涙
アイグレーは帰還した同盟軍に水を渡して回る。もう同盟軍という呼び名で良いのかは分からないが。
一通り渡し終わり、アイグレーは息を吐き出した。
終わったのだ。この楽園から、危機は去った。
失ったものは多いけれど、アイグレーは安心している。彼女がクレウテの地を踏む事はもう無いだろう。でも、大切な者は守られたのだ。それで良い。アイグレーは微笑んだ。
ティフォン族は帰還したディオメデスが指揮する一隊により押し返され、彼らに遅れて到着したアイアコスが率いる者達によって壊滅状態に陥った。
そして、敵は完全に引き上げて行ったのだ。どんなに優秀な軍でも、頭を、多くの手を失えば力を無くす。
エリシオンの危機は去った。だが、新たな問題が浮上している。それは、クレウテ。
裏切りを犯したかの国を許さない者が多く居たのだ。エリシオンを愛する者達にとって、それは当たり前だった。当然の感情をアトラスは咎められない。彼もまた、許せなかったから。
そんな中で、ディオメデスは感謝された。アトラスを救い出し、ティフォン族からエリシオンの民を守った。その事実がクレウテの将である彼を英雄として扱う。その事に僅かに居心地の悪さを感じるディオメデスであったが、感謝するエリシオンの民の笑顔や涙は嬉しかった。
アトラスはクレウテへの対応に悩んだ。あそこはアイグレーが幼き日々を過ごした場所なのだ。あまり荒らしたくはない。だが、アトラスの元に届く民の声はクレウテへの報復を願う物だった。
「アイグレー」
アイアコスが丘からクレウテの方を眺める妹を呼ぶ。アイグレーは兄の呼び掛けに微笑みを返した。クレウテへの報復を望む民をアイグレーは憎まないのだと、伝える為に。
アイグレーの笑みにアイアコスは溜息を吐き出す。
「父が呼んでいる。行こう」
アイグレーは兄の背中に違和感を覚えながら追い掛けた。その時は迫っている。
エリテュイアは父と弟の考えに賛成出来なかった。目の前に座るアトラスを責める様な目で見つめる。娘の視線をアトラスは無言で受け入れた。
分かっているのだ。この選択が苦しめてしまうと。だからこそ、アトラスは黙って彼女の眼差しを受け入れる。
「父上」
アトラスはやって来た息子に目を向けた。彼の後ろには先程話題になった娘も居る。アトラスはアイグレーを見つめた。
「アイグレー」
「はい」
「ウルカーヌスをイリアスに送る」
アイグレーは目を見開いた。その目には戸惑いが宿っている。彼女の頭の中では疑問が巡っているだろう。アトラスはその疑問に応えるつもりは無かった。応えるべきでは無いと言う方が正しいだろうか。
「これは決定した事だ」
アトラスの言葉に肩を震わせたアイグレーは踵を返して走り去る。
「アイグレー!」
その背中をエリテュイアが追う。部屋から出る際、一瞬アトラスに目を向けてから。それは確認だった。本当はアトラス自身が慰めてやりたかっただろう。でも、その役目は将軍では出来ないのだ。
だからこそ、エリテュイアは父の目を見てから走り出す。彼の思いを伝えたかった。本当は苦しんでいる優しい父の思いを。
娘達を見送ったアトラスは息を吐き出した。周囲が思っていた以上に彼は疲弊しているのだ。だが、その眼光は衰えない。鋭さのある眼でアトラスは息子に視線を向けた。
「アイグレー!」
姉の声に彼女は足を止める。振り向いた彼女の目は潤んでいた。




