしたいの?」
美桜の声は、責めているのではなかった。ただ、まっすぐだった。
湊は、回答用紙の上の自分の字を見つめた。几帳面で、癖のない字だった。誰が読んでも読みやすくて、誰の心にも引っかからない字。
「俺は」
声が、少しかすれた。
「誰かが嫌な思いをするのが、嫌なんだ」
美桜は、少しのあいだ湊を見ていた。
「……それって、優しいのかな?」
湊は、顔を上げた。
美桜は、困ったような、悲しいような顔をしていた。
「朝倉くんが何も言わないと、どっちの人も不安になるよ。莉子も、神谷くんも、朝倉くんが自分の意見をどう思ってるか、分からないままになる」
「……別に」
湊は、視線を逸らした。
「波風を立てたくないだけだ」
言ってから、その言葉の冷たさに、自分で少し驚いた。
美桜は、それ以上何も言わなかった。ただ、湊の机の上の回答用紙を、もう一度だけ見た。それから自分の席に戻って、台本を開いた。
準備室に、ページをめくる音だけが響いた。
◇
その日の夕方、作業が一段落したころだった。
莉子は先に帰り、蓮は設営の打ち合わせで中庭に出ていた。準備室には、また湊と美桜の二人だけが残っていた。
窓の外で、どこかのクラスが看板にペンキを塗っている。シンナーの匂いが、かすかに風に乗ってきた。
「……さっきは、ごめん」
湊が、ぽつりと言った。
美桜が、台本から顔を上げた。
「冷たい言い方した」
「ううん。私も、言い方きつかったかも」
湊は、窓の外の看板を見ていた。
「中学のとき、文化祭でさ」
美桜の手が、台本の上で止まった。
「クラスで、出し物が揉めたんだ。演劇をやりたいグループと、展示をやりたいグループで。どっちも本気で、どっちも譲らなくて」
湊は、窓枠に指をかけた。
「俺、どっちにもいい顔したくて。展示の中に、短い劇を入れたらどうかって、言ったんだ。折衷案ってやつ」
「……うん」
「でも、どっちも不満だった。演劇派は劇が短すぎるって怒って、展示派は展示が狭くなるって怒って。結局、誰も楽しくない出し物になった」
湊は、少し笑った。笑いになっていなかった。
「文化祭が終わってから、石田ってやつに言われたんだ。演劇派の中心だったやつ」
湊は、窓の外を見たまま、その言葉を口にした。
「お前って、いつも誰の味方でもないよな、って」
美桜は、息を詰めた。
「俺は、お前に賛成してほしかったんじゃない。お前がどう思ってるか、聞きたかったんだよ、って」
準備室が、静かになった。
ペンキの匂いが、また少し濃くなった。
「別に、喧嘩したわけじゃないんだ。そのあとも普通に話したし。ただ、なんか……その言葉だけ、ずっと残ってて」
湊は、窓枠から指を離した。
「それから、余計に分からなくなった。どっちかの味方をしたら、もう片方を嫌うことになる気がして。だったら、どっちの味方もしない方がいいって」
大きな事件ではなかった。誰かに裏切られたわけでも、ひどく傷つけられたわけでもない。ただ、一言が、棘のように残っていた。湊にとっては、それで十分だった。
「その日の前の日もさ」
湊は、思い出すように言った。
「準備で遅くなって、帰ろうとしたら、隣のクラスの教室で女の子が一人で泣いてて。飾りが全然終わってなくて」
美桜の指先が、冷たくなった。
「なんて声かけたらいいか分からなかったから、隣に座って、手伝った。それだけなんだけど。あの子、誰だったんだろうな」
湊は、また少し笑った。
「あれも、たぶん、何も言えなかったから手伝っただけなんだ」
◇
美桜は、台本の上で、両手を握りしめていた。
中学三年の文化祭の前の日。
美桜は、クラスの教室装飾を仕切っていた。人気者の白瀬さんなら、と任されたのだ。紙の花をたくさん作って、壁一面に貼る計画だった。
