第五章 理想の彼女は、焼きそばパンを知らない
好感度向上ノートは、三日で八ページになった。
美桜は授業の合間にも、休み時間にも、ノートを開いた。調べることの項目は、日に日に増えていく。好きな食べ物。好きな映画。好きなタイプ。好きな服。行きたいデート場所。恋人にされて嬉しいこと。
表紙をめくると、最初の見開きに大きく書いてある。
――朝倉湊・好感度向上計画
「……まずは、胃袋を掴むべき?」
昼休みの旧視聴覚準備室で、美桜はノートに向かって呟いた。
向かいの席で弁当を食べていた湊が、箸を止めた。
「何の話?」
「なっ、なんでもない! 実習の話!」
美桜は慌ててノートを閉じた。危なかった。表紙は見られていない、はずだ。
気を取り直して、美桜は咳払いをした。
「ねえ、朝倉くん。実習の参考に聞きたいんだけど」
「うん」
「恋人に何をされたら、嬉しい?」
湊は、塩鮭をほぐしかけた箸を宙に浮かせたまま、しばらく黙った。
眉が少しだけ寄っている。考えている顔だった。窓の外を見て、弁当箱を見て、また窓の外を見た。
「……考えたことないな」
予想していなかった答えだった。
「一回も?」
「一回も。恋人がいたことないし」
「でも、想像とか」
「……あんまり」
湊は箸を動かして、塩鮭を口に運んだ。それで話は終わり、というふうだった。
美桜は、閉じたノートの上で指を組んだ。
この人は、自分が何をされたら嬉しいかを、考えたことがないのだ。好きな食べ物を聞いても、たぶん「何でも」と言うだろう。好きな映画を聞いても、「何でもいい」と言うだろう。
なら、本人に聞いても分からない。
別の方法で調べるしかない。
◇
翌日の休み時間、美桜は廊下で神谷蓮を呼び止めた。
「神谷くん、ちょっといい?」
「お、白瀬。珍しいな」
蓮は、購買帰りらしく、パンの袋を片手にぶら下げていた。美桜は周りに人がいないのを確かめてから、声を落とした。
「朝倉くんの好物って、何か知ってる?」
蓮の眉が、ぴくりと上がった。
それから、口の端がゆっくりと持ち上がった。何か面白いことを思いついたときの顔だった。美桜はそれに気づかなかった。
「湊の好物?」
「うん」
「焼きそばパン一択だな」
「焼きそばパン」
「購買の。あいつ、昔からあれに目がないんだよ。でも人気だから、なかなか買えなくてさ。毎日悔しそうにしてる」
「そうなんだ……!」
美桜は、心の中のノートに大きく書きこんだ。焼きそばパン。購買。人気。なかなか買えない。
蓮は、それはそれは楽しそうに笑っていた。
◇
次の日の昼休み、湊が準備室で弁当を広げようとしたとき、ドアが勢いよく開いた。
美桜が、息を切らして立っていた。
髪が少し乱れている。ブレザーの襟が片方めくれていた。そして両手で、何かを大事そうに抱えていた。
「朝倉くん!」
美桜は早足で湊の机まで来て、それを差し出した。
「買ってきたよ!」
ラップに包まれた、焼きそばパンだった。
ただし、だいぶ潰れていた。コッペパンの真ん中が凹んで、はみ出した焼きそばがラップの内側に張りついている。紅生姜の赤が、潰れた拍子に偏って、片側に寄っていた。
購買の焼きそばパン争奪戦が、四時間目終わりのチャイムと同時に始まることは、全校生徒が知っている。運動部の男子が全力で走り、毎日五分で売り切れる。そこに、美桜は勝ったのだ。
湊は、パンと美桜の顔を交互に見た。
「……これ、俺に?」
「うん! 朝倉くんの好物でしょ?」
美桜の目が、きらきらしていた。褒めてほしい子どもみたいな目だった。
湊は、潰れたパンを受け取った。まだ少し温かかった。紅生姜とソースの匂いが、ラップ越しにふわりと立ちのぼった。
どうしよう、と思った。
焼きそばパンは、嫌いではない。でも、特別好きなわけでもない。購買で買ったことも、たぶん一回か二回しかない。
誰に聞いたのかは、すぐに想像がついた。
「あ……ありがとう」
湊は、パンを両手で持ったまま言った。嘘をつくのは苦手だった。
「別に、好物ってわけじゃない」
「えっ……」
美桜の顔から、きらきらが消えた。
一秒。二秒。
三秒目で、美桜は湊の向かいの机に、ゆっくりと突っ伏した。
額が机に当たる、ごつ、という小さな音がした。両手で頭を抱えている。髪のすきまから見える耳が、みるみるうちに赤くなっていった。
「うそ……」
くぐもった声がした。
「最悪……穴があったら入りたい……」
「白瀬さん」
「神谷くんのばか……私のばか……」
