第一章 恋愛相談室、始動
生徒会室に呼び出されるような心当たりは、湊には一つもなかった。
ドアを開けると、長机の向こうで早乙女莉子が手帳を開いていた。銀縁の眼鏡の奥の目が、湊を一度だけ確認して、また手帳に戻る。ペン先が、チェックリストの一行に小さな印をつけた。
「朝倉くん。座って」
「……俺、何かした?」
「何もしてない。だから呼んだの」
意味が分からないまま、湊はパイプ椅子に腰を下ろした。莉子はクリアファイルから一枚の企画書を抜き出して、湊の前に滑らせる。
『文化祭企画案 恋愛相談ラジオ(仮)――生徒の悩みを可視化する恋愛相談室』
「生徒会と放送委員会の共同企画。校内に投函箱を置いて、恋愛の悩みを匿名で集める。それに回答して、文化祭当日にラジオ形式で放送する。準備期間中は、放課後に相談室を開く」
「恋愛相談」
「そう」
「……それ、俺に関係ある?」
「回答者をやってほしいの」
湊は企画書から顔を上げた。冗談を言っている顔ではなかった。莉子はそもそも冗談を言う顔をしていない。
「俺、恋愛経験ないけど」
「知ってる」
「知ってるんだ」
「経験より大事なことがあるの。相談の回答で一番まずいのは、回答者が感情的になって、どちらか一方の肩を持つこと。朝倉くんは感情的にならないし、誰の肩も持たない。この役には適任よ」
莉子は眼鏡を指で押し上げた。
褒められているのだと、頭では分かる。でも、胸のどこかがうまく受け取らなかった。誰の肩も持たない。それは、誰の味方でもないということと、どう違うのだろう。
「……褒められてる気がしないけど」
湊は企画書を両手で持ち直した。
「人が足りないなら、手伝うよ」
「ありがとう。助かる」
莉子があっさりチェックリストに印をつけたとき、生徒会室のドアがノックもなしに開いた。
「莉子ー、ポスターの案持ってき……」
声の主は、入り口で足を止めた。
白瀬美桜だった。
腕にはスケッチブックを抱えている。美桜は湊を見て、一瞬だけ目を丸くした。それから、教室で見るのと同じ、ちょうどいい明るさの笑顔になった。
「朝倉くんも相談室なんだ」
「今、決まった」
「そうなんだ。私、放送委員だから広報と司会なの。朝倉くん、よろしくね!」
差し出された笑顔に、湊は「よろしく」と小さく返した。
◇
相談室の拠点は、北校舎の三階にある旧視聴覚準備室だった。
使われなくなった機材の棚と、色あせた暗幕と、長机が三つ。窓を開けると、古い紙とほこりの匂いが少しだけ薄まる。莉子は部屋に入るなり、長机を三角形に並べ直した。一辺に自分、残りの二辺に湊と美桜。二人のあいだには、莉子の机がちょうど一つ分挟まっている。
「回答者同士が近すぎると、意見が引っ張られるから」
莉子はそう言って、段ボールで作った投函箱を机の真ん中に置いた。正面に「恋愛相談、受け付けます。匿名厳守」と、美桜の丸い字で書いてある。
「試しに昨日から一日だけ、購買の前に置いてみたの。一枚入ってた」
莉子が箱の蓋を開けて、四つ折りのカードを取り出した。三人の視線が、自然とそこに集まる。
莉子は咳払いを一つしてから、読み上げた。
「『恋人って、どうやって作るんですか?』――一年、匿名」
沈黙が落ちた。
窓の外で、吹奏楽部のトランペットが音階を一段ずつ上がっていく。
「……分からない」
最初に口を開いたのは湊だった。正直な感想だった。
美桜が、首をかしげた。
「恋人って、作るものなのかな」
「作るって言い方、変だよね」
「変だよね」
二人の目が、同時に莉子に向いた。
莉子は無言でカードを四つ折りに戻し、手帳に何かを書きこんだ。
「保留」
「え」
「答えられる人がいないから」
あまりに端的だったので、美桜が小さく吹き出した。湊もつられて、口の端が少しだけ緩んだ。
莉子だけが、真顔のまま手帳を閉じた。
「笑いごとじゃないの。このままだと、本番で一枚も答えられない」
◇
その日の帰り道は、たまたま美桜と同じ方向だった。
校門を出て、駅へ向かう坂道を下る。九月の夕方は、まだ蝉の声がところどころに残っていた。湊は半歩後ろを歩こうとしたが、美桜が歩く速さを合わせてくるので、結局並ぶことになった。
