遭遇
少し遅れてしまった。
キャンパスに入ると、僕と同じように遅刻しかけた学生たちが何人か、大慌てで講義室に向かっている。
今日の最初の講義は大学の正門からは少し距離のある講義棟で行われる。僕は走ってそこへ向かった。
だが、その時である。
少し前を行く三人組が、僕の視界に入った。
既視感のある光景だった。
右端の背が高くてガタイの良い男。あれは水本ではないだろうか。
真ん中の猫背気味で長い髪の男。長い付き合いだから、あの後ろ姿には確信がある。小林だ。
そして左端にいるのは……?
その後ろ姿には見覚えがない。だが、あの髪型は。あの服装は。
僕は思わず首を捻って自分の背中を見た。そして再びあの三人組の左端にいる男の背中を凝視する。
急いでいた足が完全に止まる。後ろからきていた誰かが背中にぶつかり舌打ちをしたが、そんなものは気にもならなかった。
あれは……、あれは……。
僕——?
そんな馬鹿な、と苦笑して首を振る。ありえない。
だが、前にいる左端の男が、隣の小林たちに話しかけた時、その横顔がはっきりと視認できた。
そしてそのあまりにも非現実的な考えを、嘲笑できなくなってしまった。苦笑したまま顔が固まる。と言うより、引き攣っていた。
その顔は間違いなく、自分のものだったのだ。
あそこにいるのは僕。否、僕そっくりの誰かなのだ。
僕は急いで前の三人に合流しようと走った。しかし一足先に彼らは講義棟の中に入ってしまう。
彼らの姿が建物に飲み込まれて、ようやっとはっとした。
唖然としていたら、すっかり彼らから引き離されてしまった。
僕はギアをあげた。太股が悲鳴を上げていても御構い無しに走り、やっとの思いで講義棟の中に入ると、小林と水本がびっくりした顔で僕を出迎えた。
「お前どうしてそこから?」
小林の言っている意味がわからなかった。それよりあいつはどこだ。
周囲に目を配らせてみたが、僕の姿は見えなかった。
逃したのか。
もしもいたら引っ捕まえて問いただしてやったのに。
舌打ちが出る。
笑っている膝頭を抑えつつ、切らした息を整えながら、
「そこからってどういう意味だ?」
そう尋ねてみると、二人は怪訝そうに目を見合わせた。
「どういうも何も、さっきお前ちょっとトイレに行くって言ってたじゃねえか」
「それがいきなり入り口から入って来るんだから、驚いたよ。わざわざ俺たちを脅かすために、コソ泥みたいにトイレの窓から出てったのか?」
あいつはトイレに行ったのか。
それを聞いた僕の身体は咄嗟にそこへ向かっていた。
トイレは入り口の目と鼻の先である。
中に駆け込んで見ると、小便器は誰も使っていないが、個室の扉が閉まっている。唯一の窓は内から施錠されていた。
つまり奴はまだこの中にいる。
個室の扉は三つ。僕はまず手前から調べることにした。
一つ目の扉に手をかける。
鍵はかかっていない。掌に体重をかけると、耳障りな軋みを立てて扉がゆっくりと開く。
最初は恐る恐る開き、隙間から内部の様子を窺っていたが、どうも誰かがいるような気配が感じられない。一気に開いてみると、やはりそこには誰もいなかった。
次の扉も同じである。この個室にも誰もいない。
となると——、
僕は最後の扉に視線を投げた。
ごくりと生唾を飲み込んだ。心臓が早鐘を打つ。
そこにいる。追い詰めたのだ。得体の知れない、僕の振りをした何者かを。
ついさっきまではとっ捕まえてその悪事を白状させてやり、然るべき所に出頭させる腹積りで勢い込んでいた。だがそれも、この三番目の扉を前にして、雲散霧消してしまう。
本当に僕は追い詰めたのだろうか。
ふと、そんな疑問が頭を掠める。掠めたその疑問は、まるで切り傷が端の方からじわじわと皮膚を切り開いていくように、徐々に徐々に拡大していく。そしてそれは、内に潜んでいた不安という血を辺りに撒き散らし始める。
追い詰められているのは自分の方ではないのか。こんな所に丸腰で乗り込んで、奴が何か企んでいたらどうする。普通の人間ならともかく、相手は僕になりすまそうとしている奴だ。理由も目的もわからない。そんな狂人が反旗を翻したら、平凡な大学生の僕に一体何ができる?
そうやって扉の前で自問自答していたが、
——ガタンッ。
唐突に扉の向こうで音がして、僕はびくりと身体を縮こませた。
やはりいる。そこに。
しかしそれで踏ん切りがついた。
僕は意を決して、扉に手をかけようとした——その時、
——ギイイイッ。
まだ触れていないその扉が、勝手に開いた。中にいる人物が開けたのだ。
思いもよらない事態に、僕は完全に硬直していた。思考が混乱している。頭の中で狼狽するだけで身体は何もできない。逃げることも攻勢に出ることも反撃に備えることも。ただ愚者のように無防備に立ち竦むばかり。
僕は奴の正体を知りたいような、知りたくないような、相反する感情に苛まれながら、ただその扉が開ききるのを待つだけだった。
——が、
「あ、すみません」
滑稽とも思える便器の流水音とともに個室から現れたのは僕が想像していたのとは全くの別人だった。ここの学生なのだろうが、どこの誰かもわからない。顔を合わせたことのない男だった。当然服装も僕のものとはまるで違う。
僕は彼をまじまじと見つめていたが、当の彼は軽く会釈をすると、するりと僕の前を通り抜け、手を洗ってさっさと外に出てしまった。
彼の入っていた個室には、当然他の誰も存在していない。
拍子抜けしたと同時に、狐につままれたような気分になった。
僕になりすました男は、密室の中から煙のように消えてしまったのだ。




