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交錯

「もう一人の自分を見たあ?」


 小林が素っ頓狂な声を上げたものだから、周囲の注目を浴びる。


「ちょっ、静かにしろって」


 午前の講義が終わり、僕たちは三人で学食にやってきた。この時間はいつも大盛況で、外の方にまで行列が並んでしまう有様だ。

 大勢の雑音で騒々しいが、それでも小林の声は一瞬学食全体を白けさせるような大声で、周りの煙たがっているような、訝しそうな目が胸に痛く刺さった。


「そりゃあれだろ、ドッペルゲンガーって奴じゃないの」


 申し訳程度にトーンを落とした小林の口から漏れたドッペルゲンガーという単語。

 もちろん僕も知っている。

 もう一人の自分を見てしまったり、同じ人間が同時に二箇所に存在するとかいうあれだ。そして何より恐ろしい逸話がある。

 

「ドッペルゲンガーっていうと、あの、見ると死ぬとかいう……」


「まあそんな話もあるがな。そういうオカルトっぽいのは単なる創作で、実際には脳の障害によるものだとかいう話もあるんだ。自己像幻視っていうらしいが。脳の腫瘍が原因で、自分で自分を見てしまうような幻覚が起こるんだそうだ」


「でも、ドッペルゲンガーって喋らないっていう話を聞いたこともあるけど。今朝見たのは小林たちと喋ってたし」


 小林は腕を組んで唸った。


「う〜ん、それなら、離人症って奴かもしれないな」


「離人症?」


 聞き慣れない言葉だったらしく、水本が訊き返す。僕も知らなかったが、小林が軽く説明した。


「いや、俺もそう詳しくは知らないけどな。自分の身体が自分のものじゃないように感じたり、自分を別のところから見ている気分になるような障害らしい」


 今朝の自分と照らし合わせて考えてみる。

 だが、どうも腑に落ちない。


「そういうんじゃないと思うんだけど……」


 あれは、自分を別のところから見ているのではなく、僕とは異なる独立した意思を持った、僕と瓜二つではあるものの、まったく別個の個体を見ていたのだ。あの薄気味の悪さと言ったら。

 異物が僕の格好で同じ生活空間を侵食しているのだ。今思い出してもぶるりと肌が粟立つ。


「まあなんにせよ、病院に行った方がいいかもしれないな。少なくとも得体の知れない自分にそっくりのどこかの誰かが、自分になりすまそうとしているなんて、妄想甚だし過ぎるって」


「そう……なのかなあ」


「そうだって。まああんま深く考えないこった。ストレスがかかると余計にそういう幻覚を見たりするらしいし」


 小林は今朝僕が遭遇した出来事を、完全に僕の肉体的あるいは精神的な病気が原因であると結論付けたいようだった。

 僕にだって、自分の主張があまりに荒唐無稽であることはわかりきっている。金持ちの息子ならともかく、僕のようなどこにでもいる普通の大学生にわざわざなりすまして、一体何の得があるというのか。彼の言うように、妄想というのが相応しい。

 とはいえ、自分が感じた感覚にはそれなりの自信がある。だから彼の主張を受け入れることなどできなかったし、それではどうしても納得がいかなかった。

 あの場には確実に、自分によく似た、自分の真似をしている別の人間がいたのだ。

 あれが本当は自分で、その姿を外から見ているような幻覚を起こしていた。そういう風にはどうしても思えなかった。

 小林にも水本にも理解してもらえず、悶々とした気持ちのまま僕は帰宅の途に就いた。

 サークルの部室に顔を出せるような気分でもなく、いつもよりも早い時間——まだ日の出ているうちに家に着いた。

 大して活動していないというのに、まるで両肩に岩がのしかかっているような身体の怠さ。

 僕は足を引きずるようにして、玄関の扉を開けた。

 そこで、違和感に気付いた。

 玄関に置かれた靴。いくつもの靴が無造作に置かれている中で、僕の視線はそのうちの一つに釘付けになった。

 それは僕が今履いている靴。

 今朝履いて、大学に行き、そのまま今も履いている靴だ。

 それが今、まだ脱いでいないというのに、玄関の真ん中に放り出されるような形で乱雑に置かれている。

 これと同じ靴は家にないはずだ。

 とすれば、もしや。

 今朝のことがフラッシュバックする。

 僕は慌てて靴を脱ぎ捨てると、廊下を駆け出していた。

 扉の閉まっている居間の方から声が聞こえる。

 母と誰かの声だ。

 まだ父が帰ってくる時間ではない。うちは僕と父と母の三人暮らし。玄関に来客の靴はなかった。

 居間の扉に手をかけるまでの短い間に、弾き出された結論は、やはり今朝と同じだった。

 今そこに、あいつがいる。

 今度こそは、と僕は扉に手をかけた。

 一瞬躊躇いが襲ってきたものの、それを払いのけ、意を決する。


「ただいま!」


 扉を開けて居間に入り込むと、椅子に座っていた母が、目を丸くして僕に応えた。


「どうしたの、そんなに大声出して。わかってるわよ」


「わかってるってどういう意味」


 勢い込んで訊く僕にたじたじになる母。

 

「どういう意味もこういう意味も、今部屋に荷物置きに行くって出てったじゃない。荷物置いてきてないし」


 母は居間の扉を指差した。僕が今入ってきた扉だ。

 あいつはあの扉から出たっていうのか。

 だが、僕は居間から出てきたそいつの姿を見ていない。

 頭が痛くなってきた。ぐらりと足元が揺らぐ。もしかしたら本当に精神的なものが原因なのかもしれない。

 母が心配して何か呼びかけているようだったが、僕の耳には届いていなかった。

 僕はそのまま玄関まで引き返した。

 もうそこに靴はなかった。

 ふらふらの体で居間に戻ってくる。


「どうしたの一体」


 声をかけてくれる母に返事をする気力もない。

 午後の報道番組がテレビから流れていた。


『昨日は――線の人身事故の影響で、――駅はご覧のように利用客の姿でごった返していました』


 昨日の電車の事故で混乱していた最寄りの駅の様子が映し出されている。

 何人かの客がインタビューを受けていたが、その背景の中に僕の姿が一瞬映し出され、僕はすっかり打ちのめされた。


『続いてのニュースです。政府は、近頃急速に増え続けているホームレス問題に対して、新たな施策法案を国会に提出――』


 内容が切り替わっても、僕の頭は切り替われない。

 僕は昨日電車に乗っていないし、駅には近づいてすらいない。僕がこの画面に映ることなどありえないのだ。

 別の僕が勝手にどこかをうろつきまわっている。

 恐らくはきっと、今もそうやっているのだ。

 次から次へと、もう一人の自分の存在が顕在化してくる。SNSばかりでなく、現実まで乗っ取るつもりなのか。

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