「さっきのカード、ずっと考えてたんだけど」
美桜が前を向いたまま言った。
「恋人の作り方って、私も分かんないんだよね」
「白瀬さんでも?」
「白瀬さんでも、って何」
「いや……告白とか、されてるって聞いたから」
言ってから、余計なことを言ったと思った。美桜の横顔が、ほんの少しだけ固くなった気がしたからだ。
でも、美桜はすぐに笑った。
「されるのと、付き合うのは違うよ。私、付き合ったことないもん」
「そうなんだ」
「意外?」
「……ちょっと」
「正直だなあ」
美桜は鞄の持ち手を両手で握り直した。坂の下に、駅のロータリーが見えてくる。
「でもさ、恋愛経験ゼロの二人が恋愛相談に答えるのって、無責任じゃない?」
「それは、思った」
「でしょ。だから考えたの」
美桜が足を止めた。湊も止まる。
夕日が、美桜の髪の縁を薄いオレンジ色に光らせていた。
「文化祭の当日まで。期間限定で、恋人の練習をしようよ」
「……練習?」
「恋愛実習」
美桜は、ものすごく真面目な顔で言った。
「放課後一緒に帰ったり、デートしたり、手をつないでみたり。そういうのを実際にやってみて、恋人ってどういう気持ちになるのか知るの。そしたら、ちゃんと相談にも答えられるでしょ」
湊は、言葉の意味を一つずつ確かめるように黙った。
恋人の練習。白瀬美桜と。
頭が、その組み合わせをうまく処理してくれない。
「あ、もちろん嫌になったら、すぐやめていいから! 無理にとかじゃないし、朝倉くんが困るなら全然」
「実習って……具体的に何をするの?」
「だから、今言ったみたいなこと」
「デートとか」
「デートとか」
「手を、つなぐとか」
「……とか」
美桜の声が、少しだけ小さくなった。でも顔は真剣なままだった。
「恋人の気持ちを知るための、真面目な研究!」
研究、と湊は口の中で繰り返した。
どうして自分なのだろう、と思った。美桜なら、もっと頼める相手がいくらでもいるはずだ。告白してきた三人の誰かでもいい。蓮でもいい。わざわざ、教室の隅にいる自分を選ぶ理由が分からない。
分からないけれど、断る理由も見つからなかった。
美桜が困っているなら、手伝えばいい。頼まれたことをやるのは、湊にとっていちばん楽なことだった。
「白瀬さんが、それでいいなら」
美桜は、一瞬だけ何かを言いたそうな顔をした。
でもそれはすぐに消えて、いつもの明るい笑顔になった。
「じゃあ、契約成立ね。文化祭まで、よろしくお願いします」
「……よろしくお願いします」
二人して頭を下げあったところで、改札の向こうから電車の到着を告げるアナウンスが聞こえた。
◇
電車のドアが閉まってから、美桜は、つり革をつかんだまま大きく息を吐いた。
言ってしまった。
窓に映る自分の顔が、少し赤い。夕日のせいだと思うことにした。
研究、と言った。真面目な研究。恋愛相談に答えるための実習。全部、嘘ではなかった。経験ゼロの二人が相談に答えるのは無責任だと、本気で思っている。
でも、それだけでもなかった。
生徒会室で「朝倉くんも相談室なんだ」と言ったとき、美桜は少しだけ驚いて、それから、少しだけ嬉しかった。驚いたことは顔に出してしまったけれど、嬉しかったことは、ちゃんと隠せたと思う。
どうして朝倉くんなのか、と聞かれたら、美桜は答えに困る。
たぶん、朝倉くんなら笑わないと思ったのだ。
手をつなぐのに失敗しても。名前を呼ぶのに照れても。理想どおりにできなくて、変な顔をしても。朝倉くんは、それを笑ったり、誰かに話したりしない気がした。進路室の前で、黙って紙を拾ってくれたみたいに。中学の、あの日みたいに。
でも、それは言わない。
言ったら、きっと重い。実習の相手を選ぶのに、そんな理由を持ち出す女の子は、たぶん恋愛小説の中でもちょっと面倒くさい部類に入る。
電車が揺れた。美桜は、つり革を握り直した。
――白瀬さんが、それでいいなら。
湊の声が、耳に残っていた。
それでいいなら。それは、いいということだ。断られなかった。それで十分のはずだった。
なのに、少しだけ胸に引っかかった。
朝倉くんは、それでいいの?
