証明
「さっきから何回も言ってるでしょう」
「だからそれは被害者の名前だろうが。お前の本名を言えと言ってるんだ」
進展しない不毛なやり取りに苛立った刑事がテーブルを叩く。
「身分証明できるものとかないのかよ」
うんざりした様子の刑事がそう言うと、
「それならいくらでもありますよ」
僕は啖呵を切って財布の中を見た。
この中には大事なものが色々と詰まっている。身分証ぐらいいくらでもあるのだ。
余裕をかましながら札入れに指を突っ込んだ。
が、愕然とする。紙幣がある。レシートのゴミも、定食屋の割引券もある。それなのに、学生証がない。免許証も、保険証も、交通系ICも、クレジットカードも。身分証明ができるものが一枚も残っていない。
そんな馬鹿な。昨日までは確かにあったはずだ。
急に全身に悪寒が走った。冷や汗が脇を湿らす。
財布の中など、そんなに探す場所などないにもかかわらず、未練がましくあらゆる場所を探り直す。紙幣入れもカード入れも、果ては小銭入れにまで指を突っ込んで調べる。
それでも見つからず、顔面から血の気が引いていくのを覚えた。
嘘だろ……。
財布の中にないなら荷物の中だ。
リュックの中に捜査の手が及ぶ。だが、元からそんなに中に物が詰め込まれているわけでもない。そもそも、こんなところにカード類を入れた覚えがない。
それでもそこに縋るしかなかった。ここになかったら——。
そんなはずはない。あるはずだ。いきなり身分証明書だけが神隠しに会うわけがない。
だがそんな一縷の希望も、脆くも崩れ去った。
リュックの中も、その内外に取り付けられた大小様々なポケットの中も、至る所しらみ潰しに調べても、それらを見つけることができなかったのだ。
「どうしたんだ? あるなら早く出しなさい」
仏頂面の刑事の顔を見返すことができない。か細すぎて声とも言えない声が口をついて出る。
「……せん」
「何?」
それは刑事の耳元には届いていなかったらしい。刑事が身を乗り出して催促しているのが、直視せずとも雰囲気でわかった。
唾を飲み込み、やっとの思いで声を絞り出す。
「……ありませんでした」
その瞬間、取調室の中の空気が張り詰めたような気がした。刑事がさらなる追求のために息を吸い込む音まではっきりと聞こえた。
何か言われる前に、なんとかしないと。
焦った僕は慌てて二の句を継ぐ。
「でも、待ってください。昨日までは確かにあったんです」
喋っている間に一つの可能性を思いついた。
「そ、そうだ! あいつが盗んだんだ。僕が寝ている間に、財布の中から身分証を——」
「いい加減にしろ!」
怒声とテーブルを叩く鈍い音にびっくりして反射的に口を噤んでしまう。刑事は最早怒るというより憮然とした顔をしていた。
「わざわざ家に入り込んだってのに、金には手をつけず、身分証だけ盗むなんて、そんなことして一体何になるっていうんだ?」
「それは……」
そんなこと言われても僕にはわからない。相手は僕になりすまそうとしている得体の知れないやつなんだ。そんな気狂いの行動理由なんて、一般人の僕にわかるわけがない。
言葉に詰まっていると、刑事がまたも呆れを表意する溜息を吐いた。
「今のお前には身分証明ができないってことか?」
まるで日本語の不自由な外国人が必死に話している言葉を、なんとか理解できる日本語に翻訳しているかのように、刑事は尋ねた。
「違います。名前は何度も名乗ったでしょう」
「だからそれは被害者の名前だと言ってるだろうが。証明が出来ないとお前の名前にはならないんだよ。その証明をしろと言ってるんだ」
またも同じ問答の繰り返しだ。
証明をしろと言われても、どうしたら良いものか。
困窮した僕を見兼ねたらしく、刑事が助け舟を出す始末である。
「何かないのかね。君にしかできないこととか」
「そうだ。家族構成が言えます。職場やなんかも事細かく」
これなら、と思ったのだが、刑事は無下に一蹴する。
「そんなもの何の意味にもならん。今や個人情報なんてそこらで売買されてるんだ。それが言えたからってお前がその家族の一員だとは言えない」
「じゃ、じゃあ、家族との思い出を」
「あのなあ、そんなの今はSNSだとかブログだとかで調べれば出てくるんだよ。意味がないって言ってるだろ」
「それなら家族に顔を見てもらって——」
刑事は大きな溜息を吐いた。僕と話すのに疲れているようにも見える。
「もうとっくに被害者の方は両親と合流している。彼のことを自分の息子だと認めているよ。さっきそこからお前の取り調べの様子を見ていたが――」
刑事は壁の鏡を指さした。ドラマでよくあるマジックミラーだ。隣の部屋からはこの部屋を透かして見ることが出来るようになっている。
「この人は自分の子供じゃない。自分の子を間違えるわけがないと言ってたぞ」
がっくりと肩が落ちた。自分の親から自分の存在が否定される絶望。
いつの間にか、あの偽物に、親まで洗脳されていたのだ。
「そ、そうだ! ならDNA鑑定を――」
「そんなこと、する意味もないと思うがね」
「お願いします。一生のお願いです。これなら確実です。絶対に証明できます。お願いです。頼みます。この通りです」
相手にもしようとしない刑事に、僕は頭を床に擦り付ける勢いで懇願した。彼の制止も構わず、皮膚が擦り切れて血が出る勢いで頭を下げ続けた。
いい加減にしろという刑事の再三の忠告も無視し続け、声を枯らして願い倒した結果、どうにかこうにかDNA鑑定が実施されることが決まった。
これでようやく僕の正しさが証明されるはずだ。いかにあの得体の知れない男に洗脳されていようとも、体内構造まで変わるわけではあるまい。
僕はコンクリート剥き出しの冷たい留置場にぶちこまれたが、それでも耐えた。
リュックから身分証を探している時の、ほとんど望み薄な希望ではない。確実に助かる道があるのだ。




