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第三章 手をつなぐ練習

 十月に入って、制服がブレザーに変わった。

 旧視聴覚準備室の窓から入る風は、もう夏の匂いがしない。投函箱には、少しずつ相談カードが溜まりはじめていた。週に三、四枚。多くはないが、ゼロではない。莉子はそれを一枚ずつ読み、手帳に分類を書きこみ、回答の担当を割り振っていく。

 その日のカードを開いたのは、美桜だった。

「『手をつなぐタイミングが分かりません』――一年、男子」

 美桜は読み上げてから、カードを机の上に置いた。

 置いたまま、しばらく黙っていた。

 湊はその横顔を見て、嫌な予感がした。美桜は何かを決意したとき、口をきゅっと結ぶ癖がある。この二週間で、それくらいは分かるようになっていた。

「朝倉くん」

「……はい」

「次の実習ステップを発表します」

 美桜はノートを開いた。表紙の「恋愛実習」の字は、この二週間でだいぶ角が擦れている。

「スキンシップ」

 湊は、手にしていたシャーペンを落としかけた。

 莉子は手帳から目を上げもしなかった。

「美桜、それ、相談室でやる話?」

「相談室でやる話だよ。だってこのカード、答えられないもん。私も朝倉くんも、手をつないだことないんだから」

「……それはそうね」

 莉子はあっさり引き下がった。それから手帳を閉じて、鞄を持って立ち上がった。

「私、生徒会の会議があるから。二人で回答案、まとめておいて」

「え、早乙女」

「シミュレーション、がんばって」

 ドアが閉まった。

 足音が廊下を遠ざかっていく。湊は、閉まったドアを呆然と見つめた。会議なんて、さっきまで一言も言っていなかった気がする。

 美桜は気にした様子もなく、スマホの画面をこちらに向けた。

「ネットのアンケートだとね、手をつなぐのは、三回目のデートまでが多数派らしいよ」

「実習のカリキュラムみたいに言わないでよ」

「カリキュラムだよ! 早く慣れないと!」

 美桜は真剣だった。真剣すぎて、湊は笑うに笑えなかった。

 画面をスクロールすると、「恋人とのスキンシップ 段階別ランキング」という記事が出てきた。手をつなぐ、頭をなでる、ハグ。その下に、見慣れない項目が並んでいる。

「……おでこで熱を測る、上級」

「それは、ほら、具合が悪いときのやつ。今は関係ない」

「腕を組む、上級。実習では禁止」

「それは私が書き足したの」

 美桜はノートの該当ページを指でとんとんと叩いた。たしかに、丸い字で「腕組み(上級)→実習では禁止!」と書いてある。

「……禁止なんだ」

「上級だから! 実習生にはまだ早いの!」

 禁止の理由になっているのか分からなかったが、美桜の頬がうっすら赤かったので、湊はそれ以上聞かないことにした。

「だから今日は、手をつなぐ。それだけ」

「今日?」

「帰り道。裏の道なら、誰にも見られないし」

 美桜はノートを閉じて、湊を見た。

 口が、きゅっと結ばれていた。

 ◇

 校舎の裏門を出て、住宅街を抜ける細い道がある。表の坂道より遠回りなので、使う生徒はほとんどいない。

 十月の夕方は、日が落ちるのが早かった。五時を過ぎると、空の色が急速に薄くなっていく。道の両側の家に、ぽつぽつと明かりがついていた。

 二人は、並んで歩いていた。

 何も話さなかった。

 湊は、自分の左手の置き場所が分からなかった。ポケットに入れたら、拒んでいるみたいだ。ぶらぶらさせたら、待っているみたいだ。結局、鞄の持ち手を必要以上に強く握っていた。

