第二章 初デート
日曜日の午前九時五十分、駅前の時計台の下に、湊は立っていた。
約束は十時だった。十分前に着いたのは、遅れて相手を待たせるのが嫌だったからだ。ついでに、何を着ていけばいいのか分からなかったので、いちばん無難な紺のシャツを選んだ。無難というのは、湊にとって最高の褒め言葉だった。
九時五十三分、美桜が改札から出てきた。
白いブラウスに、淡いベージュのスカート。耳もとで小さなイヤリングが光っている。教室で見る制服姿とは、何もかもが違って見えた。
美桜は湊を見つけると、小走りで近づいてきた。
「おはよう! 早いね」
「白瀬さんも」
「私は、ほら、実習だから」
美桜は鞄から、二つ折りにした紙を取り出した。
「それと、これ」
湊は差し出された紙を受け取った。
表紙に「初デート しおり」と書いてある。開くと、細かい時刻と予定がびっしりと並んでいた。
「十時集合、十時十五分にカフェ、十一時半から映画館……」
読み上げる湊の声に、美桜が横から指を添える。
「カフェはね、今いちばん映えるパンケーキのお店。映画のあとはランチで、そのあと雑貨屋さんを見て、三時に公園でひと休み」
「白瀬さん、それ分刻みすぎない?」
「だって、初デートってこういうものじゃない?」
美桜は真顔だった。
どうやら雑誌とネットの「初デート完全攻略」を、三つほど組み合わせたらしい。しおりの端に、参考にした記事の名前まで小さく書いてある。
「それに、今日は調査だから」
「調査」
「相談カード、二枚目が来たの。『初デートで何を話せばいいか分かりません』って。これは、その課題だから」
美桜は胸を張った。
湊はしおりの最後のページをめくって、手を止めた。
「……雨天時、相合傘?」
「そこは読まなくていいの!」
美桜がしおりを奪い返そうとして、湊の手の上から紙をつかんだ。一瞬だけ、指と指が触れた。美桜はぱっと手を離し、何事もなかったように前髪を整えた。
「折りたたみ傘、一本しか持ってきてないから。念のため」
「今日、降水確率ゼロパーセントだけど」
「念のため!」
◇
パンケーキの店は、駅から五分の路地にあった。
白い壁に、木の看板。店の前にはもう列ができていて、並んでいるのはほとんどが女の子同士か、カップルだった。湊は自分が場違いな気がして、列の最後尾でなるべく背中を丸めた。
二十分並んで、窓際の席に通された。
運ばれてきたパンケーキは、湊の予想より三倍くらい高かった。三段重ねの上に生クリームが雪山のように盛られ、苺とブルーベリーが散らしてある。その上から、さらに蜂蜜がかかっていた。
「わあ、すごい」
美桜がスマホを構えた。角度を変えて三枚撮り、満足そうに頷く。
それから、少し首をかしげて、もう一枚撮った。今度は皿を窓の方へ少しずらして、光が生クリームに当たるようにした。湊のグラスが画面に入ると、美桜は「ごめん、ちょっとだけ」と言って、それも端に寄せた。撮り終えるまで、二人とも手を膝の上に置いたまま待っていた。
「見て、すごく映えてる」
美桜が画面をこちらに向けた。たしかに、雑誌の写真みたいだった。湊が「うん、すごい」と言うと、美桜は「でしょ」と笑った。教室で聞くのと同じ、ちょうどいい大きさの笑い声だった。
「いただきます」
「いただきます」
湊は、皿の両脇に並んだナイフとフォークを見下ろした。
どちらの手に何を持つのか、一瞬分からなくなった。家ではパンケーキを箸で食べる。右手にナイフ、左手にフォーク。頭では知っているのに、左手のフォークがどうにも頼りない。三段重ねのてっぺんにナイフを当てると、生クリームの雪山がぐらりと傾いた。
湊は慌ててフォークで支えた。皿とナイフがかち合って、かつん、と思ったより大きな音が鳴った。
隣の席のカップルが、ちらりとこちらを見た気がした。
向かいの美桜は、パンケーキの端を、ナイフでほんの少しずつ切っていた。フォークを皿に当てないように、そっと持ち上げる。一口が、驚くほど小さかった。崩れた形が写らないように、スマホで撮った側にはまだ手をつけていない。背筋がまっすぐ伸びていて、肘が少しも机につかない。
ナイフを入れると、ふわりと崩れた。口に入れる。甘い。とても甘い。
湊は二口目を慎重に運びながら、向かいの美桜を見た。
美桜も、無言でパンケーキを食べていた。口角だけが、ずっと少し上がったままだった。