でも、段取りを間違えた。材料の発注が遅れて、作業が三日分ずれこんだ。前の日の放課後、クラスのみんなは「白瀬さん、あとよろしく」と言って帰っていった。美桜は「大丈夫、任せて」と笑った。
一人になった教室で、残りを数えた。とても終わらなかった。
美桜は、教室の隅で膝を抱えた。作りかけの紙の花を、握りつぶしていた。泣いているところを誰にも見られたくなかった。完璧な白瀬さんが、泣いているところなんて。
ドアが開いた。
隣のクラスの男子だった。名前は知っていた。朝倉くん。いつも静かで、教室の隅にいる人。
朝倉くんは、美桜の顔を見て、少しだけ立ち止まった。
大丈夫? と聞かれると思った。どうしたの、と聞かれると思った。そうしたら、美桜は笑って「なんでもない」と言うつもりだった。
でも、朝倉くんは何も聞かなかった。
黙って美桜の隣に座って、床に散らばった色紙を一枚拾った。
「これ、どこまでやればいい?」
美桜は、顔を上げた。
朝倉くんは、色紙を見ていた。美桜の泣き顔を、見ないようにしてくれていた。
「……あと、三つ」
本当は、あと三十個くらいあった。でも、口から出たのは、それだった。
「分かった。じゃあ、そこまでやろう」
朝倉くんは、黙々と紙の花を作りはじめた。不器用な手つきだった。花びらの形が少しいびつだった。でも、一つ、二つ、三つと、ちゃんと作ってくれた。
三つ作り終えると、朝倉くんは「じゃあ」と言って帰っていった。
それだけだった。特別な言葉も、慰めも、何もなかった。
でも、美桜はそのあと、一人で残りの花を全部作りきった。朝倉くんが作ったいびつな三つを、いちばん目立つ場所に貼った。
あの日、美桜は知ったのだ。
特別扱いされないことが、こんなに救いになるのだと。
◇
「……あと、三つ」
美桜は、小さな声で言った。
湊が、振り返った。
「え?」
「あの子、そう言ったでしょ。あと三つ、って」
湊の目が、ゆっくりと見開かれた。
美桜は、台本から顔を上げて、湊をまっすぐ見た。
「本当は、三十個くらいあったんだけどね」
湊は、何も言えずに美桜を見つめていた。
頭の奥で、ばらばらだったものが、音を立ててつながっていった。保健室で見たノートの丸い字。紙の花。教室の隅で膝を抱えていた女の子の、握りしめた手。
「……白瀬さんだったの」
思わず、名字に戻っていた。
「うん」
美桜は、少し恥ずかしそうに笑った。
「覚えてないと思ってた」
「顔は……覚えてなかった。ごめん」
「いいの。泣いてる顔、見ないようにしてくれてたもん」
湊は、言葉が見つからなかった。
何も言えなかったから、手伝っただけだった。慰め方が分からなかったから、黙って紙の花を作っただけだった。それを、この人は。
「朝倉くん」
美桜が、立ち上がった。
湊の前まで歩いてきて、少しだけ見上げた。
「誰かの味方になるって、他の人を嫌いになることじゃないよね」
湊は、息を止めた。
「あのとき、朝倉くんは私の味方だった。でも、クラスの誰のことも嫌いにならなかったでしょ」
「……それは」
「何も言わないままだと、私は朝倉くんが何を考えてるのか分からない」
美桜の声が、少しだけ震えた。
「……知りたいんだよ、朝倉くんのこと」
湊は、美桜の顔を見ていた。
責められているのではなかった。それが、分かった。美桜は、湊の言葉を欲しがっていた。正しい答えではなく、湊が本当に思っていることを。
石田と、同じことを言っている。
でも、石田の言葉は棘だった。美桜の言葉は、棘ではなかった。
「……考える」
湊は、それだけ言った。
美桜は、少しだけ笑って頷いた。
◇
翌日の実行委員会。
