第四章 嫉妬の芽
図書室は、校舎の中でいちばん静かな場所だった。
美桜は、相談室で使う資料を探しに来ていた。莉子に頼まれた「恋愛の心理学」の本を二冊。検索機で棚の番号を調べ、奥の書架に向かいかけたところで、足が止まった。
カウンターの前に、湊がいた。
カウンターの内側には、小柄な女の子が座っている。胸もとのリボンの色で一年生だと分かった。肩より少し長い髪を、耳にかけている。図書委員の腕章をつけていた。
女の子は、一冊の文庫本を両手で持って、湊に何かを熱心に話していた。
「朝倉先輩、この本、先輩の雰囲気に合ってると思います」
小さな声だったが、静かな図書室ではよく通った。
「主人公がですね、すごく穏やかで、周りの人の話をずっと聞いてるんです。でも最後に、一回だけ自分の気持ちを言うところがあって。そこが、すごくいいんです」
「へえ」
湊は、文庫本を受け取って表紙を眺めた。
それから、笑った。
「ありがとう。小野寺さんって、本当に本に詳しいね」
美桜は書架の陰で、立ち尽くした。
湊の、あの笑い方。肩の力が抜けた、目もとがやわらかくなる笑い方。空き教室で名前を呼び合ったあと、たった一度だけ見せた顔だった。
あれは、自分にだけ見せた顔ではなかったのだ。
……なんで、あんなに優しく笑ってるの?
胸の奥に、何か黒いものがじわりと広がった。インクを一滴、水に落としたみたいだった。最初は小さな点なのに、見ているうちにどんどん広がって、水全体が濁っていく。
美桜は、それが何なのか分からなかった。
分からないまま、書架から本を二冊抜き取って、カウンターとは反対側の出口から図書室を出た。
◇
美桜が出ていったことに、湊は気づいていなかった。
カウンターの向こうで、小野寺紬は、文庫本の帯を指先でなぞっていた。本を勧めるときは饒舌なのに、それ以外の話になると、急に言葉が少なくなる子だった。湊が相談カードの資料を借りに来るようになって、二週間ほどになる。
「あの、朝倉先輩」
「うん」
「相談室って、どんな相談でも聞いてもらえるんですか」
「たぶん。匿名なら」
紬は、少しだけ視線を窓の方に動かした。
窓際の閲覧席で、一年生の男子が友達と小声で話していた。友達のプリントを一緒に覗きこんで、何かを教えているらしい。紬の視線は、その男子の上で、ほんの一秒だけ止まった。
「……誰にでも優しい人って、どう思いますか」
「どうって?」
「その人が優しくしてくれても、それが特別なのか、誰にでもなのか、分からないじゃないですか」
湊は、少し考えた。
「誰にでも優しいなら、それはそれで、いい人なんじゃないかな」
紬は、何かを言いかけて、やめた。
それから、文庫本を湊の方へ押し出した。
「……これ、返却期限、二週間です」
「ありがとう」
湊は、紬が窓際の誰を見ていたのか、まったく気づいていなかった。
◇
放課後の旧視聴覚準備室は、その日、美桜と湊の二人だけだった。
莉子は生徒会の打ち合わせで遅れると連絡があった。三角形に並べた長机のうち、莉子の辺だけが空いている。
湊は、いつもの席で相談カードを仕分けていた。
美桜は、少し迷ってから、自分の席ではなく、湊の隣の椅子を引いた。
「……白瀬さん?」
「こっちの方が、カード見やすいから」
「そう?」
湊は特に気にした様子もなく、カードの束を二人のあいだに寄せた。
美桜は、湊の手もとを見ていた。机の上には、湊のシンプルな紺色の筆箱がある。その隣に、図書室で見たあの文庫本が置いてあった。
聞きたかった。
あの子、誰? 仲いいの? いつから? あの本、借りたの?