しおりには、たぶん「会話を楽しむ」と書いてあったのだと思う。でも、何を話せばいいのか分からなかった。相談カードと同じだ。二人とも、相手が何か言い出すのを待っている。
「……おいしいね」
「うん。おいしい」
「ふわふわだね」
「うん。ふわふわ」
会話がそこで止まった。
隣の席のカップルが、楽しそうに写真を見せ合っている。「ねえ、次どこ行く?」「どこでもいいよ」。何でもない会話が、やけにはっきり聞こえた。湊はフォークで苺を転がした。美桜はグラスの水を一口飲んで、窓の外を見た。
皿の上の生クリームが、少しずつ溶けて、蜂蜜と混ざりはじめていた。半分も減っていなかった。
美桜が、しおりをテーブルの下でそっと開いた。時刻を確かめて、また閉じた。湊はそれに気づいたけれど、見なかったことにした。
しおりの時刻が、静かに過ぎていった。
◇
映画は、美桜が選んだ恋愛映画だった。
スクリーンの中で、主人公とヒロインが雨の中で抱き合う。館内のあちこちから、すすり泣く声が聞こえた。湊はポップコーンを一粒も食べられないまま、隣の美桜が身を乗り出して見入っているのを、ときどき横目で見ていた。
映画館を出て、ランチの店へ向かう途中だった。
美桜の歩き方が、少しおかしいことに湊は気づいた。
右足をかばうように、ほんのわずかに体重が左に寄っている。階段を下りるとき、手すりをつかむ手に力が入っていた。見ると、新しそうなパンプスのかかとが、くるぶしの少し下に食いこんでいる。
靴擦れだ、と思った。
美桜は何も言わない。しおりを片手に、次の店の場所をスマホで確かめている。笑顔のままだった。
痛いなら痛いと言えばいいのに、と湊は思った。
でも、そう言ったら、美桜は困るだろう。せっかくの計画を、自分のせいで崩したと思うかもしれない。気を遣わせたと、謝るかもしれない。
湊は少し考えてから、口を開いた。
「白瀬さん」
「ん?」
「俺、喉乾いたし、ちょっと休みたい」
美桜がしおりから顔を上げた。
「え、でも、ランチの予約……」
「俺が休みたいんだ。座ろう」
湊は返事を待たずに、道の向こうの公園を指さした。ベンチが三つ並んでいて、そのうち一つが木陰に入っている。
美桜は、少しのあいだ湊の顔を見ていた。
それから、小さく頷いた。
◇
木陰のベンチに座ると、美桜は、ふう、と長い息をついた。
湊は自販機まで歩いていき、温かい缶の紅茶を二本買った。九月の終わりの昼はまだ暑いのに、なぜかそれを選んでいた。戻って一本を差し出すと、美桜は両手でそれを受け取った。
「……ありがとう」
缶を頬に当てて、美桜は目を閉じた。
しばらくそうしてから、美桜はプルタブに指をかけた。かしゅっ、と小さな音がした。一口飲んで、両手で缶を包んだまま、もう一度、ふうっと息を吐いた。今度の息は、さっきより長かった。肩が、目に見えて下がった。
カフェでは一度も肘をつかなかった美桜が、ベンチの背もたれに、ぐったりと体を預けていた。
湊は黙って隣に座った。ベンチは二人で座るには少し狭くて、肩と肩がかすかに触れた。湊は離れようかと思ったが、動くと余計に意識している気がして、そのままにした。
公園の向こうで、小さな子どもが鳩を追いかけている。
美桜がそっと、右足のパンプスのかかとを浮かせた。湊は見ないふりをした。
「……あのね」
美桜が、缶を膝の上に下ろした。
「あそこのパンケーキ、甘すぎて、実はちょっときつかったかも」
湊は、思わず美桜の顔を見た。
美桜は、少し恥ずかしそうに笑っていた。教室の笑顔とは違う。口の端が片方だけ上がった、気の抜けた笑い方だった。
「……俺も」
「ほんと?」
「普通のサンドイッチの方が、落ち着く」
「分かる! 私、本当はコンビニのたまごサンドがいちばん好き」
「たまごサンドなんだ」
「内緒だよ。映えないから」
美桜が、くすくすと笑った。湊も笑った。
しおりのどのページにも書いていない時間だった。パンケーキより、映画より、ずっと普通の時間だった。
なのに、湊は今日いちばん、楽だと思った。
美桜も缶の紅茶を飲みながら、肩の力が抜けたように背もたれに体を預けていた。ときどき、二人の肩がまた触れた。今度は、どちらも離れなかった。
「朝倉くん」
「何?」
「喉、乾いてた?」
湊は缶を持ったまま、少し黙った。
「……乾いてた」
「ふうん」
美桜はそれ以上、何も聞かなかった。
ただ、缶を握る指先に、少しだけ力がこもった。
しばらくして、美桜がぽつりと言った。
「朝倉くんって、兄弟いる?」