美桜は、突っ伏したまま足をじたばたさせた。上履きが床を叩く音が、狭い準備室に響いた。
湊は、潰れた焼きそばパンを見下ろした。
これを買うために、美桜は四時間目のチャイムと同時に教室を飛び出したのだ。運動部の男子にまじって、購買に並んだのだ。ブレザーの襟がめくれるくらい、走ったのだ。
湊は、パンのラップをはがした。
「嫌いじゃないよ」
美桜の足が、ぴたりと止まった。
「せっかくだし、もらう」
湊は、潰れたパンにかぶりついた。焼きそばのソースが少し甘かった。紅生姜がつんとした。パンは潰れていたけど、ちゃんとおいしかった。
美桜が、突っ伏した腕のすきまから、片目だけでこちらを見ていた。
「……ほんとに?」
「ほんとに。おいしい」
「……無理してない?」
「してない」
美桜は、しばらく片目のまま湊を見ていた。それから、またゆっくり顔を腕に埋めた。
「……笑わないの?」
「なんで」
「だって、恥ずかしいでしょ。好物でもないもの、走って買ってきて」
湊は、二口目を飲みこんでから言った。
「走ってくれたのは、嬉しいよ」
美桜は何も言わなかった。
ただ、腕の中から、小さく鼻をすする音が聞こえた気がした。泣いているのではなかった。たぶん、顔を上げられないだけだった。
その日の放課後、湊が蓮の肩を一発だけ軽く叩いたことを、美桜は知らない。
◇
数日後、美桜は回答用紙を前に、ペンを止めていた。
手もとの相談カードには、こう書いてあった。
『彼氏の好みに合わせていたら、自分の好きなものが分からなくなりました。これって、普通ですか?』
美桜は、少し考えてから書いた。
――相手に合わせられるのも、愛情だと思います。好きな人が喜ぶ顔を見たいと思うのは、自然なことです。
書き終えて、読み返した。悪くない回答だと思った。
「それ、美桜の回答?」
いつの間にか、莉子が後ろから覗きこんでいた。
美桜はびくりとして、回答用紙を手で押さえた。
「ちょっと、見ないでよ」
「回答をチェックするのが私の仕事」
莉子は回答用紙を引き抜いて、眼鏡の奥の目でじっと読んだ。それから、美桜の隣の椅子に座った。
「ねえ、美桜。前に聞いてきたでしょ。男子って一般的にどんな女子が好きか、って」
「……うん」
「男の子が何を好きか、じゃなくて、朝倉くんが何を好きかでしょ」
美桜は、言葉に詰まった。
莉子は、回答用紙を机の上に戻した。指先が、さっき美桜が書いた一文をなぞった。
「相手に合わせ続けるのって、いつか苦しくなるよ」
その声が、いつもの事務的な調子より、ほんの少しだけ低かった。
美桜は、莉子の横顔を見た。莉子は回答用紙を見ていた。でも、本当はもっと遠くを見ているような目だった。
「別に、無理してるわけじゃないよ」
美桜は、明るく言った。
「喜んでほしいだけ」
莉子は、しばらく何も言わなかった。
それから眼鏡を押し上げて、立ち上がった。
「この回答、保留にしておく」
「え、なんで」
「なんとなく」
莉子が「なんとなく」と言うのを、美桜は初めて聞いた。
◇
次の日曜日は、二回目のデートだった。
映画館の前で、美桜はスマホの上映スケジュールを見ていた。
本当は、見たい映画があった。今月公開されたばかりの恋愛映画だ。原作の小説を、美桜は三回読んでいる。予告編も、二十回は見た。
でも、好感度向上ノートの「好きな映画」の欄には、蓮に聞いた情報が書いてある。今度は、ちゃんと裏も取った。湊のクラスの男子二人に、それとなく聞いたのだ。
――湊は、ミステリーとか社会派とか、考えさせる系が好きらしい。
「朝倉くん、これにしない?」
美桜が指さしたのは、法廷を舞台にした社会派サスペンスだった。
「白瀬さん、こういうの見るんだ」
「うん、私もこういうの好きなんだ」
嘘だった。
嘘をついた瞬間、胸の奥で、何かがかすかに軋んだ。でも美桜は、笑顔のまま、チケットの券売機に向かった。
◇
映画は、二時間二十分あった。
美桜は、半分も理解できなかった。登場人物が多すぎて、誰が誰の味方なのか途中で分からなくなった。それでも、隣の湊が真剣にスクリーンを見ていたので、美桜も真剣な顔をし続けた。
エンドロールが流れて、館内の明かりがついた。
「すごく考えさせられる映画だったね!」
ロビーに出たところで、美桜は言った。ネットで見た感想の言葉を、そのまま借りた。
「うん」
湊は頷いて、それから、少し考えるように視線を落とした。
「……でも俺、ああいうの苦手なんだ」
