プロローグ 恋愛に憧れる二人
九月の昼休みの教室は、夏の名残の熱をまだ少しだけ抱えている。窓を半分開けても風はほとんど入ってこず、カーテンがときどき思い出したように膨らむだけだった。
朝倉湊は、自分の席で冷めた弁当の塩鮭をほぐしながら、教室の真ん中をぼんやり眺めていた。
そこには白瀬美桜がいる。
机を三つ寄せた島の中心で、美桜は誰かの話に笑っていた。肩の上で切りそろえた髪が、笑うたびに小さく揺れる。男子が冗談を言えば、ちょうどいい大きさで笑う。女子が愚痴をこぼせば、ちょうどいい角度で首をかしげる。周りの誰もが、彼女に話しかけるとき少しだけ声が明るくなる。
すごいな、と湊は思う。
憧れではなかった。たとえば教室の天井の照明を見上げて、明るいなと思うのに近い。自分とは関係のない場所で、ちゃんと光っているもの。
「なあ、湊」
前の席の椅子が、ぎい、と鳴った。神谷蓮が背もたれをまたいで座り直し、湊の机に肘をついている。購買の袋からコロッケパンを出しながら、視線だけで教室の真ん中を示した。
「白瀬の話、聞いた?」
「何の」
「告白全滅伝説。今学期に入ってもう三人目らしいぜ。サッカー部の二年と、生徒会の三年と、あと名前忘れたけど誰か」
「名前忘れられた人がかわいそうだろ」
「そこはいいんだよ」
蓮はパンの袋を歯で開けた。
「あんな可愛いのに全員断ってんだって。理想が富士山より高いんだってよ。あれは雲の上に住んでるね」
「白瀬さんにも、色々事情があるんだろ」
湊は出汁巻き卵を箸で半分に切った。
蓮は一拍置いてから、わざとらしく大きなため息をついた。
「出た。湊の『無害な傍観者』モード」
「何それ」
「何でも『事情があるんだろ』で終わらせるやつ。お前、もうちょっと人間に興味持てよ」
「持ってるよ」
「じゃあ白瀬のこと、どう思う?」
湊は箸を止めた。
どう思う、と聞かれると、答えに困る。可愛いと思う。明るいと思う。いつも誰かに囲まれていると思う。でも、それは誰が見ても同じことで、湊が「思っている」ことではない気がした。
「……すごい人だと思う」
「それ、天気の感想と一緒だから」
蓮は呆れたように笑って、コロッケパンにかじりついた。
湊は自分の弁当箱に目を戻した。恋愛、というものを、湊はうまく想像できない。誰かを好きになって、その人に好きだと言って、その人も自分を好きだと言う。そういう物語があることは知っている。でも、自分がその中に入っている絵は、どうしても浮かばなかった。
誰かの特別になる、というのは、たぶん選ばれるということだ。選ばれるには、選ばれる理由がいる。自分にそれがあるとは、湊には思えなかった。
教室の真ん中で、また笑い声が上がった。
美桜が、ほんの一瞬だけこちらを見た気がした。
気のせいだろう、と湊は思った。
◇
放課後の進路室前の廊下は、人通りが少ない。窓から差しこむ西日が、床のリノリウムに細長い四角を並べていた。
白瀬美桜は、両腕いっぱいに書類を抱えて歩いていた。担任に頼まれた進路希望調査の束と、放送委員会の配布物と、自分の分の大学案内。重ねすぎたと気づいたときには、もう遅かった。
角を曲がった拍子に、いちばん上の束が滑った。
「あっ」
ばさばさと音を立てて、紙が廊下に広がる。追いかけるように二つ目の束も崩れて、美桜の足元はたちまち白い紙で埋まった。
最悪、と思うより先に、顔が勝手に笑顔を作っていた。誰かに見られたときのための顔だ。「やっちゃった」と軽く笑えば、だいたいのことは可愛い失敗になる。
でも、誰も笑わなかった。
通りかかった男子が一人、何も言わずにしゃがみこんだだけだった。
朝倉湊だった。
湊は散らばった紙を一枚ずつ拾い、角をそろえて重ねていく。急ぐでもなく、のろのろするでもなく、ただ手を動かしている。「大丈夫?」とも「重そうだね」とも言わない。進路希望調査は進路希望調査の束に、委員会の配布物は配布物の束に、ちゃんと分けて置いていく。
美桜は、作りかけた笑顔のまま固まった。
――あの時と同じだ。
中学三年の文化祭の前日。誰もいなくなった教室の隅で、美桜は一人で泣いていた。そこへ、隣のクラスの男子が通りかかった。彼は理由も聞かずに隣に座って、こう言ったのだ。
これ、どこまでやればいい?
あの時も、こんなふうに、ただ手を動かしていた。
「あ……朝倉、くん」
声が少しかすれた。
湊は最後の一枚を拾って、二つの束を美桜に差し出した。
「これ、落ちてましたよ」
同じクラスなのに、敬語だった。湊は誰に対してもそうだ。踏みこまない距離を、言葉づかいで保っている。
「あ、ありがとう」
「失礼します」
湊は小さく会釈して、そのまま廊下を歩いていった。振り返らない。美桜の顔を、ちゃんと見ることもなかった。
美桜は書類を抱え直して、遠ざかる背中を見送った。
覚えてないのかな。
胸の奥で小さく問いかけて、すぐに自分で首を振る。
ううん、その方が助かるかも。
あの日の自分は、目を真っ赤にして、鼻をすすって、飾りの花を握りつぶしていた。あんな顔を覚えられていたら、恥ずかしくて同じ教室にいられない。
なのに、胸がちくりとした。
美桜は窓の外に目をやった。グラウンドの向こうで、陸上部がハードルを並べている。その中に親友の遥の姿を探しながら、美桜はふと、鞄の中の文庫本のことを考えた。昨日読み終えた恋愛小説だ。最後のページで、二人は「好き」と言い合っていた。
好きな人同士が、ちゃんと「好き」と言う。
そういう恋が、したかった。
何度か告白されたことはある。そのたびに、美桜は申し訳なく思いながら断ってきた。相手が好きだと言っているのは、教室の真ん中で笑っている「白瀬美桜」のことだと分かってしまうからだ。ちょうどいい大きさで笑う、ちょうどいい角度で首をかしげる、誰にとっても感じのいい女の子。
それは嘘ではない。でも、それだけでもなかった。
美桜は書類の束を胸に押しつけて、進路室のドアをノックした。
廊下の先で、湊の姿はもう見えなくなっていた。
この二週間後、二人は同じ部屋で、恋愛相談の投函箱を開けることになる。
そのとき美桜が思いつく、少しずるい提案のことを、まだ二人とも知らなかった。