議題は、前回持ち越しになった恋愛相談ラジオの実施形式だった。
莉子は前回と同じ主張を繰り返し、蓮も前回と同じ反論をした。実行委員長が、また湊に目を向けた。
「朝倉くん。前回、どっちでもいいって言ってたけど」
会議室の視線が、湊に集まった。
湊は、立ち上がった。
立ち上がるつもりはなかった。でも、座ったままでは声が出ない気がした。
美桜が、隣で小さく息を呑む気配がした。
「俺は……」
膝が、少し震えていた。
「公開収録がいいと思う」
会議室が、しんとした。
蓮が、椅子の背から体を起こした。莉子が、手帳から顔を上げた。
「匿名性を守ることは、必要だと思う。その工夫は、早乙女と一緒に徹底的にやる」
湊は、莉子の方を見た。
「でも、俺たちが逃げずに真剣に話しているところも、見てもらいたい」
声が、最後まで出た。
「恋愛相談って、誰かに答えを教えてもらうことじゃない気がするんだ。誰かが真剣に考えてるのを見て、自分も考えるきっかけになる……そういうものなんじゃないかって。だから、見える場所でやりたい」
言い終えて、湊は座った。
心臓が、うるさかった。
莉子が、眼鏡を押し上げた。
「……条件がある」
莉子は手帳をめくった。ペンが、素早く動いた。
「読み上げる相談は、すべて事前に本人の同意を確認したものに限る。読み上げ前に、内容を私がチェックする。本人の特定につながる情報は、すべて削除する。この三つが守れるなら、公開収録に賛成する」
「守る」
湊が答えるより先に、蓮が言った。
「当たり前だろ。なあ、湊」
「……うん。守る」
実行委員長が、ほっとしたように頷いた。
「では、恋愛相談ラジオは中庭での公開収録とします」
遥が、小さく拍手をした。
湊は、膝の上で握りしめていた手を、ゆっくりと開いた。手のひらが、汗で湿っていた。
隣で、美桜が、机の下でこっそり親指を立てていた。
◇
帰り道は、夕暮れの坂道だった。
十月の終わりに近い空は、茜色から紫に変わりかけていた。坂の下の街に、ひとつずつ明かりが灯っていく。
美桜は、湊の隣を歩いていた。
いつもより、少しだけ足取りが軽かった。
「朝倉くん、かっこよかったよ」
「……やめてよ」
「ほんとだよ。膝、震えてたけど」
「見てたのか」
「見てた」
美桜が、くすくすと笑った。
湊は、恥ずかしさをごまかすように、坂の下を見た。
「……美桜が、知りたいって言ったから」
美桜の笑い声が、止まった。
湊は、言ってから、何を言ったのか気づいた。耳が熱くなった。
しばらく、二人とも黙って歩いた。
坂の途中で、美桜が足を止めた。
「ねえ」
「うん」
「私が、朝倉くんの味方になったら」
美桜は、坂の下の明かりを見ていた。
「困る?」
湊は、美桜の横顔を見た。
夕日の最後の光が、美桜の睫毛の先を、細く金色に縁取っていた。
「困らない」
声が、すぐに出た。考えるより先に出た。
美桜が、ゆっくりと湊の方を向いた。
目が合った。
「じゃあ」
美桜の唇が、小さく動いた。
「私のことも……」
その先は、出てこなかった。
美桜は、言いかけた形のまま、口を閉じた。
湊も、何かを言おうとしていた。胸の奥から、言葉がせり上がってきていた。名前のない言葉だった。言ったら、何かが変わってしまう言葉だった。
「……美桜」
名前だけが、こぼれた。
美桜の目が、揺れた。
坂の上を、自転車が一台、ベルを鳴らして通り過ぎていった。
美桜は、目を伏せた。
「……ううん。なんでもない」
湊も、それ以上は何も言えなかった。
二人は、また歩き出した。茜色が、紫に、紫が、藍色に変わっていく。坂の下に着くころには、空にひとつ、星が出ていた。
言わなかった言葉が、二人のあいだに、ひとつずつ置き去りになっていた。