「え?」
「主人公。自分が何をしたいか言わないまま、周りに決めてもらうの」
美桜は、足を止めた。
湊は、気づかずに二歩先まで歩いて、振り返った。
「最後まで、自分の意見を一回も言わなかっただろ。証言するかどうかも、弁護士に決めてもらって。それで結局、全部壊れちゃう。……ああいうの、見ててしんどい」
湊は、少し困ったように笑った。
自分のことを言っているとは、まるで思っていない顔だった。
美桜は、その言葉を胸の真ん中で受け止めた。
自分が何をしたいか言わないまま。
今、映画を選んだのは誰だったか。本当は何が見たかったか。「私もこういうの好きなんだ」と言ったのは、誰だったか。
湊の言葉は、湊自身に向けられたものではなかった。
まっすぐ、美桜に刺さっていた。
「……白瀬さん?」
「あ、ううん。なんでもない。分かる、分かるよ」
美桜は、急いで笑顔を作った。
◇
映画館の隣のカフェで、二人は向かい合って座った。
美桜は、ノートに書いてあったとおりの話題を順番に出した。湊のクラスの話。湊の好きな教科。湊が最近読んだ本。湊はひとつずつ答えた。でも、どの答えも短かった。
会話が途切れるたびに、美桜は次の話題を探した。ノートのページを、頭の中でめくった。
湊が、アイスティーのストローから口を離した。
「……白瀬さん、なんか今日、変だよ」
美桜の手が、カップの上で止まった。
「変?」
「うん。なんていうか」
湊は、言葉を選ぶように少し黙った。
「前の美桜の方が、好き勝手に話してた気がする」
美桜は、息をするのを忘れた。
今、名前を呼ばれた。
空き教室で練習したときは、二人とも一回で挫折した。それから三週間、湊は一度も呼ばなかった。宿題は、ノートの最初のページで、ずっと空白のままだった。
それが今、何の前触れもなく、呼ばれた。
「……今、名前」
湊が、はっとしたように瞬きをした。
それから、みるみる耳が赤くなった。
「あ。……宿題、だったから」
湊は、アイスティーのグラスに視線を落とした。
美桜は、何か言わなければと思った。嬉しい、と言いたかった。ありがとう、と言いたかった。宿題、やっとできたね、と笑いたかった。
でも、その前に、湊が言った言葉が頭の中で響いていた。
前の美桜の方が、好き勝手に話してた。
前の美桜。
今の美桜は、違うということだ。
ノートに書いたとおりに話して、湊の好みに合わせて、見たくもない映画を選んで。そういう今の自分ではなく、パンケーキが甘すぎたと愚痴をこぼした、たまごサンドが好きだと言った、あの前の自分の方が。
初めて名前で呼ばれたのは、自分を隠している最中だった。
「なにそれ」
美桜は、笑った。
「私、そんなに自由人だった?……あはは」
声は、ちゃんと明るく出た。
湊は、少しほっとしたような顔をした。それで、その話は終わった。
◇
帰りの電車で、美桜は一人だった。
湊とは、乗り換えの駅で別れた。「またね」と手を振って、ドアが閉まって、湊の姿がホームの向こうに流れていった。
美桜は、窓に映る自分の顔を見た。
ちゃんと笑えていた。最後まで。
鞄の中には、好感度向上ノートが入っている。今日のデートの反省を、帰ったら書くつもりだった。湊の反応。湊が喜んだ話題。湊が退屈そうだった話題。
――前の美桜の方が、好き勝手に話してた気がする。
電車が、トンネルに入った。窓が真っ暗になって、自分の顔がくっきりと浮かんだ。
私、何が好きだったんだっけ。
美桜は、ふと考えた。
恋愛映画が好きだった。たまごサンドが好きだった。それから。それから、何だっけ。好きな色。好きな音楽。好きな場所。ノートには湊の好きなものがたくさん書いてあるのに、自分の好きなものは、一つも書いていなかった。
トンネルを抜けた。
窓の外に、夕暮れの街が広がった。
美桜は、鞄を膝の上で抱きしめた。ノートの角が、腕に当たって少し痛かった。
スマホが震えた。
――今日はありがとう。映画、美桜が選んだやつ、面白かった
湊からだった。
美桜は、画面を見つめた。
美桜、と書いてあった。宿題が、ちゃんと続いていた。
嬉しいはずだった。
なのに、美桜が選んだやつ、という言葉の方が、胸に引っかかって取れなかった。あの映画を選んだのは、美桜ではない。ノートに書いた、湊の好きそうなものを選ぶ女の子だ。
美桜は返信の画面を開いて、しばらく何も打てなかった。
それから、いつものように短く送った。
――こちらこそ。実習、順調だね