聞けばよかった、と思った。でも、聞いて「別に」と言われたら、たぶん今夜は眠れなかった。
美桜は、鞄から恋愛小説を取り出して、最初のページを開いた。何度も読んだ本だった。物語の中の二人は、最初からちゃんと、お互いの目を見て話していた。
◇
翌朝、湊が教室に入ると、蓮が待ち構えていた。
「おい、湊。お前、生徒会室に呼ばれたってマジ?」
「なんで知ってるの」
「早乙女が昨日、名簿持って歩いてた。回答者、朝倉湊って書いてあった」
蓮は、湊の机に両手をついて身を乗り出した。
「お前が恋愛相談? 恋愛経験ゼロのお前が?」
「人が足りないって言われたから」
「出た。頼まれたら断らないやつ」
蓮は、大げさに天井を仰いだ。それから、急ににやりと笑った。
「で、白瀬もいるんだって?」
湊は、鞄を机に置く手を一瞬止めた。
「……司会だって」
「ほう」
「ほう、じゃない」
「何も言ってねえよ」
蓮は、湊の肩に腕を回して、ぐいと引き寄せた。いつもの、大げさな肩の組み方だった。
「しょうがねえな。俺も手伝ってやるよ。設営とか、力仕事とか。恋愛の先輩として、アドバイスもしてやる」
「先輩なんだ」
「彼女いるからな、俺」
蓮は胸を張った。高校一年の春から付き合っている、別のクラスの水野カナのことだ。
そのとき、蓮のポケットでスマホが震えた。蓮は画面をちらりと見て、すぐにポケットに戻した。湊の肩から、腕がほどけた。
「カナ?」
「ん。まあな」
蓮は、机の端で、爪の先をいじっていた。湊が何か聞く前に、いつもの軽い声に戻った。
「恋愛なんてさ、何とかなるもんだよ。考えすぎんなって」
何とかなる。蓮の口癖だった。
湊は、その言葉を、なんとなく聞き流した。
◇
翌日の放課後、美桜は湊を空き教室に呼び出した。
相談室の隣の、今は物置になっている小さな教室だ。積み上げられた椅子の脚が、窓の光を細い影に切り分けている。
美桜は、黒板の前に立っていた。
手には、昨日の帰りに買ったばかりのノートがある。表紙に「恋愛実習」と書いた。書いたあとで、自分の字が思ったより丸くて、少し恥ずかしくなった。
湊が入ってくる。
「白瀬さん、用って」
「それ」
美桜は、ノートの角で湊を指した。
「その『白瀬さん』。実習にならないと思うの」
「……呼び方?」
「恋人同士って、名前で呼ぶでしょ。朝倉くん、白瀬さん、じゃ、どう見てもクラスメイトだもん」
自分で言いながら、心臓がうるさかった。
昨日の夜、恋愛小説を三冊読み返して、恋人になった二人が最初にすることを調べたのだ。三冊とも、名前で呼び合っていた。だからこれは、ちゃんと根拠のある実習なのだ。
「だから、練習」
「今?」
「今。ここで」
美桜は黒板の前から二歩、湊に近づいた。湊は一歩下がりかけて、後ろの椅子の山にぶつかって止まった。
思ったより、近い。
湊の顔を、こんなに近くで見たのは初めてだった。目が、少しだけ茶色い。困ったときに視線が下がる。今も、美桜の上履きのつま先あたりを見ている。
「じゃあ、私から言うね」
「う、うん」
美桜は息を吸った。
簡単なことだ。名前を呼ぶだけ。教室では毎日、誰かの名前を呼んでいる。
「……湊くん」
声に出した瞬間、耳の奥まで熱くなった。
湊が、ゆっくり顔を上げた。
目が合う。湊の喉が、小さく動いた。
「……美桜」
低くて、少しかすれた声だった。
だめだ、と思った。
「うわ、無理!」
美桜は両手で顔を覆った。指のすきまから、湊が耳まで真っ赤になっているのが見えた。
「心臓に悪い! これ、心臓に悪い!」
湊は咳払いを一つして、そっぽを向いた。
「……白瀬さんが、言い出したんだろ」
「戻ってる! もう戻ってる!」
「白瀬さんだって、戻ってるだろ」
「……戻ってないし」
「じゃあ、もう一回呼んで」
「……」
美桜は顔を覆ったまま、首を横に振った。無理だった。たった一回で、全身の血が顔に集まってしまった。二回目なんて言ったら、たぶん倒れる。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
窓の外で、野球部のノックの音が、乾いた間隔で響いている。
美桜は、そろそろと手を下ろした。湊はまだ窓の方を見ていた。耳はまだ赤かった。
自分だけじゃなかったんだ、と思ったら、少しだけ息ができた。
「……宿題」
「え?」
「名前呼びは、宿題にします!」
美桜はノートを開いて、一ページ目に大きく書いた。
――名前呼び(宿題)
「実習期間中に、できるようになること。これ、課題だから」
「課題なんだ」
「課題です」
湊が、ふっと笑った。教室では見たことのない、肩の力が抜けた笑い方だった。
美桜はノートを胸に押し当てた。
恋愛小説には、こんな場面は書いていなかった。名前を呼んだら顔が熱くなって、呼ばれたらもっと熱くなって、結局二人とも元に戻ってしまうなんて。
小説の恋人たちは、もっと上手にやっていたのに。
「……朝倉くん」
「何?」
「実習、がんばろうね」
「うん」
湊は頷いて、それから少し迷うように付け加えた。
「白瀬さんも、無理しなくていいから」
無理なんかしてない、と言おうとして、美桜は言葉を飲みこんだ。
代わりに、いつもの笑顔を作った。
「大丈夫。これ、研究だもん」
空き教室の窓から、九月の終わりに近い夕日が斜めに差しこんでいた。
二人の影が、床の上で、ほんの少しだけ重なっていた。