喉まで出かかった言葉を、美桜は全部飲みこんだ。そんなことを聞いたら、まるで嫉妬しているみたいだ。実習相手が他の女の子と話していたくらいで。
そもそも、自分たちは恋人ではない。
美桜は鞄を開けた。中から、ウサギのキーホルダーを取り出した。鞄につけていたものを、今朝、なんとなく外して持ってきていたのだ。
それを、湊の筆箱の真横に、ぴったりくっつけて置いた。
文庫本と筆箱のあいだに、ウサギが挟まる形になった。
湊が、カードから顔を上げた。
「白瀬さん、これ忘れてるよ」
「忘れてないよ!」
思ったより大きな声が出た。
「朝倉くんに、預けておくの!」
「え、なんで?」
湊が、心底不思議そうな顔をした。
なんで、と聞かれても困る。美桜にも分からないのだ。分からないから、子どもみたいなことをしている。
「……理由なんてないの! 預かってて!」
湊はしばらくウサギを見つめていた。それから、そっと指でつまんで、筆箱の横に置き直した。さっきより、少しだけ丁寧に。
「……分かった。預かっとく」
美桜は、何も言えずに頷いた。
顔が熱かった。何をやっているんだろう、と思った。
気まずさをごまかすように、美桜は相談カードの束から一枚を引き抜いた。今日の分の読み上げは、美桜の担当だった。
四つ折りを開いて、目を落とす。
読みはじめてから、しまった、と思った。
「『好きな人が、他の子と仲良くしていて、もやもやします』……」
声が、途中から裏返った。
「『これって、嫉妬ですか?』」
準備室が、しんとした。
美桜は、カードで顔を半分隠した。偶然だ。完全に偶然だ。誰がどこで書いたのかも分からない、一枚のカードだ。
なのに、心臓がうるさい。
湊は、少し考えるように窓の外を見た。それから、何でもないことのように言った。
「嫉妬って、相手のことを大事に思ってる証拠なんじゃないかな」
美桜は、カードの向こうで固まった。
「どうでもいい人が誰と仲良くしてても、もやもやしないと思うから。もやもやするってことは、その人が大事なんだと思う」
湊は、ごく真面目な顔だった。相談カードへの回答を考えている顔だった。
目の前に座っている美桜のことなど、一ミリも考えていない顔だった。
「……そ、そういう回答で」
美桜は、カードを机に伏せた。
「いいと思う!」
「ほんと? じゃあ、これで書くね」
湊は回答用紙を引き寄せて、几帳面な字で書きはじめた。
美桜は、その横顔をちらりと見て、それから自分の膝を見た。スカートのプリーツを、無意識に指で強く握っていた。
大事に思ってる証拠。
湊に言われると、まるで答え合わせをされたみたいだった。
ドアが開いて、莉子が入ってきた。
「遅くなった。……美桜、なんでそっちに座ってるの」
「カード、見やすいから!」
莉子は、湊の隣の美桜と、筆箱の横のウサギと、美桜の赤い顔を順番に見た。
それから、何も言わずに自分の席に座り、手帳を開いた。ペン先が、何かを小さく書きこんだ。
◇
帰り道、美桜は一人だった。
湊は莉子と回答の打ち合わせが残っていて、先に帰っていいと言われたのだ。いつもなら少し寂しいと思うところが、今日はありがたかった。湊の顔を、まっすぐ見られる自信がなかった。
駅までの坂道を、美桜はゆっくり下った。
嫌な子だな、と思った。
図書室のあの子は、何も悪くない。湊に本を勧めていただけだ。湊も、ただお礼を言って笑っただけだ。それを見て、黒いものが胸に広がった。キーホルダーを押しつけた。理由を聞かれて、子どもみたいに怒った。
嫌な子だ。わがままで、面倒くさい子だ。
こんな自分を知ったら、湊はきっと困る。
美桜は、鞄の中のノートを思い出した。「恋愛実習」と書いた、あのノートだ。
家に帰ると、美桜は机に向かってノートを開いた。最初のページの「名前呼び(宿題)」の下に、まだ何も書いていない空白が続いている。
美桜はページをめくって、新しい見開きの上に、ペンを走らせた。
――朝倉湊・好感度向上ノート
丸い字だった。いつもの、少し丸すぎる字。
その下に、思いつくことを書いていく。
――聞き上手。穏やか。誰にでも優しい。
湊が好きになりそうな女の子を、想像して書いた。図書室のあの子みたいな、静かで、本が好きで、相手の話をちゃんと聞ける子。
朝倉くんが好きなのは、聞き上手で、穏やかで、誰にでも優しい女の子。
わがままな私じゃない。
ペンを握る指に、力がこもった。
だったら、なればいい。
理想の彼女になればいい。実習なんだから、練習すればいいのだ。湊が喜ぶことを調べて、湊が好きなものを知って、湊が困らないように。そうすれば、嫌われない。
美桜は、ノートの次の行に書いた。
――調べること。好きな食べ物。好きな映画。好きなタイプ。
窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。
ノートの文字だけが、デスクライトの丸い光の中で、くっきりと浮かんでいた。
◇
同じ夜、湊は自分の部屋で、筆箱を開けていた。
夕方、準備室を出るときに、ウサギのキーホルダーを返しそびれたのだ。美桜はもう帰っていた。明日返せばいい、と思った。
机の上で、ウサギがこちらを見ている。少し色のあせた、白いウサギだ。片方の耳の先が、ほんの少しほつれていた。きっと、長いあいだ美桜の鞄で揺れていたのだろう。
湊はそれを手のひらに載せて、しばらく眺めた。
預かってて、と美桜は言った。
理由はないと言った。
湊はウサギを、筆箱の内ポケットにそっとしまった。落とさないように、ファスナーを最後まで閉めた。
明日返そう、ともう一度思った。
でも、たぶん返さないだろうな、とも思った。