 隣の美桜も、たぶん同じことを考えている。さっきから三回、前髪を整えた。

 電柱を二本過ぎたところで、美桜の足が止まった。

 湊のブレザーの袖が、くい、と引かれた。

 振り返ると、美桜が袖の端をつまんでいた。指先だけで、本当にほんの少しだけ。

 視線は、湊の胸のあたりに落ちていた。

「……手、出して」

 小さな声だった。

「……うん」

 湊は、鞄を右手に持ち替えた。左手を、ぎこちなく美桜の方へ差し出す。手のひらを上にするのか、横にするのか、それすら分からなかった。

 美桜の指が、そっと触れた。

 冷たかった。

 驚くほど冷たい指先が、湊の手のひらの上を探るように動いて、それから、指と指のあいだに滑りこんだ。湊は、どう握り返せばいいのか分からないまま、少しだけ指を曲げた。

 つながった。

 湊の心臓が、ひとつ大きく跳ねた。そのあと、うるさいくらいに速く打ちはじめた。手のひらから、自分の鼓動が美桜に伝わってしまうのではないかと思った。

「……つないだね」

 美桜が、うつむいたまま言った。

「……つないだ」

 湊は、前を向いたまま答えた。

 二人は、また歩き出した。歩幅が合わなくて、一度つないだ手が引っぱられた。美桜が小走りになり、湊が遅くなり、三歩目でやっと揃った。

 しばらくして、美桜が、本当に小さな声で言った。

「……あったかいね」

「白瀬さんの手が、冷たいんだよ」

 湊は、思ったより普通の声が出たことに安心した。

 美桜は何も言い返さなかった。

 つないだ手に、少しだけ力がこもった。

 ◇

 次の角を曲がったところで、美桜の手が、こわばっていることに湊は気づいた。

 冷たいだけではなかった。指先に力が入りすぎて、関節が白くなっている。緊張しているのだ、と思った。自分も緊張しているが、美桜はたぶん、それ以上に。

 湊は足を止めた。

 美桜が、不安そうに顔を上げた。

「朝倉くん?」

 何をしようと考えたわけではなかった。

 冷たいものがあったら、温める。湊の家では、冬に母親が帰ってくると、玄関でいつもそうしていた。だから、手が勝手に動いた。

 湊は、つないでいた手をほどいた。

 美桜の顔に、一瞬、怯えのようなものが走った。

 その手を、湊は両手で包んだ。

 美桜の小さな手が、湊の両手のひらのあいだにすっぽり収まる。それでもまだ冷たかったので、湊は包んだ手を口もとに近づけて、ふっと息を吹きかけた。

 白い息は出なかった。まだ十月だ。

 それでも、手のひらのあいだに、温かい空気がこもった。

「まだ冷たいな」

 湊は、美桜の手をもう一度ゆるく握り直した。

「白瀬さん、冷え性?」

 返事がなかった。

 顔を上げると、美桜は、完全に固まっていた。

 目を見開いたまま、まばたきもしない。唇がわずかに開いて、何かを言いかけた形で止まっている。夕闇の中でも分かるくらい、首筋から耳まで真っ赤だった。

「……あ、さくら、くん……!?」

「ん? どうした?」

 美桜の手が、湊の両手の中で、ぴくりと震えた。

 湊は首をかしげた。何か変なことをしただろうか。冷たい手を温めただけだ。

 次の瞬間、美桜は手を引き抜いた。

「……なんでも、ない!」

 両手を胸の前でぎゅっと握りしめて、一歩下がる。

「バカ!」

「え、なんで」

 湊は本気で分からなかった。

 美桜は口を開け、閉じ、また開けた。それから、勢いよく前を向いた。

「……今の、実習だからね!」

 声が、少し裏返っていた。

「実習の範囲内だからね!」

 湊は、その横顔を見た。

 実習の範囲内。そうだ、と思った。これは実習で、手をつなぐのも課題で、温めたのはただの親切だ。美桜がそう言うのだから、そういうことなのだ。

 なのに、胸の真ん中が、少しだけ沈んだ。

「……分かってる」

 湊はそう答えた。

 美桜は、何も言わなかった。言わなかったけれど、ほんの一瞬だけ、唇を噛んだのが見えた。

 二人は、また歩き出した。

 今度は、手をつながなかった。でも、さっきより半歩近い距離で並んでいた。湊の手の中には、まだ美桜の指の冷たさが残っていた。美桜の手には、たぶん、湊の息の温かさが残っていた。

 駅の明かりが見えてきたとき、美桜がぽつりと言った。

「……回答案、どうしよう」

「あ」

 すっかり忘れていた。

「『手をつなぐタイミングが分かりません』」

「……分かった?」

「全然」

 美桜は、少しだけ笑った。

「私も。タイミングとか、考えてる余裕なかった」

「じゃあ、そう書く?」

「『考えてる余裕はありません』って?」

「……正直ではある」

 美桜が、今度はちゃんと声を出して笑った。

 湊も笑った。笑いながら、さっき胸が沈んだことを、なかったことにした。

 ◇

 翌朝、美桜は昇降口で、桐島遥に肩を叩かれた。

「おはよ、美桜」

「わっ、遥。おはよう」

 遥は、陸上部の朝練帰りらしく、首にタオルをかけていた。ジャージの上にブレザーを羽織って、スポーツドリンクのボトルを抱えている。中学のときから、遥はいつもこうだった。さっぱりしていて、髪が短くて、走るのが速い。

 遥は、美桜の顔をじっと見た。

「何かいいことあった?」

「え、なんで?」

「顔。ゆるんでる」

「ゆるんでないよ!」

 美桜は、思わず頬を両手で押さえた。押さえてから、それが答えになっていることに気づいた。

 遥は、ふうん、と鼻を鳴らした。それ以上は聞かなかった。遥は、いつもそうだ。美桜が言いたくないことは、無理に聞かない。

「ねえ、美桜。頼みがあるんだけど」

「うん?」

「文化祭で、陸上部も展示やるんだ。部室の前で。パネル作るの、手伝ってくれない? 美桜、字きれいだし、レイアウトとかうまいじゃん」

「もちろん」

 美桜は、すぐに頷いた。

「任せて。いつ?」

「来週あたりから、何回か。また連絡する」

「分かった。絶対行く」

 遥は、少しだけほっとしたように笑った。

「助かる。最近、ちょっと、記録が伸びなくてさ。展示くらいは、ちゃんとしたのにしたいんだよね」

「そうなんだ。遥なら大丈夫だよ」

 美桜は、明るく言った。

 言いながら、頭の半分は、昨日の裏道のことを考えていた。両手で包まれた、自分の手。ふっと吹きかけられた、温かい息。

 遥は、美桜の「大丈夫」を聞いて、ほんの一瞬だけ、何か言いたそうな顔をした。

 でも、美桜はそれに気づかなかった。

「じゃ、また連絡するね」

「うん!」

 遥は、ボトルを抱えて、自分の教室の方へ歩いていった。

 美桜は、下駄箱の前で、もう一度だけ自分の手を見た。

 ◇

 翌日、莉子は二人が提出した回答案を読んで、眉を寄せた。

『手をつなぐタイミングは、考えても分からないと思います。でも、相手の手が冷たかったら、温めてあげるといいと思います』

「……これ、どっちが書いたの?」

「二人で」

 湊と美桜が、同時に答えた。

 莉子は、二人の顔を交互に見た。美桜は窓の外を見ていた。湊は机の木目を見ていた。

 莉子は眼鏡を押し上げて、手帳に一行だけ書きこんだ。

 ――シミュレーション、効果あり。


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