「いない。一人っ子」
「そうなんだ。なんか、お兄ちゃんっぽいのに」
「そう?」
「靴擦れとか、気づくから」
言ってから、美桜は「あ」という顔をした。湊は聞こえなかったふりをして、紅茶を一口飲んだ。
「うち、親が二人とも遅いんだ。仕事で」
湊は、公園の鳩を見ながら言った。
「だから、小さいころから一人で留守番してて。手がかからない子だって、よく言われた」
「手がかからない子」
「うん。母親が冬に帰ってくると、手が氷みたいに冷たくてさ。玄関で、俺がその手をあっためてた。それくらいしか、できることなかったから」
美桜は、湊の横顔を見た。
湊は、何でもない話をするように言っていた。寂しかったとも、大変だったとも言わなかった。ただ、そういうことがあった、というだけの声だった。
「白瀬さんは?」
「私?」
美桜は、少し考えてから笑った。
「弟が一人。お父さんもお母さんも公務員で、けっこう厳しいの。お姉ちゃんなんだから、しっかりしなさい、って小さいころからずっと言われてて」
「しっかりしてるよね、白瀬さん」
「してるように、見せてるだけだよ」
美桜は、さらりと言った。言ってから、少しだけ驚いたように口を閉じた。
湊は、何も言わなかった。
美桜も、それ以上は言わなかった。二人のあいだで、缶の紅茶が少しずつぬるくなっていった。
手がかからない子と、しっかりしたお姉ちゃん。
湊は、なんとなく、似ているなと思った。何が似ているのかは、まだうまく言えなかった。
◇
結局、ランチの予約はキャンセルした。
雑貨屋も、三時の予定も、全部やめた。代わりに、公園の向かいのコンビニに入った。美桜は迷わずたまごサンドを手に取り、湊はツナのおにぎりを選んだ。
ベンチに戻って、二人で食べた。
「……しおり、全然守れなかったね」
美桜が、たまごサンドを頬張りながら言った。
「パンケーキと映画は守った」
「半分以下だよ」
美桜は、鞄からしおりを取り出した。それから、ペンで「ランチ」「雑貨屋」「三時 公園でひと休み」の行に、一本ずつ線を引いた。
線を引き終えて、しおりの余白に、小さく書き足した。
――十二時半 公園でたまごサンド
「何それ」
「実際にやったこと。記録しておかないと、研究にならないでしょ」
美桜は、少しだけ得意げに言った。
湊は、その丸い字を見て、笑った。
◇
その夜、美桜はベッドの上でスマホを握りしめていた。
画面には、湊とのトーク画面が開いている。実習のために交換したばかりで、まだ「よろしく」のスタンプが一つずつあるだけだった。
お礼を送らなきゃ、と思う。
美桜は指を動かした。
『湊くん、今日はすごく楽しかったよ! 足のこと気づいてくれて嬉しかった。パンケーキはきつかったけど、ベンチの紅茶はおいしかった。また行こうね』
打ち終えて、読み返す。
湊くん、のところで、顔が熱くなった。足のこと、と書いた自分にも驚いた。気づかれていたことに、気づいていると言ってしまっている。
美桜は長押しして、全部消した。
もう一度打つ。
『今日はありがとう! 楽しかったね』
楽しかった、と書くのは、ちょっと期待しているみたいだ。これも消した。
三回目に打ったのは、これだった。
『今日はお疲れ様でした。実習、順調だね』
送信ボタンの上で、親指が少しだけ止まった。
それから、押した。
送った瞬間、美桜はスマホを枕の下に押しこんで、顔をシーツに埋めた。
◇
同じころ、湊は自分の部屋の机に向かっていた。
宿題を開いてはいた。でも、シャーペンはさっきから一行も進んでいない。机の端に置いたスマホが、何度も視界の端に入った。
通知が鳴った。
湊は、思ったより早く画面に手を伸ばした。
――今日はお疲れ様でした。実習、順調だね
短い文だった。
湊は、それを二度読んだ。
実習、順調。
そうだよな、と思った。実習なんだから。
何を期待していたのか、自分でもよく分からなかった。楽しかった、と書いてあればよかったのか。また行こう、と書いてあればよかったのか。どちらも、湊が言っていいことではない気がした。
湊は少し考えて、返信を打った。
『お疲れ様。ゆっくり休んで』
送ってから、足のことを書けばよかったかと思った。でも、それは美桜が隠していたことだ。気づいていたと言ったら、美桜は困るかもしれない。
スマホを伏せて、湊はシャーペンを握り直した。
数学の問題文が、さっきより少しだけ遠く見えた。




